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神奈川県町田市とは、神奈川県にあるとされる町田市のことである。
概要
ただし、東京都の中でもかなり南側に出っ張っており、周囲を神奈川県に囲まれている。下の図の赤い矢印のところが町田市である。
そのため、「町田市は神奈川県にした方がいいのでは?」と言われるようになり、さらには「神奈川県町田市」という言葉も生まれた。ジョークとして言われることが多いが、中には本当に勘違いしている人もいる。
中には「神奈川県町田市」という扱いをされること自体を嫌う町田市民の方もいるので、ところかまわず使うのは避けた方がよい。もし当記事を読み、不快な気分になった方がいたら申し訳ない。
神奈川県町田市の事例
上記以外にも「神奈川県町田市」と言われてしまう理由は複数存在する。
町田駅南口
町田駅は、小田急線とJR横浜線が交差する町田市の中心的な駅である。
上の写真の養生テープに囲まれた部分に、エスカレーターに乗る際の注意書きが「相模原市」の文字とともに貼られている。
実際に南口の階段の辺りに、東京と神奈川の境界が走っており(地図)、南口右側のエスカレーターは相模原市が管理している。
さらに、駅前のデニーズ町田駅南口店はすでに神奈川県である。町田駅南交差点も神奈川県である。2021年まであった町田ボウリングセンターも神奈川県にあった。
南口のヨドバシカメラも東京都と神奈川県の県境が近い。そのため、立体駐車場を上ろうとするとカーナビが「東京都に入りました」「神奈川県に入りました」「東京都に…」と連呼する現象もあったという話がある(カーナビの性能や、収録されている地図の境界線の引かれ方によっても異なるので必ず起こるわけではない)。
町田駅だけでなく、町田市役所すらも非常に県境ギリギリのところにある(地図)。
上写真:町田市役所
(神奈川県相模原市鵜野森団地前から撮影)
駅や市役所がある町田市の南西部では、主に「境川」という小さな川が神奈川県相模原市との境界になっている。相模原市側も住宅地が広がっているため、町田市と神奈川県相模原市の間の人の往来は非常に多く、つながりも強い。
上写真:境川(幸延寺橋から上流側)
左側が神奈川県相模原市、右側が東京都町田市だが、左側の一部は東京都の飛び地である。詳しくは後述。
境川の飛び地
境川周辺にはいくつか川を挟んで飛び地が存在する。上記の町田駅南口前がその例である。
かつて曲がりくねっていた境川の上に、町田と相模原の[1]境界線が引かれた。これが工事で直線化された結果、カーブの部分だけ取り残されて、「神奈川県に囲まれた町田市」「東京都に囲まれた相模原市」といった地域が発生してしまった。
簡単な図を下に示す。
↓
それぞれの飛び地は境川にかけられた橋で対岸と結ばれていることもあるが、中には橋がないために川を挟んで孤立している地域もある。
郵便配達の手間などの問題で、町田市と相模原市の間で境界線についての協議が重ねられており、現在ではこうした飛び地は徐々に解消されつつある。つまり、町田市はちょっとずつ神奈川県相模原市になり、相模原市はちょっとずつ東京都町田市になりつつある。
他の東京都の地域との関係
鉄道で他の東京都の地域から神奈川を経由せずに到達できる町田市の駅は、JR横浜線の相原駅と京王相模原線の多摩境駅のみである。
東京から上記以外の町田市の駅へ鉄道で向かう場合、下の表のように必ず神奈川県を経由しなければならない。
小田急小田原線 | |
新宿 | 東京23区 |
(略) | |
成城学園前 | |
喜多見 | |
狛江 | 東京都狛江市 |
和泉多摩川 | |
登戸 | 神奈川県川崎市 |
向ヶ丘遊園 | |
(略) | |
新百合ヶ丘 | |
柿生 | |
鶴川 | 東京都町田市 |
玉川学園前 | |
町田 | |
相模大野 | 神奈川県相模原市 |
