福沢諭吉とは、幕末の武士であり、明治時代の思想家、教育者である。
現代では一万円札の隠喩にもなっている。
概要
少年時代
天保5年12月12日(1835年1月10日)豊前中津奥平藩の士族、福沢百助の5人兄弟の末っ子として生まれる。 父が大阪に勤務していた為大阪で生まれるが、1歳の時に父が死去、一家総出で中津藩に帰参する。
今で言う母子家庭で、の母於順(おじゅん)は厳しくは無かったが躾はしっかりしていたようで、三味線や芝居見物などは暗黙の了解で厳禁だったらしい。 兄弟仲はとても良かったが、中津藩では方言が違うなどの理由で上手く適応できず友人が居なかったという。 物心着く前に父は死んでいたが、学者になりたくても身分が原因でなれなかった父に対して特別な思いがあったようで、後に「門閥制度は親の仇」と自伝で語っている。
少年時代のエピソードとして有名なものに、殿様の名前が書いてある札を踏んだら罰が当たると兄に怒られ、それなら神様の名前が書いてある札を踏んだらどうなるかと試したが何とも無かったという逸話がある。ついでに便所紙として使っても何とも無かったらしい。
また、神社に御神体として置いてあった石を別の石と置き換えてみたり、飾ってあった札を取って捨てた後、神社の周りでお祭りが始まったのを見てm9(^Д^)プギャーするなど迷信の類は一切信じない性質であった。
読書は大嫌いだったが、14歳頃になって近所の連中が皆読書しているのを見て焦ったのか、塾に通って猛勉強を始める。 蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子、前後漢書、晋書、五代史、元明史略などを全て通読、11回も読み返し面白いところは暗記するという秀才振りを発揮した。
青年時代
19歳の時兄に誘われて長崎に遊学し、そこでオランダ語を学ぶ。折りしも黒船が来航し、西洋砲術が大ブームとなっていた時期であった。 そのままツテを頼って母に内緒で江戸行きを企むが、途中寄った大阪で兄と会った際に止められ、代わりに大阪で勉強すればよいと勧められて塾を探し入塾。 緒方洪庵の主催する適塾である。
たちまち頭角を現すものの、腸チフスに罹り重症。治療後もしばらくは健康が優れず一時中津へ戻る。
しばらくして再度大阪へ行くと今度は兄が死んだので戻るようにと連絡が来る。 戻って家督を継ぎ喪に服すものの、どうしても大阪で勉強を続けたいとの思いから親戚に話すも猛反対をされる。
そこで思い切って母親に、今自分は大阪で修行している事、必ずものになってみせる、ここに居たら朽ち果ててしまうから淋しいだろうけど自分を手放してください、と思いの丈を話した。母曰く、
「ウム宜しい。アナタさえそう言って下されば、誰がなんと言おうと怖い事は無い。オーそうとも。兄が死んだけれど死んだものは仕方がない。お前もまた余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言う事なし。何処へでも出て行きなさい。」
吹っ切れた福沢は大阪に戻り、再び適塾で勉学に励む。安政4年、22歳の頃塾頭に登りつめる。
適塾時代
適塾時代の生活は自由奔放だったようで、彫り物だらけのゴロツキがたむろする牛肉屋(当時は殆ど存在しなかった)に通いつめたり、夏はフンドシも襦袢も着ない一糸纏わぬ生まれたままのクールビズで下宿先の下女達や奥さんをドン引きさせる。
長崎で蘭学を教えてくれた人物が適塾に来た際には「師弟関係アベコベwwwざまあwwwww」と内心思ったという。イヤな奴である。
塾内の風紀は相当乱れていたらしく、塾の中で七輪やら鍋やらを用いて煮たり焼いたり、洗面用のたらいを調理具にしてみたり、塾生全員しらみを飼っていたりと22歳児の福沢が塾頭を務める適塾はあたかも学級崩壊の様相を呈していた。
かと思えばさにあらず、皆優秀なんだよね不思議な事に。
他にも、スリに間違われて肝を冷やしたとか、万引きと間違われて逆におどしたり、塾生に鯛の味噌漬けと偽ってフグを喰わせてみたり、豚の屠殺を肩代わりしたお礼に豚の頭を貰って解剖後煮て食った某とか、熊を解剖した某とか、作った硫酸が棚から落ちてきて頭から被った某とか、22歳児の福沢塾頭@裸族と愉快な仲間たちのやんちゃぶりは留まる所を知らなかった。が、その辺の詳細は福翁自伝を参照して下さい。
