「細川ガラシャ」(ほそかわがらしゃ 1563-1600)は、戦国時代~安土桃山時代の女性。
明智光秀の三女で、戦国大名・細川忠興の正室。諱(いみな)はたま(玉/珠)。
法名は秀林院(しゅうりんいん)。また、「ガラシャ」は「伽羅奢」とも書く。
ちなみに「細川ガラシャ」というのは明治に入り、キリスト教徒により呼ばれて広まった呼び方である。
本来は「細川忠興正室 たま」とするのが正しい。
(当時の女性は夫の苗字を名乗らない。また、名が伝わる事の方が珍しい)
「ガラシャ」とは、キリスト教に改宗した際に付けられた洗礼名である。
スペイン語の"Gracia"、あるいはラテン語の"Gratia"であり、ともに「恩恵」「恵み」の意味を持つ。
聖母マリアへの祈祷『アヴェ・マリア』などにも登場する文言。今風に発音するならば「グレイシア」になる。
概要
生い立ち~流転
1563年(永禄6年)、明智光秀の三女として産まれる。母は煕子。
兄弟姉妹については諸説あるが、上に姉2人、下に妹1人・弟3人がいたと『明智軍記』に語られている。
1578年(天正6年)、織田信長の媒酌により、15歳で長岡忠興(後の細川忠興)のもとに嫁ぐ。
明智家と長岡(細川)家は共に足利将軍家~織田家に仕え、光秀と長岡藤孝(後の細川幽斎)は盟友であり、家族ぐるみでの付き合いがあった。
夫とは仲が睦まじく、後に3男2女に恵まれている。
夫・忠興は順調に功を重ねていたが、1582年(天正10年)5月、父・光秀が本能寺の変を起こしたことで状況は一変。
主君を弑した光秀から助力を乞われた藤孝と忠興は共に髻を切って織田信長を弔い、明智家には同心しない事を内外に示した。
しかしたまは離縁される事なく、丹後国・味土野(みどの)の山奥深くに幽閉される。これは忠興が彼女を深く愛していた事、明智家に戻した後、命の保証が出来なかった事が理由とされている。
逆臣の娘を庇うことは、明智家との内応を疑われて逆賊の仲間入りという、細川家にとってはマイナスでしかない要因だった。実際、織田家家臣の津田信澄(信長の弟・信行の嫡男)は、光秀の娘婿であった事を理由に、本能寺の変から僅か3日で織田信孝・丹羽長秀に襲撃・殺害されている。
そのような事情に背いてまでの処遇から、それ程までに愛が強かった事が伺える。
山家暮らしの侘しい歳月を、侍女の小侍従や清原マリアらと共に過ごしたたまだったが、山崎の戦いで父・光秀を討った豊臣秀吉が天下に号令をかける段階になると、ようやく許されて夫のもとに帰ることが出来た。しかし忠興は家臣に命じてたまを見張らせ、屋敷の外に出る事を禁じたという。
このあたりの忠興の真意については確たる史料もなく、後世の創作や想像に拠る説が多くある。「逆賊の娘」である妻を衆目に晒して恥をかかせたくなかった、家名に傷をつける事を避けた、嫉妬と執着から妻を余人に見せる事を嫌ったなど様々な説が唱えられているが、いずれも巷説の域を出ず、史実の如く語られるべきではない話である事には注目するべきである。
キリシタンとなる
たまがいつ、誰の導きでキリスト教に改宗したのかについては諸説ある。
当時は夫の家に背いて改宗するなど言語道断の話だった。まして伴天連追放令が出た時期でもあり、後々事を知った忠興は激怒したという話が残っている。その一方で、何かと迷信深く、先の出来事で鬱を患ったたまを心配した忠興が高山右近を経由してキリスト教を紹介し、それに傾倒していったという説もある。
ともあれ彼女は洗礼を受け、「ガラシャ」という洗礼名を授かった。その見識は、日本人修道士・コスメをして驚嘆させる程高く、屋敷内に建てられた礼拝堂で、侍女や信徒と共に祈りを捧げていたという。この事からも、忠興は信仰を黙認する形をとっていたと考えられる。
三男・忠利が生まれつき病弱だったのを憂いて洗礼を受けさせ、これに次男・興秋、長女・おちょうが続いた。
九州征伐に参戦していた忠興は、帰国後に側室を5人持つと言い出すなどした為、これに苦悩したガラシャは離縁を覚悟する。しかし相談を受けたオルガンティノ神父は「困難に立ち向かう事こそ徳を積む事に繋がる」と諭し、思いとどまったという。
この辺りの諍いについては意見が分かれる所だが、ガラシャが一切の後ろ盾なく(むしろ光秀の娘である事はマイナスでしかない)正室の座に留まり続けた事から、決して軽い扱いではなかった事が窺い知れる。