東急田園都市線 | |
渋谷 | 東京23区 |
(略) | |
用賀 | |
二子玉川 | |
二子新地 | 神奈川県川崎市 |
(略) | |
鷺沼 | |
たまプラーザ | 神奈川県横浜市 |
(略) | |
長津田 | |
つくし野 | 東京都町田市 |
すずかけ台 | |
南町田 グランベリーパーク |
|
つきみ野 | 神奈川県大和市 |
中央林間 |
JR横浜線 | |
八王子 | 東京都八王子市 |
片倉 | |
八王子みなみ野 | |
相原 | 東京都町田市 |
橋本 | 神奈川県相模原市 |
(略) | |
古淵 | |
町田 | 東京都町田市 |
成瀬 | |
長津田 | 神奈川県横浜市 |
他の東京都の市と接する町田市の北側は、あまり開発が進められておらず、地形的にも尾根で隔てられている。町田市から北に行く場合、峠を超えたりトンネルを抜けたりすることになる。
そのような地形的な理由もあってか、鉄道は北側からあまり伸ばされていない。町田市から直接北側の東京都の市に行くためには、相原駅と多摩境駅を除いて基本的に自動車かバス、タクシーなどを利用しなければならない。
※ただし、東京都多摩市が終点となっている多摩都市モノレールや小田急多摩線が町田市内に延伸する計画がある。(町田駅から東京都心に最短距離で行く場合は今まで通り小田急線で神奈川を経由することになるが、)これが実現すれば、町田から直接東京の他の地域に行きやすくなると思われる。
多摩都市モノレール延伸計画の垂れ幕
(町田市中町4丁目22、セブンイレブン町田本町田中町店前)
町田市の東側の境界
町田市の東側は神奈川県横浜市・川崎市との境目となっている。緑地で区切られているところが多いため境界としてはわかりやすい…かと思いきや、ここでも境界が分かりにくい箇所が存在する。
と、またややこしいことになっている。
さらに、その玉川大学や和光大学がある辺りや、町田市三輪地区の辺りは境界線が入り組み、加えて神奈川県川崎市の飛び地(岡上地区)も入ってくるため、非常に複雑な様子になっている。これについてはまた後述する。
生活上での神奈川県とのつながり
- 「神奈川県町田市」と書いても手紙が届くというネタは有名。ただし、郵便番号さえ正しければ大抵の場合届くので、極論「沖縄県町田市」でも恐らく届く(絶対届く保証はしないし、郵便局員の方に迷惑なので試さないこと)。ただ、実際宛先での「神奈川県町田市」の誤記は多いようだ。
- 市外局番は相模原市と同じである。これは八王子なども同じ番号なのだが、なぜかコード上での分類でも町田市は東京都で唯一「相模原」のグループに入れられている(三輪地区を除く)。
- サービスの提供地域で「東京(町田除く)」「神奈川(町田を含む)」という表記を見かけることがある。
- 神奈川中央交通のバスが走っている(これについては八王子市や多摩市も同様だが…)。
- 東名高速道路のICに「横浜町田IC」がある。「横浜」と「町田」の境界近くにあり、「横浜市と町田市」としてそれを並べているだけに過ぎないのだが、これを見て町田が神奈川県にあると思い込んだり、中には横浜市にあると思ったりする人もいるようだ。確かに同じ東名高速の「横浜青葉IC」は「横浜市の青葉区」にあるので、これが誤解の一因になっているのかもしれない。
- tvk(神奈川県のローカルテレビ局)の地元密着番組「あっぱれ!KANAGAWA大行進」で町田市が特集されることがある。
- 2020年5月に、神奈川県民に対する外出自粛要請メールが町田市の一部地域にも届く事態が発生した。大田区などの他の東京都境付近の地域でも届いたという例があり、特段町田に限った話ではないが、「神奈川県町田市」がTwitter等で話題になってしまった。
なぜ「神奈川県町田市」ではなく、「東京都町田市」なのか
この項目は独自研究を元に書かれています。 信じる信じないはあなた次第です。 |
