神武天皇(じんむてんのう 紀元前711年? - 紀元前585年?)とは、古事記・日本書紀に記されている日本の初代天皇である。
在位:紀元前660年2月18日~紀元前585年4月9日(建国記念日の2月11日は神武天皇即位の日)。この紀元前660年が皇紀元年として定められている。
名称
神武天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進して以降呼ばれるようになった。つまり死後に贈られた名称であるので、本人が存命中に神武天皇と呼ばれたことはないはずである。
古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)。日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)の名で呼ばれている。
生涯
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した地である日向をおさめる一族の出。
父:彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と、母:玉依姫命(たまよりひめのみこと)の間に生まれる。
四男だったが、リーダーの資格十分なところから15歳で皇太子となり、吾平津姫(あひらつひめ)との間に手研耳命(たぎしみみのみこと)を設けた。
※手研耳命は、神武天皇崩御後に後の綏靖天皇を含む異母弟達を弑逆しようと画策した為に殺された。
45歳の時に
日向は国土の端すぎて天下の統治するのには不向きだから、ここよりもさらに豊かな東方に天下を治めるにふさわしい美しい土地があるだろう。(超要約)
と宣言して東征を開始した。豊後や筑紫にて基盤を築くのに1年かけ、瀬戸内海から吉備国を経て河内国に至る頃には、東征開始から15年の年月が過ぎていた。そして明石海峡を越えて目的の地である奈良盆地まですぐそこというところで長髄彦(那賀須泥毘古)と戦いとなり、この時の矢傷が元で兄の五瀬命(いつせのみこと)が亡くなった。
東征が進まぬ事を危惧した天照大御神により霊剣「布都御魂(ふつのみたま)」を授かった神武天皇は、八咫烏に導かれながら険しい山々を越えて吉野の地へと辿り着き、長髄彦との決戦に勝利して橿原の地を都と定めた。
大物主(おおものぬし)の娘:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした神武天皇は、52歳の紀元前660年に即位し、70年以上にわたる治世の後、古事記では137歳、日本書紀では127歳でお隠れになられたと記されている。
天照大神の来孫
神武天皇は天照大神(あまてらすおおみかみ)の来孫(ひひひ孫)にあたる。系譜をたどってみよう。
神武天皇の父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合命である。さらにその父は山幸彦である。
山幸彦の父は天孫降臨の当事者、瓊瓊杵尊である。さらに瓊瓊杵尊の父は天忍穂耳命(あめのおしほみみ)である。
天忍穂耳命
ただし天忍穂耳命という神は生まれ方が一風変わっており、「天照大神が身に着けていた御統(みすまる。一種のアクセサリー)を須佐之男命が噛み砕いて吹き出したら生まれた」とされている。
これだけだと「えっ、じゃあ天忍穂耳命を産んだのは須佐之男命じゃないの?」と言う感じだが、これには事情がある。
なんで「アクセサリーを噛み砕く」なんて妙な事をしたのかと言うと、須佐之男命が暴れようとしているのではないかと天照大神が疑った際に、その疑いを晴らす目的で行った儀式なのである。
この時、天照大神も須佐之男命の剣を噛み砕いて、女神が生まれている。歯が丈夫な姉弟だ。さすが神。
この結果を見て、須佐之男命は「姉上の持ち物から生まれた神は男ですが、私の持ち物から生まれた神はたおやかな女です。だから私が暴れようという猛々しい心を持っているわけではないことは判明しましたな!」とかなんとか言って自分の心の清廉潔白さを強調した。
そのため「天照大神の持ち物から生まれた神は天照大神の子、須佐之男命の持ち物から生まれた神は須佐之男命の子である」という空気になった。だから天忍穂耳命は天照大神の息子とされているのである。
神武天皇の崇拝史
神武天皇は初代天皇であるにもかかわらず皇室の始祖として崇拝されるようになったのは近代に入ってからのことであった。古代や中世では数多くの天皇の一人にすぎず、奈良時代から八幡宮の祭神として信仰されていた応神天皇や、中宗と称されその陵墓が十陵八墓の筆頭にになり永世奉幣を絶やさぬとされた天智天皇とは対照的である。中世を代表する歴史書の『愚管抄』や『神皇正統記』でも神武天皇はただ年代記の最初に記されるだけにとどまっている。
神武天皇の転換期は江戸時代の国学の発展にあった。水戸藩により神武天皇の陵墓が探し求められ、近世中期に本居宣長や平田篤胤らにより古代研究が進んだ。幕末期に江戸幕府の権威が落ち、尊王攘夷運動が巻き起こると神武天皇崇拝が広まっていく。神武天皇陵はいくつかの候補の中から決定され、多額の予算をつけて修繕された。孝明天皇は攘夷の奉告のためにこの陵に行幸することを計画している。
明治時代に入ると王政復古の大号令と共に神武天皇は始祖として強く回想されるようになった。明治5年には神武紀元が制定せられ、神武天皇の即位の日を紀元節(建国記念日)として祝日に定めた。明治22年にはかつて皇居があったとされる畝傍山の東南に神武天皇を祀る神宮が(橿原神宮)が創建された。また同年に神武の長髄彦討伐の故事を由来とする金鵄勲章が制定されている。
大日本帝国の象徴となった神武天皇であるが近代史学の発展と共に戦前からその存在の史実性が怪しまれていた。終戦後は検閲も解け、神武天皇に対する科学的研究が本格的に始まる。10代天皇の崇神は日本書紀で御肇国天皇。つまり初代天皇とされている。そこで崇神こそが真の大和朝廷の始祖である説。あるいは崇神と神武は同一人物説などが提唱された。
関連動画
関連チャンネル
関連項目
126代 | 初代 | 2代 |
今上天皇(きんじょうてんのう) 2019~ |
神武天皇(じんむてんのう) 紀元前660~紀元前585 |
綏靖天皇(すいぜいてんのう) 紀元前581~紀元前549 |
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