竹崎季長(1246~?)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
本来出自も定かではない一御家人なのだが、彼が残した資料によってとても有名になってしまった人物である。
概要
肥後の御家人で、菊池氏の同族とも阿蘇氏の同族ともいわれている。どちらにせよ庶子の一人にすぎなかったようだ。
そんな彼を一躍有名にしたのが『蒙古襲来絵巻』である。その絵巻には以下のことが描かれている。
1274年の文永の役に際して、所領を失い無足の身だった竹崎季長は、戦功を求め突進。その功績を少弐景資は認めたが、その兄で鎮西奉行の少弐経資からの感状には一番駆けの名誉が公認されていなかったのである。
そこで彼は遠路はるばる鎌倉に行き、安達泰盛に面会。結果肥後国海東郡の地頭に任じられたのである。
そして1281年の弘安の役では、上陸を企てる東路軍との志賀島での戦闘に参加。次いで肥後国の武士の分担であった生の松原から進発して軍船を襲撃し、相当の成果を上げることとなった。この功績も肥後国守護代で安達泰盛の次男であった安達盛宗に認められ、さらに暴風雨でほとんど壊滅状態にあった元軍の掃討戦でも戦功をあげていった。
その後しばらく地頭を務める海東郡で活動した記録が残されているが、その最期も不明である。
関連項目
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