説明しようとすると長い話になるので、簡潔にまとめると、
もともと「多摩郡」や「南多摩郡」というグループで東京都側の地域と一緒くたにされており、明治時代に南多摩郡が東京府に編入されるとき、ついでに町田も東京になってしまった。
だが、そもそもの問題である「なぜ町田市の地域が地形的に隔てられている多摩郡の方にもともと所属していたのか」はよくわからない。
ということである。
少しわかりにくいので、東京都にあたる地域を赤、神奈川県にあたる地域を緑で書く。
大正・昭和~
1958年に合併により町田市が誕生する。それまでの町田市にあたる地域には、明治初期から
の5町村があり、全域が八王子や日野と同じ「南多摩郡」、さらに時代を遡ると北多摩郡などと合わせて「多摩郡」に所属していた。以下の文章では、この地域を「町田市域」と呼ぶことにする。
明治
南多摩郡・西多摩郡・北多摩郡は1893年までは神奈川県に所属していた。すなわち、「神奈川県町田村」だった時期が実際にあった。
→つかんぼやと「市町村変遷パラパラ地図東京都完全版」明治期を参照
ただし、これは「神奈川県八王子町」「神奈川県調布町」「神奈川県青梅町」「神奈川県東村山村」「神奈川県武蔵野村吉祥寺」など、広範囲に当てはまる話である。つまり、現在の東京都多摩地域のほとんどが神奈川県だった時代があった。
南多摩郡が神奈川県に所属し、後に東京府に移された経緯
横浜港から来た外国人の遊歩区域として多摩地域が挙げられており、その関係で北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡は明治初期に神奈川県に編入された。
しかし、明治中期にコレラが流行した。コレラは患者の糞便や嘔吐物から感染することが知られており、水質管理が重要視された。そこで、東京の水の供給源である玉川上水のある多摩地域を東京府にする提案が持ち出された。
このとき、特に玉川上水の通っていない南多摩郡も東京府にされた。南多摩郡が東京府にされた理由として現在よく挙げられているのが「当時の神奈川県域の自由民権運動の勢力の分離を図った」という理由である。確かに、南多摩郡の町田周辺は当時自由民権運動が活発な地域の1つであり、現在でも「自由民権資料館」の所在地となっている。
このとき、町田市域だけで神奈川県に入る動きは無かったと思われる。そもそも、この時期は「町田市」という区分自体が存在しないので、町田市域だけ分離させる発想も無かった可能性が高い。
なお、町田市域の中でも最東部に位置する南多摩郡鶴川村の三輪(現在の町田市三輪地区、MAP)は、先述した東側の複雑な境界線の都合上、神奈川県都筑郡に入れてもらえないかという陳情を出している。貴族院には受理されたものの、「地形的には南多摩郡」とする東京府の上申やそれを受けた内務省の反対により、実現しなかった。
(地理院地図の白地図タイルよりトレースしたものに執筆者が追記)
「府県制郡制関係書類」と題する書冊のなかには、鶴川村三輪の斉藤八右衛門外96名からの貴族院への境域変更請願(神奈川県都築郡への編入請願)を受け、内務省が東京府へ意見具申を求めたさいの史料が綴じられています。東京府は、南多摩郡長原豊穣の意見を求めたうえで、反対を上申していました。
東京府知事の具申案には、次のように記されています。三輪ハ都築郡ニ隣接セル土地ニ有之も、一帯ノ丘陵ヲ以テ境堺ヲ為セルモノニシテ、地形上ヨリ見ルトキハ同郡ヘ編入スヘキモノニ非サルノミナラス、却テ同郡ノ一部ヲ割テ南多摩郡ニ編入スル方便宜ナルヘク、若其ノ組替ヲ為ストキハ行政上不便ナルハ勿論経済其佗ニ影響シ村治上モ亦不利益少カラス、旁到底組替ノ必要ナキモノト存候……
※余談だが、町田市三輪地区の西側にある川崎市の岡上地区(MAP)が飛び地となったのは、同じ郡の柿生との経済的な結びつきが強かったためとされている(参考)。
