神国とは、
本記事では上記の1.について記載する。
概要
古代の神国思想
八百万の神がいる神道の国であり、また天照大神の子孫であられる天皇家が、外国の王室と異なり途切れることなく現在にいたる様、天皇を中心とした国である様から、日本で自国を指して使用される。
「しんこく」とも「かみぐに」とも読む。
この表現は『日本書紀』内の第九巻、神功皇后による新羅征伐に関する記述内で初出したとされ、
乃今醒之曰、吾聞、東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。
(現代語訳例:気を取り戻した新羅王はこう言った。「聞いたことがある。東には神国があると。それは日本と呼ばれている。そこには聖なる王が居ると。天皇と呼ばれている。これはその国の神兵が攻めてきたに違いあるまい。」)
とある。
この記述の後、新羅王は日本の軍勢に恐れおののき、戦うのをやめた。
そして自ら後ろ手に縛って、神功皇后の船の前に跪いて地に頭をつけ、降伏を申し出つつ「これ以後、天地のごとき長きにわたって、馬飼いとなります。船の舵が乾かないほど頻繁に、馬具や男女の働き手などの貢ぎものを献上いたします……」等と服従の言葉を申し立てる。
この新羅王について「殺してしまうべきだ」と言う者もあったが、神功皇后はそれを諫めて「神の教えに従って既に金銀の国、財宝の国を得ました。自ら降伏した者を殺しはしません。縛りを解いて馬飼いにするように」と指示した。
上記のような日本書紀の記述や「神国」というキーワードは、戦争における士気を鼓舞し自らに正当性を与えるものでもあるため、歴史上何度も折に触れて引用されてきた。
神国思想の変遷
以上のような「八百万の神々と、その皇孫である万世一系の皇室が治す国」という古代の神国思想は鎌倉時代には風化していた。当時の神国思想における「神」とは仏教の仏を指しており、鎌倉時代の人々は日本の神々とは仏や菩薩が姿を変えたものだと考えていた(本地垂迹説)。イザナミ、イザナギなどの高天原の日本神話は中世人にはほとんど知られておらず、一方で「アマテラスは大日如来の化身」だとか「熊野三山は阿弥陀三尊の垂迹」だとかの神道説が広く普及する。一応は伊勢神道や、それに影響を受けた北畠親房の『神皇正統記』など皇室と神国を結びつける思想も存在したが、それらは神秘的すぎて一般民衆には近寄り難いものであった。このような状況では八百万の神々や天皇家が神国思想と結びつくはずもなく、中世の人々にとっての神国とはまず神や仏の座す日本という物理的な国土こそが一義であった。
近世に入ると本居宣長に代表される国学者達は古事記を研究し、仏教や儒教の影響を排した神国思想を展開した。宣長の没後の門弟である平田篤胤は『霊能真柱』の中で「日本が世界の根本の国」であると主張し、「日本の万事万物は万国に優れている」「諸外国は日本誕生のついでに生まれた」「わが天皇が万国の大君」「アダムとイブ神話はイザナギ、イザナギ神話が歪んで伝わったものだ」と過激な神国論を並べている。篤胤に薫陶を受けた弟子達は維新期に廃仏毀釈運動に参画し、由緒ある仏閣、文書を大量に破壊した。明治憲法では第一条に「大日本帝󠄁國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記載され、日本は「神の子孫である皇室が統治する神国」となった。近代神国思想はやがて「日本国民は他より優れた民族であり、世界の支配者となる運命を有す」と侵略イデオロギーへと転換していくこととなる。戦後は昭和天皇の人間宣言もあり日本が神の国であるという観念は薄れたが、平成12年に森喜朗首相(当時)が「日本は神の国」と発言する舌禍事件も発生している。
関連項目
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