程昱とは、三国志に登場する人物である。永和6年(141年)生まれ、黄初元年(220年)に没。
概要
字は仲徳。東郡東阿県(現在の山東省聊城市)の出身。身長が八尺三寸(約191cm)、見事な髭をたくわえていたという。元の名前は程立といった。
黄巾の乱が起きたとき、地元の東阿の県丞が反逆したが策略を用いてこれを撃退した。兗州刺史劉岱には袁紹と公孫賛の争いに関して袁紹の方に付くよう勧めたが、劉岱の仕官要請には応じなかった。しかし劉岱が黄巾賊との戦いで戦死すると兗州の支配者となった曹操の招きには応じた。
曹操が徐州征伐に赴いた後、兗州は呂布の攻撃に晒され、鄄城・范・東阿の三城以外は皆呂布に呼応したが、留守を守っていた程立は荀彧や棗祗らと協力してこの三城を守り抜き、帰還した曹操は程立に「あなたがいなかったら帰る所が無かった」と喜んだ。程立は若い頃、泰山に登って太陽を両手で挙げるという夢をよく見ており、その話を荀彧が曹操にした所、曹操は程立の名前「立」に「日」の字を付け加えて「昱」と改名させた。
曹操は呂布との戦いが膠着すると一時期袁紹からの従属の招きに応じそうになるが程昱は諌めてこれを止めさせた。曹操が袁紹と戦端を開いた時、程昱は鄄城で700の兵を守って駐屯していたが、袁紹の大軍が近づいてくるという知らせがあり、曹操は増援しようとしたが程昱は「相手はこちらの兵が少ないから軽んじて攻撃しません。増兵すれば攻撃してくるでしょう」と断りその通りになった。曹操は「あなたの豪胆さは孟賁・夏育(共に古代の勇士)を上回るものだな」と褒め讃えた。後に程昱は袁紹の残党との戦いで功績を上げた。
中原が平定されると、曹操は程昱の背を叩き「昔兗州であなたの言う事を聞かなかったら今の自分は無かった」と言ったが、程昱は「『知足不辱』(老子『道徳経』)という。引退すべきだな」と言って第一線から退いた。
その後、曹操の子曹丕が君主となると程昱は加増を受け、三公に任ぜられようとした矢先に没した。
逸話
- 劉備のことは早くから警戒して郭嘉と共にこれを殺すよう進言している。
- 強情で他人に逆らう事も多かったが、曹操からは全面の信頼を受けていた。
- 正史の注には「曹操が食糧難に苦しんだ時、程昱は自分の出身県を略奪し三日分の食糧を用意したが、その中に人肉も入っていた」という信じ難い話が載っている。
程昱の家族
- 程武 - 子。程昱の跡を継いだ。演義では夏侯楙の参軍として、孔明の北伐の先鋒だった趙雲を生け捕る策を進言している
- 程延 - 末子
- 程克 - 孫。程武の子
- 程暁 - 孫。字は季明、通達した見識の持ち主であったという。程昱伝の末尾に上疏文が記されている
- 程良 - 曾孫。程克の子
各メディアにおける程昱
三国志演義
官渡の戦いの後に行われた倉亭の戦いで、袁紹相手に「十面埋伏の計」を用いてこれを打ち破っている。
他にも劉備の幕下にいた徐庶を引きぬくためその母を利用したり、赤壁の戦いで敗走する曹操の前に立ちはだかった関羽に命乞いするよう薦めたりしている。
蒼天航路
正史の記述を思わせる長身の爺さんで、人間味豊かな性格描写をされている。
恋姫†無双
三国志大戦
Ver.2まではR荀彧とUC程昱で「ダブルイク」反計デッキコンビを組んでいたが、Ver3でUC程昱の反計が別の計略に変更されてしまった。
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関連項目
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