川崎までが神奈川県になった経緯
「逆になぜ川崎や横浜は、江戸と同じ武蔵国だったのに神奈川県になったのか?」という疑問も出てくることがあるため、ここで解説する。確かに、もしこの地域が同じ武蔵国だからという理由で東京都に入ってば、町田が出っ張ることは無かったのである。
江戸時代以前の区割りである「律令国」では、江戸~横浜の辺り一帯や町田は、同じ武蔵国に所属していた。
明治元年、首都機能のある江戸(東京)を管理するために、北町奉行所・南町奉行所が廃止され、東京府(後の東京都)が設置された。
同年、日米修好通商条約以降に貿易や外国人の出入国が盛んになった横浜港を管理するため、神奈川奉行所が廃止され、横浜裁判所が設置される。この裁判所が何度か改称されつつ様々な行政機能を取り込み、神奈川県が設置された。
日本にとって重要な拠点となり、それぞれを中心とする府県が設定された東京と横浜は、それまでは同じ武蔵国に属していたため、新しく東京府と神奈川県の間の境界を定める必要があった。
結果として、東京と横浜の中間にある大きな川、多摩川が境界にされた。現在の品川区・目黒区・大田区が含まれる荏原(えばら)郡までは東京府とされた。一方、現在の横浜市神奈川区・保土ヶ谷区・川崎市などが含まれる橘樹(たちばな)郡や、横浜市都筑(つづき)区・青葉区などが含まれる都筑郡は神奈川県とされた。つまり横浜・川崎は神奈川県になった。
おそらく、橘樹郡は横浜港に隣接する地域であることに加え、多摩郡と同様に外国人の遊歩区域に指定されており、それを管理する関係で神奈川県になったと思われる。人の往来を阻む多摩川というわかりやすい境界線にした方が都合が良かったとも推測される。
これにより、現在の町田市の東側にある横浜市・川崎市域は神奈川県の所属となった。
しかし、町田市域はそれらの地域と同じく多摩川よりも神奈川県側だったのにもかかわらず、先述したように「南多摩郡に入っている」という事情で最終的に東京府に所属し、結果的に「町田が東京」と「川崎と横浜は神奈川」で別れる形となった。
根本的な問題
ただ、まだ根本的な問題が解決されていない。
そもそも、町田市域の大半は多摩川沿いどころか多摩川流域ですらない。神奈川県側の鶴見川流域に属する。地形的には、町田市域の北側は山(尾根)で隔てられており、他の多摩地域(旧多摩郡)に行くには峠を越えなければならない。逆に、旧都筑郡側に行く場合は峠を越えずに移動が可能である(地図)。
一般的には、地域の境界は尾根になることが多い。もし地形に従って都筑郡に入っていたならば、町田市域は上記の水源や自由民権運動を巡る多摩郡の東京府への移動に巻き込まれず、現在でも神奈川県になっていた可能性が高い。
それにもかかわらず、町田市域はなぜかもともと山を越えて飛び出た形で多摩郡に入っているのである。明治時代より前から続いている区分の多摩郡の時点で町田市域は飛び出てしまっており、この時点で不自然だと指摘されることがある。
という古代・中世の歴史までつながる問いに答える必要がある。さらに時代を遡ってこの経緯を見ていく。
郡の整理
(地理院地図の白地図タイルよりトレースしたものに執筆者が追記)
少しわかりにくくなったので郡を整理しておく。
- 多摩郡(多磨郡)
- 現在の東京都西部の多摩地域の大半が入っていた郡。律令制では武蔵国に属する。江戸時代ごろの町田市域の大半がなぜかここに入っていた。
- 都筑郡(都築郡)
- 現在の横浜市北西部と、川崎市西部の一部地域が所属していた郡。「横浜市都筑区」などに名前が残るが、都筑郡はそれよりも広く、現在の青葉区など他の地域も含まれていた。現在の地域では大半が神奈川県だが、過去の律令制では多摩郡と同じく武蔵国に属していた。
町田市域とは東側で接していた。 - 高座郡
