福田村事件単語

5件
フクダムラジケン
3.3千文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

福田村事件とは、

  1. 1923年関東大震災から数日後の千葉県で起きた、日本人の行商人らを自警団が朝鮮人だと誤認して殺した事件。
  2. 2023年開された映画『福田村事件』。上記1の事件を題材としている。

である。

本記事では1の事件について記す。

概要

関東大震災が発生した1923年9月1日から5日後の同6日に、千葉県で発生した殺人事件である。

香川県から来ていたの行商人の一行が、地元の自警団に呼び止められ、朝鮮人ではないかと疑いをかけられた。日本人であると弁解したものの、四国弁であったために千葉県人の現地住民らにとっては言語不可解で日本人ではなく朝鮮人だと判断され、大量の村民に包囲され、そのまま幼児や妊婦を含む9名(妊婦胎内の胎児も含めると10名)が殺された。

発生した土地の名を取って「福田村事件」や「野田・福田村事件」、関与した人物らから「福田田中事件」とも呼ばれる。

直接的な加害者らが福田から4人、田中から4人の計8名逮捕されたが、村民らからは見舞金が集められるなど同情的な扱いを受けており、また裁判では懲役刑を言い渡されたものの1925年昭和天皇即位による恩赦のために短期間で釈放されたという。

1983年に出版された『いわれなく殺された人びと ―関東大震災朝鮮人―』という書籍では、「日本人虐殺朝鮮人虐殺はどうちがうか ―福田村事件の裁判―」という章にてこの事件について扱われており、章の副題の通り裁判について詳細に記されている。その中では犯人の氏名なども掲載されている。

較的的な資料としては、法務府特別審局から1949年に出版された、法務府特別審局長の吉河貞による『東大震災の治安回顧』などで言及されている。

九.東葛飾福田ける騒擾

九月六日午前十時頃香川人である高松市病難救藥院の藥行商一行が、藥其の他の荷物をに積み、東葛飾野田町方面から茨城方面に赴くべく、福田三つに差掛り、同所香取神社前で休憩した。然るに時附近に鮮人の侵入するものあるべしと警事して居た自警員が之を見附け、鮮人の疑があるとして右藥行商員を種々審して荷物をしたところ、四にて言語不可解な點等があつた爲め、右自警員は全く鮮人なりと誤信し、警鐘を打して急をに告げ、又は隣援をめるに至つた。其の結果、名の村民武器を手にして同神社前に殺到し、前記藥行商を包し、「朝鮮人を打殺せ」と喧囂し、該行商員等が方言葉を盡して「日本人である」と解したに拘らず、鮮人する恐怖と憎の念にられてを失つた群衆は、最解にを傾ける遑もなく、は荒繩で縛り上げ、口、棍棒を振つて毆打暴行し、遂には「利根川に投込んで仕舞へ」と怒し、香取神社から北方約二丁の距離にある三つ場に連れて行き、右行商員九名を利根川水中に投込み、内八名を溺死せしめたが、他の一名が泳いて利根川切りに遁れんとするや、群衆中よりで追跡するものが現はれ、で之を殺し、つた五名の行商員は急報に接して付けた巡査等の爲め、辛くも救助されて僅に死を免れる等騒擾を極めた。

なぜ「鮮人朝鮮人なりと誤信」したら「打殺せ」という話になるのかというと、当時は「不逞鮮人(法に従わぬ朝鮮人)が暴動を起こす、集団で襲来する」という流言蜚語が盛んに出回っていたため。つまり、犯人らの感覚としては「自己防衛」「正当な防衛」「悪を討つ」「やられる前にやらねばならぬ」といった感覚であったかと思われる。

「そのような流言蜚語がなぜあっさり信じられたのか」については、同『東大震災の治安回顧』内で以下のように解説されている。やや長いうえに、朝鮮人労働者について現在では「差別的」「不適切」と感じられるような表現が含まれているが、吉河貞氏の執筆当時の感性をそのまま伝える為にそのまま掲載する。

大震災時、民衆が不逞鮮人暴動を喧し、確信したのは、明かに斯くの如き覺であり、妄想であつた。然し乍ら幻想は、非常災害時に際して偶然民衆の心に浮んだ純な想の所ではなかつた。震災時の民衆の心には、常彼等鮮人する恐怖と反感が潜在的に蓄積されて居たのである。民衆はてから、彼等鮮人の兇暴性や反社性を考へざるを得ないな、種々なる事を見聞してたのである。斯かる事が有つたればこそ、民衆はの震災の惑に際して、彼等鮮人が兇暴にり、反社行動に出づることを、あり得べき事として期し、期待するに至つたのである。民衆のの期待こそ、不逞鮮人する流言を斯くも汎に氾濫せしめた社的根であつたと謂はねばならぬ。(ギユスタフ·ルボン著「群衆論ー民心の研究」邦並に大石兵太著「群衆心理照)然らば震災時の民衆に見聞されて居た鮮人の兇暴性若くは反社性とは何か。大正七年の米騒動鮮人働者の地渡した事は、既に識者の摘したところであつたが、震災時在した鮮人は、警視係係にて其の消息を詳にし得る者六千五名に達し、其の他在した者と認められる者五、六千名に及び、合計一名以上の鮮人東京市内及び接部に分布した況であつた。然かも彼等鮮人の多は、地人とは言語、風俗、習慣を異にした智低級な下層働者であり、民族偏見に捉はれて一般地人と融和せず、各地に集生活み、動もすれば各種の破廉恥罪を犯し、一般地人からされ勝ちな態であつた。加之第一次世界の媾和議に際して提唱された民族自決なる原則に刺戟されて、大正八年以朝鮮には民族運動し、同年三月には所謂擾事件が勃したのを始め、同年五月には安浩一上海に大臨時政府なるものを立し、次で同年九月にはキリスト教徒姜奎一滿から鮮に潜入して齋藤朝鮮督に爆彈を投擲した暗殺未遂事件があり、更に同年十一月には金協一味が鮮より上海誘拐して同を首領として第二次立宣言を企した事件が生し、翌大正九年七月には金元の義外一名が上海から爆彈を携行して朝鮮に潜入し、大官暗殺又は官署爆破を企した事件があつた。然かも之にいて一部鮮人の間には、漸次共運動が擡頭し彼等一はソ聯と結んで鮮侵入を企し、えず鮮滿治安を擾するに至つた。(朝鮮督府法務局編「朝鮮立思想運動遷」照)して之等不穩分子の策動は、時の新聞紙等に依り孰れも「不逞鮮人の蠢動」として報道紹介され、一般民衆の腦に印付けられてた。彼の流言に現はれた「不逞鮮人」なる語が、抑如何なる根に由するものであつたか、之を推察するに困難ではない。

要約すると、

などの背景があって、日本の一般の民衆の中で朝鮮人に対する恐怖と反感が潜在的に蓄積されていたのだという。もちろんこれはあくまで吉河貞の意見であるため、これが正解とは限らないが。

関連動画

関連リンク

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

東方Project (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: 三丁目のミケ太
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

福田村事件

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • 福田村事件についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!


おすすめトレンド