補足:
側室を持つという慣習については誤解が多く、キリスト教の教義や現代の感覚に照らし合わせれば非難される向きもある。先に述べた「ガラシャの苦悩」もキリスト教側の視点である。
原則として側室は使用人の扱いであり、正室の許可がなければ持つ事は出来なかった。また側室に子を産ませ、他家の子らと結婚させる事で閨閥を結ぶ事、裏を返せば人質として有事に備える事は政治上重要な戦略だった。
所縁ある他家の娘を守る為に側室にする事もあり、側室のうち藤(松の丸、郡宗保の娘)、小也(明智光忠の娘)はそうした経緯で側室に迎えられたという説もある。
最期
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。翌年に前田利家が死去した後、石田三成と徳川家康の間で政争が顕在化する。
1600年(慶長5年)、上杉討伐に向かった家康の背後をつく形で挙兵した三成は、まず諸将の妻子を人質に取って動きを牽制しようと画策する。そして真っ先に矛先を向けたのが、かねてより不仲の細川忠興の屋敷だった。
当時細川家は当主・忠興、弟・興元、長男・忠隆、次男・興秋が、徳川軍と共に会津に向かっており、隠居した幽斎も妻・麝香と共に丹後国田辺城を守っていた。三男・忠利は徳川方の人質として江戸城に入城し、大坂・玉造の屋敷には、ガラシャとその侍女、忠隆の妻以外にはわずかな家臣しか残っていなかった。
石田軍はガラシャを人質として差し出すよう再三要求してきたが、これを細川家が拒否した事から実力行使に打って出る。
押し寄せる軍勢を前に覚悟を決めたガラシャは、後事を託した侍女らを脱出させた後に自害。キリスト教において自殺は罪であるため、家臣の小笠原少斎に自分を殺させたという。享年38。
邸内に火薬を撒いて火を放った後に家臣らも互いに刺し違えて自害、屋敷は爆発炎上して焼け落ちた。
彼女の壮絶な死に驚いた三成は、その後人質を取る方針を取りやめる。この間に黒田長政や福島正則らの子女、徳川家康の側室・阿茶局らが大阪を脱出する事に成功した。
その後
ガラシャの死から一年後、忠興はオルガンティノ神父に依頼して妻をキリスト教式の葬儀で弔い、一族を伴いこれに参列した。
また、禁教令によりキリスト教が迫害されるようになるまで、転封先の豊前小倉藩ではキリスト教の宗教施設を保護し、セスペデス神父を初めとした信徒らを厚遇し、妻の菩提を弔ったという。その後83歳で没するまで、忠興は継室を迎える事はなかった。
ガラシャが自害した一方、長男・忠隆の正室・千世(前田利家の娘)は脱出した事に怒った忠興は離縁を命じ、従わなかった彼を廃嫡。弟の養子となっていた次男・興秋ではなく。三男・忠利を家督に据えた。
これが今に続く肥後細川家・細川護熙(元内閣総理大臣)らに繋がる流れである。その後忠隆は細川内膳家として続き、政治評論家の細川隆元やその甥・細川隆一郎などにより、ガラシャの血脈を現代に伝えている。
今に伝わる辞世の句は
この句を読む限り、自分の人生を悟っていたのかも知れない。
墓所は京都府・大徳寺高桐院と熊本県・泰勝寺跡。
ともに夫・忠興と共に奉られ、静かな眠りについている。
人柄・逸話
人柄については、意外にも「気位が高く怒りっぽかった」という話がある。もっとも、キリスト教に改宗した後は穏やかで忍耐強くなったとも。
聡明な女性であり、修道士をして「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と言わしめた。
現存する手紙「細川ガラシャ消息」は水茎の跡もうるわしく、贈答品の御礼や子の息災を尋ねるなど、忠興の正室として善く内々の事を執り行っていた事が伺える。
大変美しく、夫とも似合いの夫婦だったと伝えられている。
その一方で、苛烈で気の短い事に定評のある忠興の妻として、それなりに苦労した逸話が存在する。
とかく「ヤンデレ」としてイジられがちの細川忠興だが、前述の通り、深い愛情があった事が伺える。そもそも忠興が無知蒙昧で偏執的で愚かな輩であるという話の出処は、ガラシャを「悲劇の殉教者」としてヨーロッパに伝えた宣教師の書簡であり、ガラシャageと同時にsageにsageられたという背景がある。