- 現在の神奈川県の中央、相模原市橋本から茅ヶ崎市・平塚市の辺りにあった郡。上記2つとは異なり、律令制では相模国に属する。古くは「たかくらぐん」と読んだが、現在は「こうざぐん」と読む。この3つの郡の中では唯一現存する郡であり、2022年時点では寒川町のみが所属している。
町田市域とは南西側で接していた。
安土桃山~江戸
多摩郡と高座郡の境界が「境川」に定められた経緯
16世紀末、文禄の検地が行われたことで、武蔵国多摩郡と相模国高座郡の境界(武相国境)が「高座川(現在の境川)」に定められた。江戸時代もこの国境が引き継がれ、現在の町田市と相模原市の境界の原形となった。
俗には、小山田氏や横山党といった多摩郡の武家勢力がすでに境川沿いまで進出しており、その追認として境川までを武蔵国としたとする説がある(参考)。
それ以前の武相国境は境川の分水嶺(上記ツイートの黄色とピンク色の境界)を通っていたとする説が有力である。それゆえ、少なくとも現在の相原駅から町田駅にかけての細長い境川沿いの地域は、高座郡だった可能性が高いとされている。もしそのままだったら町田駅のある場所は神奈川県だったかもしれない。
町田駅が神奈川県のすぐ近くにある原因
多摩郡・都筑郡・高座郡の境界問題とは直接の関係はないが、この時期に起こった出来事であるためここで説明する。
「原町田」と呼ばれる集落が1582年に相模国との国境だった境川近くに形成され、そこが結果的に町田市の経済的な中心になってしまったため、駅や市役所は神奈川県ギリギリの場所になってしまった。
最初は、現在の町田市の中央にある「本町田」と呼ばれる地域[2]が「町田」と呼ばれていた。室町~安土桃山時代ごろに境川の近くの町田村が所有していた草地に移住する人が増え、やがてこの地域が1582年に「原町田」と名付けられた。
原町田はもともと丘陵の原野を開拓し、農地にする目的で作られたとされる。なぜ相模国高座郡との境界がある境川周辺を位置に選定したのかは不明[3]。その後、原町田では定期市が開かれるようになり、幕末以降には八王子から横浜へ輸出品を運ぶ絹の道の宿場町としても栄え、本町田よりも原町田の方が発展する状態になった。
1889年には本町田村や原町田村が合併し町田村となる。そして、1908年には横浜鉄道(後のJR横浜線)が絹の道に沿って整備され、原町田駅が設置される。さらに1927年には小田急電鉄が新原町田駅を設置し、戦後になると東京・横浜のベッドタウンの結節点としてさらに発展する。そして1958年に周辺の村と合併して市制に移行し、市役所が発展していた原町田に作られた上、原町田駅・新原町田駅も1970~80年代には町田市の中心駅として「町田駅」に改称され、現在に至っている。
多摩郡と都筑郡の境界の変遷
一方、町田市の東側の境界となる多摩郡と都筑郡の境界については、以下のような記述があるため、安土桃山・江戸時代の間でも境界が変更されていたと考えられる。
真光寺(注:現在の町田市真光寺)は武蔵国多摩郡に所属していたが江戸時代初期に都筑郡に所属を変更された。1707年(宝永4年)に元の多摩郡に戻されている。これは徳川幕府の旗本支配地の行政区画の問題であろう。
多摩郡成瀬村の東光寺集落(注:現在の町田市南成瀬8丁目周辺)では、名主・原嶋源右衛門のもとで新田開発に成功しますが、隣接する都筑郡長津田村(横浜市緑区長津田町)との間で境界争いが起こります。
集落では境界とおぼしき場所にあらかじめ木炭を埋めて証拠とした上で検地役人を呼び、訴訟を有利に進めますが、元から埋められていたものではないことが露見し、その首謀者として原嶋源右衛門と一家全員が処刑されます。
後に原嶋源右衛門の屋敷跡には、「成瀬義民」としてその菩提を弔うために供養碑が建てられるとともに、処刑された崖山にも崖山地蔵が建てられました。―義民のあしあと「原嶋源右衛門(名主・原嶋源右衛門の死刑執行の場所)」
