第二十三日東丸とは、漁船である。のちに日本海軍に徴用されて特設監視艇となり、本土東方の哨戒任務につく。1942年4月18日、身を挺してドーリットル空襲を知らせて撃沈された。
概要
1935年10月に藤永田造船所で進水し、船主の日東漁業株式会社により第二十三日東丸と命名される。しばらくは底引き網漁船として活動していたが、忍び寄る戦争の影が第二十三日東丸の運命を狂わせる。
1941年8月頃より大日本帝國海軍は遠洋漁業用のカツオ及びマグロ漁船およそ300隻を徴用。開戦直前の12月1日に第二十三日東丸も徴用され、12月10日に内令第1635号により横須賀鎮守府所管の特設監視艇となる。これに伴って船員全員が軍属に投じられた。軍港で無線機や7.7mm機機関銃の取り付け作業が行われ、船員一人ひとりに小銃が支給されるなど微力ながら戦闘能力を保持。12月31日、計116隻の特設監視艇が所属する連合艦隊第5艦隊第7根拠地隊の第7防備隊第5小隊3番艇となる。もし異状が確認された場合は母艦である軽巡木曾に報告が行くようになっていた。
1942年1月7日から25日にかけて、横須賀・父島間の哨戒任務に従事。2月1日、内令第195号により北方海域を担当する第2監視艇隊に転属。艇長に中村盛作海軍兵曹長が着任した。その後は釧路を拠点に哨戒。所属する76隻は3隊に分かれ、20日ほどの交代制で哨戒に臨んでいた。4月4日、釧路を出港して「ル」哨戒線につく。4月17日正午、第3哨戒隊と交代して釧路へ帰投しようとしたその時…。
敵機動部隊を発見
1942年4月18日午前6時30分、日本本土東方1237km付近で第二十三日東丸は猛スピードで本土に向かって飛び去って行く敵飛行機を発見した。その20分後にはドーリットル空襲を企図する米機動部隊を発見・通報。午前6時41分、米機動部隊側も第二十三日東丸を認め、攻撃許可を受けた軽巡洋艦ナッシュビルが砲撃を仕掛けてきた。
相手は巨躯の巡洋艦、味方は誰もいない(付近に監視艇長門丸と特設巡洋艦粟田丸がいたが敵襲に気付かなかった)。更に空からは敵空母から発進したドーントレス急降下爆撃機まで襲ってくる。絶望的戦況の中、第二十三日東丸は回避運動で敵弾を浪費させ、何と7.7mm軽機関銃でドーントレス1機を撃墜するなど激しく抵抗。6インチ砲弾915発を海に食べさせた。しかし戦力差は歴然。もはやこれまでと悟った第二十三日東丸は勇猛果敢にナッシュビルへ突撃を開始する。そして、ついに命中弾を喰らって大破。午前7時23分に力尽きて沈没した。海面に生存者2名が浮かんでいたようだが、アメリカ軍の救助を拒否したため船員14名全員死亡。
第二十三日東丸が放った通報は帝國海軍に無事届き、警戒を促す事に成功。また米機動部隊は所在を知られたとしてこれ以上の進軍を断念、出撃予定日を1日繰り上げ、予想より240km手前でB-25を発進せざるを得なくなった。この事がきっかけで燃料不足に陥った全15機が不時着して全損。第二十三日東丸の身を挺した行動がドーリットル空襲を大きく狂わせたと言える。これが特設監視艇初の戦闘だったが、戦死の公報が出されたのは1943年12月10日の事だった。
のちにアメリカはドーリットル空襲を題材とした映画を製作したが、漁船に計画を狂わされた事が恥ずかしかったのか、第二十三日東丸が巡洋艦になっている。
関連項目
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