ちなみに福沢によると当時の大阪ではスリと言えば大罪で、見つかったらその場でヌッ殺されて川に沈められたんだそうな。大阪って怖いね。
転機
安政5年、福沢は藩命で江戸に向かう。江戸の藩邸に蘭学塾を開く為の人材登用であった。 10月下旬に江戸に到着し、藩邸内の長屋を借り塾を開く。この塾が後に慶応義塾となる。
江戸では蘭学原書の難しい部分を先輩に質問して力量を量るなど相変わらずの嫌らしさであったが、ここで挫折を経験する。
安政6年、当時開港されたばかりの横浜に行って試しに外国人に話しかけるがオランダ語が通じない。 それどころかどこもかしこも英語だらけでオランダ語など何処にも無い。
今まで死に物狂いで勉強してきた事が役に立たないと落胆したがすぐさま気持ちを切り替え、今度は英語の勉強を始める事にする。 始めるに当たって何人か勉強仲間を募ってみるもなかなか賛同者が見つからない。
ところでこの時勉強仲間として誘った相手に村田蔵六なる人物が居る。 適塾の先輩であり、後に長州藩で軍制改革を行い幕府との戦争で指揮官となった大村益次郎である。
福沢は村田に「俺とイングリッシュスタディ、トゥギャザーしようぜ!」と誘うが「オランダ語で充分である」と仏頂面で無碍に断られている。
結局原田敬策と言う人物と英語を勉強し始めたが、英文を翻訳するに当たって一度オランダ語に翻訳した後に日本語に再度翻訳すると言う方法で学んでいった。蘭学も決して無益では無いと思ったと言う。
遣米使節団
安政6年の冬、幕府がメリケンに使節を出すと言う話が持ち上がる。 メリケンに行ってみたいと思った福沢は、蘭学医の総本山である桂川家に頼んで艦長の木村喜毅への紹介状を貰い木村と面会。 志願者が少なかった為、「宜しい、連れてってやろう」と二つ返事で了承。安政7年正月、乗船した咸臨丸が出航する。
途中で嵐に見舞われたが無事にサンフランシスコに到着。祝砲が撃たれたため、こちらも応砲したらどうかという話が出たときに指揮官の勝海舟が「ジャップにゃ出来ねーよ」と放言し、ムキになった担当者が「オレが撃ってみせる」と宣言。勝は「バカ言えオマイラに出来たら俺の首をやるよ(´,_ゝ`)プッ」とさらに挑発。
担当者は首尾よく応砲を成功させると勝に対し「オマエの首はオレのモンだが航海中に用もあるから預けておく」と言って船員達を爆笑させた。
福沢はこの勝海舟の黒歴史を後年嬉々として語っている。二人ともイヤな奴だねー。
着くと早速現地調査を開始。メリケン人に工場やら何やら自慢気に案内されるものの事前に知識を得ていたため特に驚く事も無かったが、社会の習慣や制度に関しては例のワシントンの子孫に関する逸話が示すように右も左も分からなかったようである。
そんなロストイントランスレーションを体験後、船上でメリケン人少女と撮影した写真を見せびらかしたりしながら帰国の途に着いた。
幕臣時代
万延元年閏5月5日に浦賀に到着。帰国した福沢は幕府外国方に雇われる。この年に英語辞書の『華英通語』を翻訳出版。これが初めての出版物となる。
文久元年、今度は欧州視察に同行する事になる。いろんな国に行くのだが、ここではwikipediaに載っていないロシアでのエピソードを。
ロシアでの滞在中、接待の仕方が驚くほど日本の式に則ったものであることをいぶかしんだ福沢が接待委員に探りを入れてみると、背後に「ヤマトフ」と名乗る日本人らしき人物がいるらしい事が分かった。結局会えずじまいだったが、晩年の速記録でも出てくるようなエピソードなのでかなり印象に残ったようである。
なお、このヤマトフなる人物、実在の人物で本名を立花粂蔵(たちばなくめぞう)といい、遠州掛川藩士族だったがワケ有りで出家後各地を転々とし、伊豆滞在時にたまたまロシア軍艦が難破した折に艦長と仲良くなってそのままロシアに高飛び。現地で日本語を教えたり対日本外交のスーパーバイザーを務める。明治6年に岩倉使節団に促されて帰国し、明治18年に65歳で死去というトンデモ経歴を持つ歴史に埋もれた怪人物である。
ロ「お前、金持ちか?」
福「イヤ全然」
ロ「そうかそうか。じゃああんな小国帰らずにこのままロシアに留まらないか?」
なんとロシア側から買収工作を仕掛けてきた。おそロシア。しかし福沢は
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と拒否。この件が原因なのか晩年になっても福沢は「ロシアは気の知れぬ国」とおそロシア表明している。
