禰衡(デイコウ、ネイコウ)とは、中国・後漢末期の人物(173年-199年)である。
概要
非常に恵まれた才能の持ち主で、どんな事でも難なくこなす。その為、とても傲慢不遜で、他人を馬鹿にし、鼻にかけたような振舞いをする為、多くの人に嫌われていた。数少ない友人である孔融が曹操に推挙した際は「世の中はこんなに広いのに、どうしてマトモな人間が居ないのだろう」と言って、曹操とその配下達を馬鹿にした。具体的には以下の通り。
- 荀彧は、誰か病気の人がいたら、見舞いする役とかでよくね?
- 荀攸には墓参りの代理でもさせとけ!
- 程昱はジジイだし、せいぜい門番が出来るぐらいじゃね?
- 郭嘉には、手紙でも読ませとけよ。
- 張遼、太鼓叩けや!!
- 許褚は家畜を飼わせたら、頑張るでしょ。
- 李典は郵便配達員!!
- 呂虔は刀鍛冶でおk。
- 満寵は酒桶作って酒粕でも食ってろ!!
- 徐晃は肉屋がよく似合うわ~。
- 于禁は大工なり左官屋なり、やってろ!!
- 夏侯惇は片目だし、薬かごでも持たせれば、目医者になれるよ。
- 曹仁は単なる銭ゲバ野郎じゃ!!(曹洪と勘違いしている)
武将たちは怒り心頭、傍から見ている孔融は汗だくだく。才ある者を愛す曹操であるが、流石にイラっと来て、禰衡を辱めてやろうとして、彼を太鼓打ちという下級役人に任命した。
しかし天才・禰衡はひるまず、朝廷の大宴会で「漁陽参撾」という曲を演奏した。見事な演奏で宴席の人々を感動させた禰衡だが、途中で一箇所太鼓を打ち間違えてしまった。宮中のしきたりでは、太鼓を打ち間違えたら服を着替えて演奏し直すことになっていたが、禰衡は曹操や朝臣たちの面前で平然と素っ裸になって着替えはじめ、着替え終わると顔色一つ変えずに再び名演を披露した。これにはさすがの曹操も「禰衡に恥をかかせるつもりが、かえってわしの方が恥をかかされたわい」と苦笑せざるを得なかったという。
面倒くさくなった曹操は、禰衡を劉表の所へ送る。この辺は、「民衆に反動者として指示されている者を真面目に処刑するなんて出来ようか」という裏事情もあったりする。
送別会を開いた際、曹操配下の面々は「あいつが何をやっても、寝たふりをしてしシカトしよう」と示し合わせた。そこに現れた禰衡はワンワン泣き喚き「棺桶と死体が沢山あるよ! 気持ち悪いよ!」と皮肉った。
劉表の元では比較的下手に出たものの、その配下に対しては傲慢だった。劉表が禰衡に対して、孫策に送る手紙を見せた所、「この文章は孫策の部下が読むものですか? それとも張昭にでも見せるんですか?」と一笑に付したという。
上記の経緯から、禰衡は劉表の配下に嫌われ、彼らの讒言によって劉表からも遠ざけられた。次に黄射という男と仲良くなる。彼の仲介で、彼の父親・黄祖と出会い、高く評価された。しかし、そこでも禰衡は傲慢になって行き、最終的には、
「あなたは神様だ! 供え物を貰うだけ貰って、供えてくれた人には、何の利益も与えていない!」
と、黄祖に毒を吐き捨て、ぶちキレた黄祖に切り捨てられる。禰衡の死を聞いた曹操は、ニヤニヤ笑っていたという。
作中の禰衡は、親友の孔融と楊修を「マシな者」として一定の評価をしているが、この二人はどちらも問題を起こして曹操に処刑されている。
補足
以上の逸話は、演義で脚色された部分が多いが、禰衡自体は実在の人物。黄祖に毒を吐いた後に処刑されたが、死ぬ直前まで、黄祖へ罵詈雑言を浴びせ続けた。後に黄祖は、彼を殺した事を悔いたという。
孔融とは30歳ほどの年齢差があったが、年齢を超えた親友として付き合った。互いを孔子・顔回と不遜にもなぞらえる、また「父親が子どもに愛情を持つものか、元をたどれば性欲の発露の結果にすぎん」「母と子の関係なんて瓶と中身みたいなもので、中から出てしまえばそれっきりだ」などと儒教倫理を無視する放言をしたともいう(もっともこれらは曹操が孔融を処刑する時の告発文に書かれたことなので、鵜呑みにするのは危険であるが)。
キワモノ的な存在として、コーエーが出版する『三国志本』では、度々プッシュされている。一方、曹操嫌いの甚だしい中国では、曹操を真正面から罵倒した人物として、かなり人気が高い。
禰衡は名作「鸚鵡賦」の作者としても知られる。黄射が開いた宴会でオウムが献上され、黄射に命じられた禰衡は、一字の修正もなく一気にこの賦を書き上げたという(「鸚鵡賦」は『文選』に収録され現在に伝わる)。
なおかつて江夏にあった長江の中洲「鸚鵡洲」(明代に消失。現在の鸚鵡洲は清代中期に新しくできたもの)は、禰衡が「鸚鵡賦」を書いた土地であるとも、黄祖に殺された土地であるとも言われる。鸚鵡洲は後世、李白をはじめ多くの詩人の漢詩に詠まれ、禰衡も「権力者の横暴に非業の死を遂げた不遇の才人」として詠われるようになった。
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