稗貫広忠単語

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稗貫広忠(ひえぬき・ひろただ ? ~ 1594?)とは、陸奥人領戦国大名である。

概要

陸中人・稗貫氏の当ヶ崎。和賀氏の出身で、先代に子がなく養子入りした。

豊臣秀吉小田原征伐に参しなかったため、州仕置で領地をボッシュートされてしまうが、葛西大崎のドサクサに紛れて自分たちも起する。一度はを奪回するも、本気を出した豊臣軍の前に踏み潰されてしまい、稗貫氏・和賀氏は全に滅亡した。

生涯

最後の当主

陸中人・和賀義勝の子。稗貫輝時に子がいなかったため、養子となり跡を継ぐ。別名は「重綱」「法」。

稗貫氏は、北の南部氏からの度重なる圧お隣奥州斯波氏ともども衰退しつつあったが、広忠は実家・和賀も含めてその統制に尽し、ある程度安定した治世を行ってはいた。

だが1590年、小田原征伐の時に豊臣秀吉の参要請に応じず、戦後州仕置で和賀氏ともども易された。小田原に赴くことで反乱が発生することを恐れたためともいう。

和賀・稗貫一揆

州仕置で先祖代々の領地をボッシュートされた人・地は非常に多く、来たるべき反撃の時をうかがっていた。稗貫広忠と・和賀義忠もその一人だった。

そしてその不満は南の旧葛西氏の領地で爆発。「葛西大崎」となって豊臣の代官たちを次々と攻撃し始めた。この後ろに伊達政宗の扇動があったのでは?というのは有名な話。

政宗の事は置いといて、和賀・稗貫旧領でもこれに乗じて一の反乱が勃発した。これを「和賀・稗貫一と呼ぶ。まずは和賀氏の居だった二子を奪回。続いて稗貫氏の居だったヶ崎を包囲する。南部信直がこれを攻めるが、ちょうど季節がにさしかかったこともあり、南部氏は一旦撤退。こうして広忠は一年も経たずしてヶ崎へと帰還する事に成功した。

……が、これが稗貫氏最後のきだった。

翌1591年には「九戸政実の乱」が発生した事で、南部氏秀吉に救援を要請。豊臣秀次を総大将とした大軍勢が州へと進軍してきた。これによって葛西大崎も和賀・稗貫一も鎮圧される。稗貫広忠は事に行方をくらませることに成功したが、和賀義忠は逃走中に土民に捕まり殺された。

その後

南落穂集」では、広忠は逃亡するも1591年中に死去したとする。「稗貫伝」では、元臣を頼って落ち延びたが1594年に死去。後者に収録されている、広忠が見た夢について詠んだのが以下の句。

たた頼め 如のそ 有難き 立帰るべき時そ 来そ来きにける

如とは「あるがままであること」。要するに、真実如常・己のあるがままの形を祈り願い続ければ「立ち帰るべき時」が訪れるだろう、という話。広忠はこれを旧領に復帰できる前触れではないかと考えてウッキウキであったが、それを聞いた住職は内心「あっ・・・(察し)」と思ったが口にはしなかった。間もなく広忠は円環の理に導かれて立ち帰っていった。

稗貫氏代々の居だったヶ崎羽二大ちゃんの一である北信愛の居となり、と名を変えた。そして1600年、慶長出羽合戦の隙を突き、義忠の遺児・和賀忠親奪還のために挙兵する。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける稗貫広忠の力一覧。

血族は和賀氏扱い。生年設定は、(1554~1603)、/創(1540~1594)。稗貫一族の中ではこれでも最強クラスである……。周りは伊達政宗やら最上義光やら危険がいっぱい。でも斯波よりはマシかもしれない。

軍事 内政
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武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 智謀 政治
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世記 采配 37 智謀 47 政治 44 野望 81
蒼天録 統率 49 知略 50 政治 47
下創世 統率 知略 政治 教養
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 武勇 知略 政治
創造 統率 56 武勇 52 知略 58 政治 65

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稗貫広忠

1 ななしのよっしん
2023/12/25(月) 17:44:14 ID: caMRK1u1Fn
>血族は和賀氏扱い

これのせいですぐ稗貫から出奔するんだよな…
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