記事執筆者注:あくまで伝承であることには注意を要する。また、本当は木炭はもともと埋まっていたもので間違いなく、源右衛門は見せしめのために役人によって濡れ衣を着せられたとする話もある。
いずれにせよ、明治に入った時点での多摩郡と都筑郡の境界が、のちの町田市の東側の境界に引き継がれていったようだ。先述した三輪地区が江戸時代に多摩郡、岡上地区が都筑郡に属していた原因は不明だが、おそらくこのころの所属する郡の移動が関係している可能性がある。
~戦国
戦国時代以前の郡の境界がどこにあったのか、(少なくとも執筆者が調べた範囲では)よくわかっていない。
武蔵国多摩郡と相模国高座郡の間の国境(武相国境)については、多摩丘陵を通っていたと推測されている。しかし、多摩丘陵のどこをどう通っていたのかは具体的には不明であり、古代にも明確な境界があったかどうかもわからない。中世の武相国境の位置については、先述したように現時点では境川の分水嶺とする説が有力だが、古代まで同じ位置だったかは断定できない。
加えて、武蔵国内での多摩郡と都筑郡の境界はさらに不明な点が多い。「古代の最初から多摩郡だった」とも考えられるが、「大部分(ないしは一部分)は都筑郡だったのではないか」とする説がある。
南は「国史大辞典」の図では、町田市が多摩郡となっていますが、集落の分布を見ると、鶴見川流域と恩田川という河川流域に古代の集落が展開しています。町田市と多摩市の境にある丘陵を境にして南側、町田市の大半は都築郡、北側が多磨郡で、集落がまとまりを持っていることがわかります。古代では郡の境界は線ではなく帯状になっていながらも、明確な境界認識があり、そのなかに、郷として捉えられる集落のまとまりが捉えられる、これが結論です。
その(注:平安時代初期の『和名類聚抄』に載っている郷の)中で、都筑郡では店屋(まちや)郷が『延喜式』にみえる「店屋駅」の所在郷であり、東京都町田市鶴間に町谷の地名があることからこの周辺、(略)に比定できます。
町田市北部の丘陵内にある古代の窯跡では、武蔵国・相模国国分寺の瓦が両方作られている。NHKのテレビ番組『ブラタモリ』ではこれを取り上げ、「多摩丘陵という幅を持ったあいまいな地形が古代の武蔵国・相模国の境界」としていた。武蔵国多摩郡・武蔵国都筑郡・相模国高座郡のどれに所属していたのか、古代の当時からよくわかっていなかったのかもしれない。
結局のところ、いつどのような経緯で町田市域が多摩郡になったのかは不明である。
俗には、「武蔵国の国衙(役所)の権力が進出した影響ではないか(参考)」とする説があるが、現時点で有力な説は存在しないと推測される。
まちだはまちだ
町田は、多摩地域の八王子から横浜港まで絹などの産物を運ぶ「絹の道」によって発展してきた歴史がある。
そして現在では東京(新宿駅)から延びる小田急線、横浜(東神奈川駅)から延びる横浜線などがあり、それらを利用する通勤客によって栄えている。これ以外にも、市境を介した相模原市、横浜市、川崎市、多摩市、八王子市などへの人の移動により町田の経済は支えられている。
「まちだはまちだ」の垂れ幕
(町田市森野1丁目15-13、町田パリオ)
「『町田は都会(=町田は町だ)』だということと、『東京と神奈川が混在していること』を言葉にしようと思い、ひらがなで『まちだはまちだ』と書きました。仕事帰りに電車に乗って、ふとこの懸垂幕に気づいてもらい、『?』となったら少しは会社の疲れを別の方向に持っていけるんじゃないかと狙っているわけです」
町田は東京都か神奈川県かと話題にされることもあるが、町田をそのどちらとも密接につながっている場所として捉えて、町田の中身をもっと覗いてみるのもいいのかもしれない。
関連動画
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関連項目
脚注
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