石戸四六単語

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石戸四六(いしど しろく)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1941年6月4日生まれ。秋田県大館市出身。

秋田商業高等学校に進学。1958年夏の甲子園大会に出場したが、初戦で板東英二擁する徳島商業高校とあたり、石戸のエラーも絡み完封負けを喫している。

卒業後は日立製作所に入社。1962年都市対抗野球日本工業日立の補強選手として出場し、勝利を挙げるなど活躍し、プロからも注されるようになる。

1962年9月テスト生扱いで国鉄スワローズに入団。

入団から3年間はほぼ中継ぎ投手での登板であり、勝ちし。

4年1965年大洋ホエールズ戦で四球完封勝利を達成するなど、シーズンが進むごとに存在感が増していき、チーム2位の8勝を挙げるなど、低迷するサンケイのエース格としてブレイク防御率も3.05と安定していた。

1966年には初の二桁勝利到達となる11勝を挙げたが、翌1967年は12勝を挙げるも18敗で最多敗戦投手となってしまった。

1968年金田正一に次ぐ球団2人の20勝投手となり、防御率もキャリアハイとなる2.84(セ・リーグ8位)をマーク場には初めてオールスターゲームにも出場した。

1969年、2年連続でオールスターゲームに出場し、最終的には16勝13敗、防御率3.48の成績を残した。

だが1970年は体調を崩してしまい本来の投球ができず、3勝15敗と大きく負け越し。もともと球界きってのとして知られていた石戸であったが、そのが原因で肝機障害や慢性炎など体の内面はボロボロの状態になっていた。

その後年俸の大幅ダウン提示を受け保留したが、翌年のキャンプ前になっても契約更改せずそのまま現役を引退した。

引退後は『神宮』という名のスナックを経営していたという。

1980年8月2日肝硬変のため死去。享年39歳。

プレースタイル・人物

エース金田正一の移籍後、低迷するサンケイを支えたサイドハンドエース。キレのあるシュート武器に度胸満点に攻める投球スタイルで活躍した。

大の好きであり、ステテコ姿に湯碗での飲生きがいる「投手」としても知られる。

引退前には「一晩で一、二でもいけたのに、最近はビール1本でも嫌になる。どこか体が悪いんだ」とり、その後実際医者からドクターストップがかかっての引退を決意したようである。

通算成績

通算:9年 登板 先発 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 301 180 45 10 70 90 -- -- .438 1319.2 313 516 560 504 3.44

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