科学テレビ協力委員会とは、かつて存在した団体である。
概要
放送事業の継続困難になりかけていた日本科学技術振興財団テレビ事業本部(科学テレビ)を支援するために、在京キー局が中心となって設立された。
また、特定のテレビ局が科学テレビの経営権を支配(主にサブチャンネルとして利用)しないように、牽制と監視を行う目的も含まれていた。
当時、同局は「科学テレビ」の通称で使われていたものの、一般的には新聞のテレビ欄などで「東京12チャンネル」と用いられていたため、こちらの名称の方が広く知られていた。その後、現在は「テレビ東京」として知られている。
歴史
設立前
開局時
1964年4月12日に関東広域圏を対象とした第5の民放テレビ局(12ch)が教育放送専門局として開局。
開局以来、「科学技術教育番組60%、一般教養番組15%、教養・報道番組25%」の確保の条件に基づき、科学技術教育番組を中心とした編成が行われてきた。外郭団体である「科学技術学園」を通じて開局と同時に科学技術学園工業高校を設立し、新たにテレビ放送事業本部を設置して通信制の授業を放送を行っていた。娯楽番組の放送は全く行われず、教育番組、特に科学番組が主に放送されていた。教育番組にはCMを流すことができなかったため、企業からの寄付金によって運営されていた。
さらに、この時期には12chを受信できないテレビ受像機が多く存在し、アンテナがあっても受信できない状況が発生していた。また、放送時間は他の先発局に比べて非常に短かった。
その結果、慢性的な赤字経営が続いていた。
放送時間短縮、経営危機
1965年4月4日から一時的に放送を中断(11:10~11:55、16:05~16:45の間中断)する事態になっていた。
1966年4月4日からは放送時間の大幅な短縮(放送時間が10:00~11:30(平日のみ)、17:00~21:00の間のみ)が行われ、窮地に陥った。
設立時
1967年2月、財団形式では経営などに無理があったため、救済を目的として在京キー局(民放4局とNHK)が「科学テレビ協力委員会」を設立し、各局から協力委員が派遣された。構成員は以下の通りである。
主に科学テレビへの番組制作支援(各局番組の再放送や娯楽番組の制作方法等)を行う。他局で過去に放映された娯楽番組の再放映権、スポーツ中継の放映権の譲渡を受けた。
1967年4月10日より、日中およびゴールデンタイムの後半から深夜の放送を再開し、放送時間を8時間10分に拡大した。これに伴い、他の民放テレビ局と同様に一般的な番組やCMを放送するようになった。
解散後
1968年7月、同委員会を引き継ぐ形で財団テレビ事業本部の番組制作(主に一般番組・娯楽番組制作)を請け負うことを目的とした「株式会社東京12チャンネルプロダクション」(現在の株式会社テレビ東京の法人格、1973年の事業譲渡までは番組制作会社)が設立された。
同年11月14日からは娯楽番組の放送が全体の20%まで認められるようになり、自局での娯楽番組の制作・放送が可能となった。
その後、国は民間の教育放送専門局を廃止し、総合放送局への移行を決定した。財団法人日本科学技術振興財団(財団テレビ事業本部)は、1973年7月に提出していた科学技術教育専門局の免許申請を撤回した。
1973年10月1日、株式会社東京12チャンネルプロダクションは商号を株式会社東京12チャンネルに変更し、財団法人日本科学技術振興財団から放送法に基づくテレビ放送の事業目的、経営及び放送事業を譲り受けた。
1973年10月31日、教育放送専門局である財団法人日本科学技術振興財団テレビ(科学テレビ)が廃局となり、翌日の11月1日に「教育番組20%以上、教養番組30%以上」の確保を条件に東京12チャンネルが総合放送局としてその役割を引き継いで開局した。1974年4月には、一部を除く学校向け番組の放送が終了した(学校番組自体は1977年3月まで続けていた)。
1981年10月1日に株式会社テレビ東京に社名を変更し、東京12チャンネルから現在のテレビ東京へとなった。
1982年3月に「メガTONネットワーク(現在の「TXN」)」による全国ネットワークの拡大を開始。同年11月の再免許時には、免許条件が他の民放テレビ局と同様に「教育番組10%以上、教養番組20%以上」の確保まで緩和され、他の民放テレビ局の免許条件と同一となった。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt