移民とは国境をまたぐ移住者のことである。ネットでは彡(゚)(゚)のように他のコミュニティから移動してきた人を指すこともある。
国連による移民の定義
国連広報センターによると次のようになる。
移住の理由や法的地位に関係なく、
定住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意しています。
1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的です。
日本の在留管理制度においては中長期在留者が3ヶ月以上の滞在となっており、国連の言う移民である。
日本が現在進めている移民政策
日本は移民を入れており、例えば令和元年度は1年間に20万2044人増加した(減少している特別永住者との合算なので、中長期在留者の増加はもう少し多い)。
日本はOECD諸国(≒先進国)の中ではまだ移民の割合が少ないが、OECDにはアメリカなどの移民国家も含まれる上、EU域内の移動が容易な欧州諸国が多数含まれるので、日本との単純比較はできない。
令和4年末現在における在留外国人数については次の通り(令和4年末時点)。
(1)中国 761,563人 (構成比 24.8%)
(2)ベトナム 489,312人 (構成比 15.9%)
(3)韓国 411,312人 (構成比 13.4%)
(4)フィリピン 298,740人 (構成比 9.7%)
(5)ブラジル 209,430人 (構成比 6.8%)
(6)ネパール 139,393人 (構成比 4.5%)
(7)インドネシア 98,865人 (構成比 3.2%)
(8)米国 60,804人 (構成比 2.0%)
(9)台湾 57,294人 (構成比 1.9%)
(10)タイ 56,701人 (構成比 1.8%)
そ の 他 491,899人 (構成比16.0%)
財界はこれを大きく拡大し、税金を投入して大規模な受け入れをすすめることを求めている。これから日本で市場原理による賃金上昇が生じるのを恐れ、移民で回避したい思惑とみられる。
現在のところ、政府は移民という言葉を避けつつ毎年受け入れを進めている。つまり移民政策を選択・推進するという政治プロセスには、国民的議論や民主的手続きは含まれていない状況である。
偶然か必然か、ダイバーシティ(人材の多様性)推進、ヘイトスピーチ規制、クールジャパンのアピール、英語・中国語・韓国語での表記やアナウンスの増加、小学校での英語教育早期化など、この方向を加速するような流れは強まっている。TPP11、RCEPの発効など、日本への移民が急増しているベトナム(人口1億弱)などを含む。
日本経団連は2020年の発表の。新成長戦略において「年齢、性別、国籍、障がいの区別なく、多様な主体による価値協創が促進され、社会課題の解決と社会全体の生産性向上が実現する姿を描いた。外国人が日本国内で活躍できる環境を整えることは、人口減少と高齢化が進む日本において、力強い経済成長を実現するために必要不可欠な施策である。」と外国人は日本の成長に不可避であるとみている。
世界の移民の歴史
歴史上、民族大移動のように出身地でない地域に人々が移住することはつねにあった。移動しながら生活するユーラシア大陸の遊牧民、拠点に移住して交易を営む東南アジアの華僑・印僑のような例もある。
アメリカやオーストラリアは植民地が独立して国になったもので、もともと西洋人はいなかった。シンガポールは華僑や印僑が中心の国である。イスラエルもかなり新しい移民国家である。
ただし、これらは近代の国民国家概念が確立し国境線が意識される前の話で、現代の移民とは区別される。
現代の移民は、主権国家間の集団的な移住を指す。移民問題は、国民国家概念と表裏一体であり、文化や国民経済の問題とセットで語られる事が多い。
移民受け入れ側の目的としては、不人気だったり低賃金な仕事を(賃金引き上げなどの)待遇改善をしなくても受け入れる労働力の獲得などがある。移住者側の目的としては、(出身地に比べれば)高賃金で環境の良い国で暮らすことなどである。
問題点としては、現地人と移民の文化的軋轢、移民が後進国並みの賃金や待遇でも働く事による労働者の待遇悪化、言語などの問題で就職できずそのまま貧困層になる、そして以上が複合して起こる治安の悪化などがある。
このため、移民を求める声もあるが慎重論もある。世界的には、経営者層は移民を求め、労働者層は移民に反対する、そこに文化摩擦などの問題がからむ、という構図での対立が基本的なものである。
欧米では移民反対=低レベルな極右というステレオタイプが形成されているが、これは乱暴な見方であり、問題をまともに論じる妨げとなっている。
日本への移民の歴史
歴史的には、中国や朝鮮半島などからの移住者(渡来人)は漢字・仏教・儒教・建築技術など様々なものを日本へ伝え、技術・思想・文化・政治に多大な影響をもたらしてきた。
日本最古の歴史書である古事記・日本書紀
も基本的に漢文であり、たとえば古事記の序文には中国の周王や、陰陽・五行・王化など中国的な概念への言及も見られる(ちなみに近現代の日本は中国より欧米に学ぶところが多いため、政治から文化まで欧米の概念を大量に用いている)。
古代における中国や朝鮮半島との関係は非常に深く、古代最大の反乱である筑紫国造磐井の乱などを経て、全体としては時代を下るにつれ関係は遠くなっていった。
大航海時代には、南蛮人と呼ばれる主にヨーロッパ人やアフリカ人の存在が知られている。有名なのは織田信長に仕えることになった弥助がいる。
明治以降、国民国家として国民=国籍保有者として法的に管理するようになってからは、主に朝鮮半島出身者をどう扱うかが問題になった。当時日本経済の主力であった紡績業は初期から積極的に朝鮮人を受け入れている。当時の日本は大日本帝国という多民族の「帝国」であり、異民族の同化に積極的であった。
第二次世界大戦後、日本政府が強制的に旧植民地出身者を国籍喪失させると、「外国人」となってしまった者たちが在日外国人としてアイデンティや生活問題に悩まされた。
法的には移民ではないが、沖縄県民も日本国と文化的・政治的に同一化を迫られる琉球処分が比較的遅く、琉球王国の時代もあったため、同一化が難しくしばしば問題を呼んだ(方言札、人類館事件など)。
ただし文化的には言語などで日本本土と琉球諸島は同系統に属し、日本語族は日本語派と琉球語派に大別される(方言か別言語か決める基準は存在しないが、フランス語とイタリア語の差に匹敵するという)。
1980年代以降は好景気の煽りを受け、南米やアメリカ合衆国の日系人、前世紀からある中国人・韓国人との結びつきなどを利用しての、労働力不足を理由とする定住外国人が増加した。その後も在留資格者は増え続け、1991年の122万人から2016年には238万人とほぼ倍増している。
全体としてみると、中国や韓国、台湾などからの移住者が大都市に多く、職種も一般企業のほか、サービス業ンド非製造業が多いのに対し、ブラジルやペルーからきた南米人は、愛知県や静岡県、群馬など北関東の自動車工業製造業に集中して雇用されている。
これは、産業界の意向を受けた1990年代の入国管理法改正により、海外日系人に国内での求職、就労、転職の制限のない「定住者」の資格が付与されたことによって増加していったものである。
近年はアジア経済全体が安定的に成長してきたこともあり、必ずしも経済的移民ばかりとも言えなくなってきた。ジャパニーズポップカルチャーや日流といった文化面での交流も無視できなくなっている。また韓流や華流などアジアのカルチャーも日本人の間で消費されることも増え、相互的にもなってきている。
移民ではないが外国人旅行者について述べると、かつては平成に入っても400万人に満たなかったが、ビザ緩和など積極的に外国人を呼び込む政策に舵を切った結果、2005年の673万人から2015年の1974万人と出国日本人数の1621万人を初めて抜き観光立国として脱皮を見せている。
越境する移民ネットワーク
オールドカマーとしては上野や鶴橋のコリアン・タウンは古くから飲食店を中心に地域に根付いている。ニューカマーは80年代においては単に日本にやってきて働くというのが移民の大多数であったが、次第に母国と移住先のネットワークが築かれていく。
池袋・新宿で見られたアジア系外国人のネットワーク化は以下の通りである。まず第一段階では、住み着いた人が家族や親族、友人や知人を呼び寄せて、ネットワークを形成する。第二段階は、新たな移住者の集中が独特のエスニックな生活文化世界を形成し始める。
90年代に第二段階への変化が見られ、母国の文化や情報に対する需要が喚起され、エスニック・ビジネスが形成される。移住者自身が始める母国語の新聞や雑誌、ビデオレンタル、たまり場としての飲食店や美容院などが、母国文化を再構成し、ネットワーク化の媒介となった。
近年は中国や韓国といったアジア系だけでなく、ブラジル人やインド人、トルコ人その他イスラム教徒などが新大久保や新小岩、群馬県大泉町(リトルブラジル)といったところに根付いてきており、異国文化を手軽に味わえる新たな観光地として賑わいを見せている。
日本からの移民
日本への移住と同じくらい古い時代から、日本からの移民も見られる。日本列島が形成されたあと、縄文人という人達が住んでいたが、縄文人達は一部アイヌや沖縄人の祖先と混血して今に至っている。また古来から中国王朝と日本は文化的に一体的な時期を有していたので、しばしば中国へ文化を学びに出かけることをしている。