面白おかしい逸話には、大体そんな誇張があるのが普通です。DQN眼竜政宗とかね。
とは言え、それでは済まされないような苛烈な逸話が伝わっているのは事実なのだが……
- 庭師がガラシャの美しさに見惚れたところ、忠興に斬られてしまった。(一説には伴天連追放令にも関わらず、邸内で祈りを捧げる姿を見られた為に口封じしたとも)
更にその首をガラシャにつきつけたが、当の本人は平然としていた。「お前は蛇のような女だ」と忠興が言うと「鬼の女房には相応しゅうございましょう」と切り返したという。 - 好色で知られる豊臣秀吉が、美女と名高いガラシャを放っておくはずがないと考えた忠興、朝鮮出兵の遠征先から「秀吉の誘いには乗らないように」と再三手紙を送って寄越した。
果たして秀吉の元に呼ばれたガラシャだったが、秀吉の前でわざと転び、懐剣をちらつかせて威圧。これには流石の秀吉も手出しは出来なかった。 - 別の話として、ガラシャが味土野から呼び戻された後に秀吉に挨拶に来るよう要請されたが、ガラシャは「秀吉は我が父の仇であり、御前に呼ばれたならば懐剣にて刺し殺す覚悟です」と宣言。驚いた秀吉が忠興に尋ねると「妻は男の気質を持つがゆえ(男子の気有者なり)」と返答。秀吉も諦めざるを得なかったという。
……なんだかんだで似合いの夫婦だったのではないだろうか。
創作として
その波乱に満ちた生涯、悲劇的な最期から、後世に様々な創作が行われた。
小説においては、三浦綾子「細川ガラシャ夫人」、吉川英治「日本名婦伝」、芥川龍之介「糸女覚え書
」、司馬遼太郎「胡桃に酒」、松本清張「火の縄」などが挙げられる。
多くは悲劇の聖女として描写される事が多いが、「火の縄」では冷淡で偏執的なガラシャという変わり種が拝める。主役があの稲富祐直だから仕方ないね。
1981年の映画「魔界転生」(監督:深作欣二)では、一度死に、恨みを抱いて蘇った魔界衆の一人として登場。
これは映画のオリジナルであるが、原作者の山田風太郎をして「その発想はなかった」と脱帽せしめた。
将軍・家綱を美貌と肉体で籠絡し、暗君に作り替えていく妖婦の役どころを、佳那晃子が演じている。
漫画においては、山田芳裕「へうげもの」に登場。夫とは喧嘩こそすれ、何だかんだで仲睦まじかった。
関ヶ原前夜、石田軍が彼女を人質に取ろうと押し寄せた際には「数寄者の妻をなめるでない!」と言い放ち、高山右近から譲り受けたダ・ヴィンチ砲(ガトリング砲)で応戦、家臣らと共に壮絶な最期を遂げる(女相手に死人を出した事を恥じた石田軍により、自害した事にさせられた)。
後に妻の死を知った忠興は人目も憚らず号泣、関ヶ原の戦いにおいて石田三成を前に大魔神化。もぎたてほやほやの島左近の首級をイチローばりの強肩で三成の陣めがけて投げつけ、三成をSAN値直葬にした。何、史実と違う?へうげものだからいいんだよ。
ガラシャの死はその後宣教師によって欧米に伝えられ、戯曲「強き女 またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が作られた。
美しく聡明で敬虔な女王が、野蛮で愚かな夫の悪逆非道にも屈する事なく、最後は自らの死によって夫を改心させたという、キリスト教を賛美する内容。忠興涙拭けよ。
この戯曲はオーストリア帝国・ハプスブルク家の姫達に好まれたというが、政治の道具として諸外国の王室に嫁ぐ運命にあった彼女達にとって、心の支えになったとも思われる。
ニコニコ動画の中の細川ガラシャ
ニコニコ動画内では、「忠興ホイホイ」というタグを付けられることが多い。
戦国無双におけるガラシャ
戦国無双2猛将伝にてプレイアブルキャラクターとして参戦。
世間知らずで天真爛漫な少女で、何故か雑賀孫市との友情が描かれ、夫・忠興とはほとんど絡まない(そのためなのか細川という姓は付いておらず、名のガラシャのみの参戦である)。
デザインはゴスロリ風。武器は無双シリーズ初の素手+魔法。幽閉や立てこもり→家出、箱入り娘→本当に箱の中に入っているという発想を逆転させる大胆なアレンジでキャラ付けされている。
その為、各所を放蕩するなど自由に振舞っている。
3では存在が消されてしまい全光秀が泣いた。
と、思いきや、3Z・猛将伝で復活。やったね!光秀!
