福田村事件とは、
である。
本記事では1の事件について記す。
概要
関東大震災が発生した1923年9月1日から5日後の同月6日に、千葉県で発生した殺人事件である。
香川県から来ていた薬の行商人の一行が、地元の自警団に呼び止められ、朝鮮人ではないかと疑いをかけられた。日本人であると弁解したものの、四国弁であったために千葉県人の現地住民らにとっては言語不可解で日本人ではなく朝鮮人だと判断され、大量の村民に包囲され、そのまま乳幼児や妊婦を含む9名(妊婦の胎内の胎児も含めると10名)が殺害された。
発生した土地の名を取って「福田村事件」や「野田・福田村事件」、関与した人物らから「福田村・田中村事件」とも呼ばれる。
直接的な加害者らが福田村から4人、田中村から4人の計8名逮捕されたが、村民らからは見舞金が集められるなど同情的な扱いを受けており、また裁判では懲役刑を言い渡されたものの1925年の昭和天皇即位による恩赦のために短期間で釈放されたという。
1983年に出版された『いわれなく殺された人びと ―関東大震災と朝鮮人―』という書籍では、「日本人虐殺と朝鮮人虐殺はどうちがうか ―福田村事件の裁判―」という章にてこの事件について扱われており、章の副題の通り裁判について詳細に記されている。その中では犯人の氏名なども掲載されている。
比較的公的な資料としては、法務府特別審査局から1949年に出版された、法務府特別審査局長の吉河光貞による『關東大震災の治安回顧』などで言及されている。
九月六日午前十時頃香川縣人である高松市帝國病難救藥院の賣藥行商團一行が、賣藥其の他の荷物を車に積み、東葛飾郡野田町方面から茨城縣方面に赴くべく、福田村三つ堀に差掛り、同所香取神社前で休憩した。然るに當時附近に於て鮮人の侵入するものあるべしと警戒に從事して居た自警團員が之を見附け、鮮人の疑があると稱して右賣藥行商團員を種々審訊して荷物を檢査したところ、四國辯にて言語不可解な點等があつた爲め、右自警團員は全く鮮人なりと誤信し、警鐘を亂打して急を村內に告げ、又は隣村に應援を求めるに至つた。其の結果、數百名の村民は忽ち武器を手にして同神社前に殺到し、前記賣藥行商團を包圍し、「朝鮮人を打殺せ」と喧囂し、該行商團員等が百方言葉を盡して「日本人である」と辯解したに拘らず、鮮人に對する恐怖と憎惡の念に驅られて平靜を失つた群衆は、最早右辯解に耳を傾ける遑もなく、或は荒繩で縛り上げ、或は鳶口、棍棒を振つて毆打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒號し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ堀渡船場に連れて行き、右行商團員九名を利根川の水中に投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いて利根川を橫切り對岸に遁れんとするや、群衆中より船で追跡するものが現はれ、對岸で之を斬殺し、殘つた五名の行商團員は急報に接して駈付けた巡査等の爲め、辛くも救助されて僅に死を免れる等騒擾を極めた。
なぜ「鮮人(朝鮮人)なりと誤信」したら「打殺せ」という話になるのかというと、当時は「不逞鮮人(法に従わぬ朝鮮人)が暴動を起こす、集団で襲来する」という流言蜚語が盛んに出回っていたため。つまり、犯人らの感覚としては「自己防衛」「正当な防衛」「悪を討つ」「やられる前にやらねばならぬ」といった感覚であったかと思われる。
「そのような流言蜚語がなぜあっさり信じられたのか」については、同『關東大震災の治安回顧』内で以下のように解説されている。やや長いうえに、朝鮮人や労働者について現在では「差別的」「不適切」と感じられるような表現が含まれているが、吉河光貞氏の執筆当時の感性をそのまま伝える為にそのまま掲載する。
大震災當時、民衆が不逞鮮人の暴動襲來を喧傳し、確信したのは、明かに斯くの如き幻覺であり、妄想であつた。然し乍ら此の幻想は、非常災害時に際して偶然民衆の心裡に浮んだ單純な空想の所產ではなかつた。震災當時の民衆の心裡には、平常彼等鮮人に對する恐怖と反感が潜在的に蓄積されて居たのである。民衆は豫てから、彼等鮮人の兇暴性や反社會性を考へざるを得ない樣な、種々なる事實を見聞して來たのである。斯かる事實が有つたればこそ、民衆は此の震災の惑亂に際して、彼等鮮人が兇暴に陷り、反社會的行動に出づることを、あり得べき事として豫期し、期待するに至つたのである。民衆の此の期待こそ、不逞鮮人に關する流言を斯くも廣汎に氾濫せしめた社會的根據であつたと謂はねばならぬ。(ギユスタフ·ルボン著「群衆論ー民心の研究」邦譯並に大石兵太郞著「群衆心理學」參照)然らば震災當時の民衆に見聞されて居た鮮人の兇暴性若くは反社會性とは何か。大正七年の米騒動以來、鮮人勞働者の內地渡來が激增した事實は、既に識者の指摘したところであつたが、震災當時在京した鮮人は、警視廳當該關係係に於て其の消息を詳にし得る者六千五百名に達し、其の他在京した者と認められる者五、六千名に及び、合計一萬名以上の鮮人が東京市内及び接續郡部に分布した狀況であつた。然かも彼等鮮人の多數は、內地人とは言語、風俗、習慣を異にした無智低級な下層勞働者であり、民族的偏見に捉はれて一般內地人と融和せず、各地に集團生活を營み、動もすれば各種の破廉恥罪を犯し、一般內地人から兎角嫌惡され勝ちな狀態であつた。加之第一次世界大戰の媾和會議に際して提唱された米國の民族自決なる原則に刺戟されて、大正八年以來朝鮮には民族獨立運動勃興し、同年三月には所謂萬歲騷擾事件が勃發したのを始め、同年五月には安昌浩一派が上海に大韓臨時政府なるものを樹立し、次で同年九月にはキリスト教徒姜宇奎一派が滿洲から鮮內に潜入して齋藤朝鮮總督に爆彈を投擲した暗殺未遂事件があり、更に同年十一月には金協一味が鮮內より李堝公を上海に誘拐して同公を首領として第二次獨立宣言を企圖した事件が發生し、翌大正九年七月には金元鳳一派の義烈團員李成宇外一名が上海から爆彈を携行して朝鮮に潜入し、大官暗殺又は官公署爆破を企圖した事件があつた。然かも之に續いて一部鮮人の間には、漸次共產主義運動が擡頭し彼等一派はソ聯と結んで鮮內侵入を企圖し、絕えず鮮滿國境地帶の治安を擾亂するに至つた。(朝鮮總督府法務局編「朝鮮獨立思想運動の變遷」參照)而して之等不穩分子の策動は、當時の新聞紙等に依り孰れも「不逞鮮人の蠢動」として報道紹介され、我國一般民衆の腦裡に印象付けられて來た。彼の流言に現はれた「不逞鮮人」なる語が、抑如何なる根據に由來するものであつたか、之を推察するに困難ではない。
要約すると、
- ちょうど朝鮮人労働者の渡来が激増していた時期で、関東には朝鮮人労働者らが大量に居住していた
- 当時のこれら朝鮮人労働者らのガラが悪かった
- 朝鮮で独立運動や共産主義運動が激しくなっており、これらについてマスコミは「不逞鮮人の蠢動」と報じていた
などの背景があって、日本の一般の民衆の中で朝鮮人に対する恐怖と反感が潜在的に蓄積されていたのだという。もちろんこれはあくまで吉河光貞の意見であるため、これが正解とは限らないが。
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