歴史上の人物では阿倍仲麻呂が唐において科挙に合格して役人として成り上がりを見せている。また遣唐使が取りやめになったあとも、経済的交流は見せており、倭寇と呼ばれる人達が日中を往来している(海賊として働くこともあったが、基本的には私貿易を行う商人である、境界人としての見方もある)。
いわゆる鎖国政策が取られる前までは、日本は海外との往来は活発で、東南アジアや遠くはスペインまで貿易、宗教的帰依のために出かけることがあった。支倉常長や山田長政などがいる。幕末であるが、ジョン万次郎という漂流の末、半ば難民同然でアメリカに渡り業をなしたものもいる。
但し、必ずしも穏便に移民が行われたことばかりではなく、人身売買による日本人連れ去りもしばしば見られる。記録が残っている限りでは、フロイス日本史に日本人連れ去りがあったとされる。
明治以降は、アメリカやハワイへの移民、ブラジル移民が顕著である。これらの移民は日本国内での生活が困窮していて、フロンティアとして出稼ぎに行く、日本国政府としては外貨を稼ぎに行ってもらい、本国の経済の助けとしてもらう意図があった。
但しハワイ移民に見られるように、経済弱者であった沖縄人がハワイで再び奴隷同然で働かされるなど良いことばかりではない。似たようなことは北海道開拓の村や満州開拓団でも見られる。そして第二次世界大戦後、旧植民地に取り残された日本人は棄民とも称され、日系人もしくは残留日本人として母国と途絶され未だに尾を引いている。
日本が戦後経済成長を果たしたあとは、企業人としての移民が目立ってきている。その始まりはニクソン・ショック後のドルペッグ制の崩壊であるが、これにより日本経済に見合った通貨価値として円が評価され、急速に円高が進んだ。ここから日本企業は今までの原材料輸入―完成品輸出という輸出型産業から、海外投資を強めて現地生産現地販売へと方針転換を行うようになる。
特に中国の経済成長が決定的になってからは、本社工場だけでなく、下請け工場も関連部品を扱ってもらうために中国本土へ移転するケースがしばしば見られる。また90年代後半から企業駐在員とその家族の移住が増えてきている。
在留邦人の数は、80年台から増加が顕著となり、1990年の62万人から2005年には101万人、2016年は133万人を超えている。最近事件の犠牲になったアルジェリア人質事件や駐在員ではないが現地の経済開発に携わっていた日本人がいたバングラデシュのダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件も日本人が国際的に活動していることの例である。但し、現地駐在員はローテーションで派遣される事が多く、必ずしも定着的とは言えない。また現地社員とも交流が乏しい点が指摘されている。
また移民ではないが、海外旅行を楽しむ日本人は1972年の年間100万人超えから90年代半ばまでの1500万人超えまで増加傾向であり、2016年は1600万人と決して海外旅行が珍しくない事を示している。最近は、経済や観光目的だけでなく、文化的動機による移民も目立つようになってきている。
明治時代から日本にとって欧米は文明国として学問や文化に浴する異国の地であった。夏目漱石や福沢諭吉など明治の文人が残した随筆や著書は率直にそのことを今に伝える。
戦後も留学先や文化的に活躍する目的で移住する例はしばしばある。ジャズやダンス、ポップアップ、ヘアメイクなどの分野で活躍を夢見る人はニューヨークに渡り、グラフィックアートや演劇、写真などの分野で活躍を夢見る人はロンドンに渡る傾向が強かった。
学問も相対的にはかつてほどではないとは言え、医学や物理学の実験設備においてアメリカやヨーロッパにしかないものもまだあり、日本からアメリカへの留学生は今も多い。また人文系や社会科学系においてもケンブリッジ大学やハーバード大学などが歴史的にも教授陣に置いても魅力的な中、留学の意義は残っていると言えよう。
また数としては多いとは言えないものの、海外で国際結婚する例や移住する例もあり、ドキュメンタリー映画の『世界残酷物語』や『地球の歩き方』などは文化人類学的にバックパッカーを後押しする役目を担った。硬派な面では報道写真家も異国の人たちをカメラに残すというマインドを持って活動している。
現在でも異文化を覗き見するカルチャーは残っている(日本テレビの世界の果てまでイッテQ!やテレビ朝日のナスDは好評を博している)。また近年はテレビ番組で「海外に住む日本人を紹介する」ことが一つのジャンルとなっている。食やエンターテイメントなど日本文化が輸出されると同時にその文化を現地で広めようという人たちもいる。
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