- プロ野球選手一覧 > 篠塚和典
篠塚和典(1957年7月16日~)とは、読売ジャイアンツに所属していた元プロ野球選手である。
92年6月30日までの登録名は篠塚利夫(しのづか としお)。
概要
OB | |
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篠塚和典 | |
基本情報 | |
出身地 | 千葉県銚子市 |
生年月日 | 1957年7月16日 |
身長 体重 |
176cm 68kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投左打 |
守備位置 | 二塁手 |
プロ入り | 1975年ドラフト1位 |
引退 | 1994年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高校時代は2年生時に夏の甲子園に4番・三塁として出場して19打数8安打の大活躍で天才バッターと騒がれたが、大会終了後に「湿性肋膜炎」を患い約3ヶ月程の入院生活を余儀なくされる。
幸いにも病気は完治して部に復帰したが、3年生時には春・夏共に大会出場には至らなかった。
ドラフトでは巨人から1位指名を受けて入団。病気の影響もあり他球団や巨人のスカウトは1位での指名をためらったが、当時監督だった長嶋茂雄は「俺が責任を持つ」と言い独断で篠塚の1位指名を決めた。ちなみに長嶋が篠塚を見たのは2年生時の甲子園での対中京商高戦ただ一度だったようだが、その一度の観戦で篠塚の才能を見抜き、ドラフト直前には銚子商高の監督に自ら電話をかけて「(篠塚を)1位で行きます」と話したという。
プロ入り後は周囲の選手達を見て高校時代の長距離砲のイメージを捨て、安打製造機への転身を決意。
長嶋監督の意向でしばらくはファーム暮らしが長かったが、79年オフに「地獄の伊東キャンプ」で徹底的に鍛えられ、翌80年には115試合に出場し初本塁打も放つ活躍でレギュラーを掴みかけた。
しかし80年オフに長嶋は監督を解任されてしまい、恩師の解任にショックを受けた篠塚は長嶋に「僕も一緒に辞めます」と電話するほどに思いつめてしまうが、長嶋から激励を受けて現役続行を決意する。
81年は新たに入団してきた原辰徳が藤田元司監督の意向によって二塁手に転向したため篠塚はレギュラーの座を失ってしまうが、5月に三塁を守っていた中畑清が怪我で離脱したため原を三塁にコンバートし、空いた二塁のレギュラーを篠塚は再び掴む。するとここから篠塚は安打を量産し、チームの打線も活発化。7月に規定打席に到達すると、憧れの選手であった阪神の藤田平と壮絶な首位打者争いを繰り広げ、チームが優勝を決めた9月には打率を.355にまで引き上げ、最後の10試合は42打数20安打の固め打ちで打率.357にまで上昇させたが、藤田が打率.358で追いつけず、惜しくも首位打者のタイトルは逃した。
81年から85年までは5年連続で打率3割を達成し、84年には打率.334で念願の首位打者のタイトルを獲得。
87年は広島の正田耕三と同率の打率.333で二度目の首位打者に輝く。ちなみに正田も二塁手だが、ベストナインでは本塁打数などで上の数字を残した篠塚が選ばれている。
90年以降は腰痛の影響で代打中心で活躍し、尊敬する長嶋茂雄の監督復帰2年目の94年、チームの優勝・日本一を見届け現役を引退した。
引退後は巨人のコーチを務めた他、2009年のWBC日本代表のコーチにもなった。
プレースタイル・エピソード
現役時代は広角に打ち分けるバッティングで安打を量産し、内角も外角も特に苦手としなかったため「篠塚を抑えるには真ん中に投げるしかない」という言葉まで生まれている。
ボールを内側からとらえるためにファーム時代からネットと至近距離に立って当たらないようにする素振りを繰り返し、下半身を固定してヘッドが遅れてくるようなスイングを身に着けている。
打席では内角なら引っ張る、外角なら流すということはせず、2ストライクまでは内角を100%の力で打つこと、追い込まれてからは外角を50~60%の力で打つことを考えていた。そのため投手からすれば打球方向が読みにくく、さらにはワンバウンドの球すら安打にしてしまうことすらあったため上述の「抑えるにはど真ん中」という言葉が生まれた。
二塁の守備も華麗なもので、87年頃からは投手・打者の駆け引きを観察し、その都度打球の行方を予測して守備位置変更を行うようになった。
元々体が周りに比べれば強くないこともあり、プロで全試合出場は一度も無く、90年以降は腰痛の影響でシーズン出場が100試合を越えることは無かったが、所々で印象深い活躍をしている。
- 1990年の開幕戦では、1対3で迎えた8回1アウト2塁の場面でヤクルトスワローズの内藤尚行と対戦。篠塚はライトのポールぎりぎりの打球を放ったが、これが1塁塁審の大里晴信によって本塁打と判定。チームは一気に同点となり、延長戦の末にヤクルトに勝利。しかし判定は、明らかな誤審ではないかと大きな話題になった。(内藤は「完全にファウルですよ!」と悔しがり、当時の監督の野村克也は「巨人が強いはずだよ」と皮肉ったが、篠塚は「審判が本塁打と言ったなら本塁打」と淡々とした様子だった。のちに「あれはファウルでしたね」と発言している)
- 1993年6月9日のヤクルト戦では、8回2/3まで無失点、16奪三振と抜群のピッチングを続けていた伊藤智仁からサヨナラ本塁打を放った。
バントでホームラン
篠塚の伝説として「バントでホームラン」がある。スコア上ではエラーが絡んだものであり、正確にはホームラン扱いではないが、「バントで走者一掃かつ本人生還」は皆無であったため、(珍プレー的な意味でも)野球史に残るものである。なお、2017年のメジャーリーグでは先頭打者バントホームランが起こってしまった。
事の発端は昭和57年(1982年)9月15日の「巨人対中日」の23回戦の1回裏。ノーアウト1塁2塁で篠塚は投手の郭源氏にバントを行う。郭が三塁に投げるも悪送球で三塁手のモッカが取り損ね、レフトの方向に飛んでいく。ここでレフトの大島康徳がトンネルをしてしまい、結果的にランナー二人の生還を許してしまう。大島はボールに追いつき、遊撃手の宇野勝に送球。宇野が本塁に送球するも捕手の中尾孝義が取り損ねてしまい、結果的には篠塚は生還となったため、いわゆる「バントでホームラン」が完成したのであった。
その後はトリビアの泉で取り上げられ、この件に対して郭も大島も「俺の責任じゃない」という立場であったが、トリビアの泉で篠塚からのコメントがあり、「あの守備はプロとして恥ずかしいプレー。あってはならない。」と結果的に郭と大島の責任の擦り付け合いを非難するような形となった。
通算成績
通算:19年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1651 | 6154 | 5572 | 739 | 1696 | 92 | 628 | 55 | 132 | 35 | 394 | 21 | 580 | 115 | .304 | .351 |
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関連項目
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