猛将伝・3Zでは光秀にくっついて行動しており織田軍の合戦に参加。モブ武将の細川忠興と絡みが増え、全ステージに何かしらの形で登場している。ガラシャは忠興を「婿殿」と呼んでいる。
chronicleでは忠興との馴れ初めがDLCステージにされ、婿探しの為に家を飛び出した道中に出会った忠興とお見合いで再会するというオチである。
4では主に四国の章に光秀の縁で登場し、魔性の女・小少将に興味を持ったことで彼女を慕うようになる。毎回あった大坂屋敷のステージは無印ではなしで山崎の戦い以降は出番がなくなっていた。
4-2では自身が中心となる百花繚乱の章で活躍し、女性武将達と勝家を集めてアイドルグループを結成してステージを実現、その時の絆によって大坂屋敷には仲間達が立場をこえて救援に訪れて再び大きな晴れ舞台で踊っている(基本的にギャグストーリーではあるが、史実の流れはそのままで女性達と勝家が生き延びているものの特に大勢は変化していない。)。
また小少将が主役の情愛の章でも活躍しており、大坂屋敷の一件で助けられてEDでガラシャも生存している。
余談だが、中の人(鹿野潤氏)が司馬懿の中の人(滝下毅氏)と結婚し、ファンを驚かせた。無双OROCHIで共演した折にはそれを意識したイベントもあった。
采配のゆくえにおけるガラシャ
こちらでは夫・忠興も登場し、互いに思い合う姿が描かれる。戦国無双とは違って「悲劇の女性」としての面が強いキャラクター設定となっている。
巨大な百合の花を文字通り背負っているが、突っ込んではいけない。
戦国大戦のガラシャ
Ver2.0で光秀と共に織田家で参戦。なお夫の忠興は豊臣家である。なおカード名は「お玉」であるが統一名称はガラシャになっている。二つ名が「束縛の姫」だったり、やたらと台詞に「縛る」という単語が使われており撤退台詞が「また、私を縛るのね…」だったりエロい。
なお計略の「玉の助け」は鉄砲隊への計略のため夫とはシナジーしない、親の光秀とはするが。
Ver2.1では豊臣家になり名前もガラシャになった。計略は味方を城へ移動させつつ兵力を徐々に回復させるというもの。当初は範囲が狭すぎる+本人が低武力の鉄砲隊ということもあり採用率は高くなかったが、その後の修正では範囲も改善され、選択肢として入るようになった。
Ver3.0では関ヶ原目前のガラシャが登場。忠興が武断派なので彼女も武断派ということでスペックは高い。計略は味方の統率力を上げる投げ計略で、かかった味方が敵を倒せば忠誠度が回復するというもの。だが士気2という軽さもあり本人は撤退してしまう。ようやく旦那とのシナジーも狙えるようになってきた。
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関連コミュニティ
関連項目
- 歴史
- 日本史
- 戦国時代
- 戦国時代の人物の一覧
- 細川忠興(夫)
- 明智光秀(父)
- 細川藤孝(舅)
- 細川忠利(三男)
- 明智親子リンク
- キリスト教
- キリシタン
- ルイス・フロイス
- グネッキ・ソルディ・オルガンティノ
- 戦国無双
- 采配のゆくえ
- ニコニコ歴史戦略ゲー
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