立見尚文とは、喪失した陣地の奪還に定評のある、幕末最強、あるいは(日露戦争期の)東洋最強の軍人である。
出自
1845年8月21日に桑名藩士として誕生、通称鑑三郎。桑名藩は、戦国最強として知られる本多忠勝を開祖とする藩で、数度の転封を経て、幕末期には会津藩主の弟が治めていた。若い頃から、柳生新陰流を修得し昌平坂学問所に学び、文武両道の士として高く評価される。その後、幕府陸軍に出向しフランス式の軍制を学び、桑名藩の軍制改革にも着手した。
戊辰戦争期 ~雷神隊~
幕府と薩長の対立が激化すると、会津藩と共に幕府軍の主力として転戦するが、鳥羽伏見の戦いに敗北し、桑名が陥落すると、飛地の越後柏崎に逃れ「雷神隊」を組織。戊辰戦争において旧幕府軍最強の部隊として名を馳せた。
宇都宮戦争では、旧幕府陸軍の大鳥圭介や新撰組の土方歳三らと共闘し、敗北はしたものの善戦。この時、新政府側では野津道貫が参戦したが、彼らを討ち取る事が日本の損失になるとして、本格的な交戦を避けたといわれる。
北越戦争では、ガトリング家老河井継之助と共闘。緒戦の朝日山の戦いでは奇兵隊参謀の時山直八を討ち取り、八丁沖の戦いでは、沼地を渡るという奇襲作戦をやってのけ、落城した長岡城を奪還するという、戦史史上でも稀有な戦功を上げた。最終的には河井の負傷を期に会津へ撤退する事になったが、損害は新政府軍の方が圧倒的に多かった。また、この戦いで新政府側の総大将を務めた山県有朋は、命からがら逃げる場面があったり、味方から激しい非難を受け恨まれたりと、まさにフルボッコ。
後に、会津城下や出羽長岡山に転戦し、ゲリラ戦により新政府軍を苦しめたが、最後の後援者、庄内藩の降伏と共に、新政府軍に投降した。
日清戦争期 ~歩兵第十旅団~
戊辰戦争の後、暫くは謹慎していたが、帝国陸軍士官として抜擢され、西南戦争などに参戦。陸軍大学校や台湾総督府の勤務にも従事した。
日清戦争では歩兵第十旅団長として参戦。総司令官が山県有朋。直属の上司が第五師団長の野津道貫。因縁深い…というより因縁が続いていると言った方が適切かもしれない二人の間に野津が立っている構図である。この人事が良かったからなのかどうかは定かではないが、第五師団の戦果は非常に良好で、立見自身も鳳凰城への一番乗りを果たしたといわれる。
病気のため山県が戦線から外れると野津が繰り上がり、後任の師団長には奥保鞏が就任。奥も、第二次長州征伐の時、小倉口で山県と直接干戈を交えた因縁ある将軍であり、直属の上司にまた恵まれた形になった。
日露戦争期 ~第八師団~
日清戦争の後に、新設された第八師団師団長に任命され、対ロシア戦を想定した準備に着手。八甲田山雪中遭難事件も、その一環として起こったアクシデントであった。
日露戦争が始まると、黒溝台会戦に援軍として派遣される。既に黒溝台に陣取っていた秋山好古が、兵力不足のため騎兵旅団なのに塹壕掘って防御態勢取っていたり、乃木希典が旅順に釘付けだったり、果てはロシア軍の冬季大攻勢で防御陣地が陥落したりと、困難な状況下の作戦を強いられるが、師団の約半数が戦死という大損害を出しながらも黒溝台の防御陣地を奪還し、この会戦を勝利に導いた。
実は、日本軍ロシア軍ともに指揮系統はgdgdだったらしいが、冬季戦というロシアの十八番を頓挫させたのは非常に大きく、これが分水嶺となって後の奉天会戦に繋がったと言っても過言ではない。
戦後
戦後、陸軍大将に昇進し、翌1907年3月6日没。藩閥人事が横行していた世相にあって、既に大将に昇進していた奥のような謙虚な性格でもなく、薩長の要人に対して「お前はあの時私の目の前から逃げ出した」と平気で言い放つ、忖度もあったものではない気質でありながら、その実力を多くの人々に認められ、(色々気を遣われながら)起用され続けた点は特筆に値する。
「一介の武弁」であることに非常にこだわった山県有朋にしてみれば、色々な意味で涙目になる相手であったのは想像に難くない。
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