外遊から帰国すると尊王攘夷派が最盛期を迎えており、同僚数人が襲撃を受ける。身の危険を感じた福沢はこの頃から明治前期まで夜間外出を控え、旅行する際には姓名を偽っていたという。ヘタレ乙と言いたいところだが、明治3年には実際に暗殺未遂に遭遇しており、杞憂と言い切れないのが時代を感じさせる。
攘夷思想については当然反対であったが、かといって幕府が良いかというとそうでもなくむしろ幕府こそが天下第一の攘夷藩であると言い切り、幕府は倒されるべきと考えていた。この頃の福沢の政権構想としては、将軍を中心とした諸侯による議会を考えており、いわゆる公議政体論に近かったようである。
文久3年6月、恩師の緒方洪庵が死去。お通夜で村田蔵六と一悶着起こすが、この件は大村益次郎の記事を参照。
王政維新
慶応4年1月、鳥羽・伏見の戦いで戦線離脱した徳川慶喜が江戸城へ戻ってくると城内大騒ぎになり、福沢の同僚達も上方の賊軍と一戦交えると殺気立っていたが、「そうか頑張れ、俺は逃げる」と宣言し顰蹙を買うなどしているうちに江戸城無血開城が決定、幕府は完全に解体される。
3月、塾を鉄砲州の藩邸から新銭座に移し、4月に塾名を慶応義塾に改める。この時代、塾では盆と暮の年2回程度金を払うのが風習だったが、それを改め月1回授業料を払う事を義務付けた。幕府消滅と共に直属の学校が閉鎖してしまったため、代わりとばかりに慶応義塾の入学者が増えていった。
5月、村田蔵六改め大村益次郎が上野戦争から始まる一連の戊辰戦争を指揮していた頃の事。内戦が続く不安定な情勢の中、福沢は塾で教鞭を取りながら以下のように学生たちを励ましたという。
昔々、ナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばずインド地方までことごとくとられてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中わずかに一箇所を遺した。ソレは即ち日本長崎の出島である。
~略~
シテみるとこの慶応義塾は日本の洋学のためには、オランダの出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だかつて洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業した事は無い、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である。世間に頓着するな。
明治時代
明治以後、政府から度々出仕の要請が来るものの全て断っている。本人曰く当初は攘夷政府と思っていたから在野で活動する事にしたそうだが、後年勝海舟や榎本武揚を『痩我慢の説』という書簡で批判している事から仮にも幕府に仕えた者が新政府になびく事を潔しとしなかったのかもしれない。
活動は益々盛んになる。杉田玄白の『蘭学事始』の出版から始まり、『学問のすすめ』『ひびのおしえ』『文明論之概略』『民情一新』等の著作を発表。『学問のすすめ』や『ひびのおしえ』では赤穂浪士や桃太郎のエピソードを否定的に評価して価値観の転換を促した。『文明論之概略』では東西文明の対比と国の独立について説き、『民情一新』では英国流の議会設立を提案する。議会設立に関する考えが交友のあった大隈重信に似ていた事から明治十四年の政変時に大隈と共謀していたのではとあらぬ疑いをかけられたりもした。
他にも、北里柴三郎を援助して伝染病研究所の設立に協力するなど、日本の近代化に多大な貢献を残す。
近年では国防を早くから唱えており、帝国海軍初期の将帥のかなりの数が慶應義塾で学んだ事(初代軍令部総長の仲牟田倉之助、常備艦隊司令長官・日高壮之丞、海軍兵学校長・有馬良橘など)や自らが創刊した新聞『時事新報』に海軍の話題が確認されるなど、勝海舟と並ぶ日本海軍の育ての親とも云えるかもしれない。
明治31年(1898年)、63歳の時この記事の元ネタである『福翁自伝』を脱稿するが、同年に脳溢血を発症。回復するも3年後の明治34年(1901年)に再発し、2月3日に死去。享年66歳(数え年では68歳)。戒名は大観院独立自尊居士。
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