細川勝元(ほそかわ かつもと)とは、室町時代の武将・大名。応仁の乱の東軍総大将として有名。
概要
第16・18・21代目管領。第11代細川京兆家(宗家)当主。第24・26・27・28代管領にして、明応の政変の黒幕として知られる細川政元の父親。
山名持豊(宗全)と共に幕府の実力者として君臨するも、足利将軍家の次期後継者問題・畠山家の当主問題・斯波家の当主問題などが複雑に絡み、やがて対立。
来歴
少年期まで
1430年(永享2年)に室町幕府第14代管領・細川持之の長男として生を受ける。幼名は聡明丸。
1442年(嘉吉2年)に父・持之が死去した事により13歳で家督を継承。時の将軍である足利義勝から「勝」の字を貰い、以後「勝元」と名乗る。
1445年(文安2年)には管領に就任。以降3度に渡り管領に就任するなど(通算23年間)、幕政に影響力を持ち続けた。
宗全との協力
勝元が管領となった当時、室町幕府は先代の管領であった畠山持国が実力者として君臨しており、各地では持国を推す勢力と勝元を推す勢力との間で紛争が頻発していた。勝元は持国への対抗として、幕府きっての武官として知られていた山名宗全と手を結ぶ。1447年(文安4年)に宗全の養女(春林寺殿、山名熙貴の娘)を妻に迎え、縁戚関係を構築。後年には宗全の実子である豊久を養子として貰い受け、更に強固な関係を築いた。
当時9か国を治める強大な守護大名だった細川家だが、山名家も8か国の守護と大勢力であり、互いがぶつかり合えば両者とも大ダメージを被ってしまう。また、その頃は持国という両者共通の敵も存在していた。そのため、両者とも自家への損害を最小限に留めるために手を取り合う姿勢を見せた。
権力掌握の戦い
1454年に持国が約束を反故にし、弟の持富ではなく庶子の義就を後継者に決定した事から、畠山家内で義就派と弥三郎(持富の子)派に分かれて争うお家騒動が勃発する。畠山家の力を削ぐ絶好の機会と見た勝元と宗全はその機に乗じて内紛に介入。弥三郎派を支援した事で義就一派は伊賀国へ逃亡、持国は隠居へと追い込まれた。
政敵排除という目的を達成した勝元・宗全だったが、ここである問題が発生する。それが赤松家の再興問題だった。
赤松家は、嘉吉の乱で六代将軍・足利義教を討ち取ったかどで討伐・滅亡に追い込まれて以降、新たな播磨守護となった山名家によって赤松旧臣が徹底的に排除され、時には浪人となった一族や元家臣たちが討伐の対象にされることもあったという。
しかし、赤松家旧臣らの主家再興を賭けた働きかけや、血を引く数少ない生き残りである赤松政則が将軍・足利義政に個人的に気に入られていた事、さらに、赤松家討伐以前から宗全がたびたび自らの守護代を播磨に送り込んで赤松家の所領を横領するなど、幕命に背く行為を行っていた山名家が警戒されていた事などもあり、義政は山名家への牽制の意味合いも含めて赤松家再興を許可しようとする。
当然反対した宗全だったが、これが義政の勘気に触ってしまう。一時は山名家への討伐命令まで出される事態となったが、娘婿であり協力関係にもあった勝元の取り成しで回避。家督を息子へ譲る・但馬への隠居という形で決着した。
宗全と義政が対立している間に態勢を立て直した畠山義就が、弥三郎派を蹴散らして帰還。
翌年の持国死去に伴い、義政から家督継承を認められたが、やがて義政の信頼を失い疎まれるようになる。勝元は義就の家督継承後も弥三郎派への支援を継続し、幕府へ働きかけて弥三郎の放免を勝ち取っている。
弥三郎の死後は新たに擁立された畠山政長(弥三郎の弟)を支援。1460年(長禄4年)には、政長への家督継承と義就の朝敵認定に漕ぎ付けた。義就は河内国の山城に籠り2年以上抗戦したものの敗れ、のちに吉野へ逃れた(嶽山城の戦い)。1464年(寛正5年)に政長は勝元の推挙で管領に就任。勝元は政長を家督に着かせた人物として畠山家中にも影響力を及ぼすようになった。一方、畠山の家督を追い出された義就は、勝元を擁する政長に対抗すべく宗全に近付く。
また時を同じくして、西国のとある一大勢力も、因縁の政敵と雌雄を決すべく動き出すことになる。
当時、細川家は中国の明王朝との貿易を幕府の代行として取り仕切っており、この貿易によって莫大な利益を幕府や自家へもたらしていた。
というのも当時の遣明船は、国内で相次いだ戦乱や事変によって幕府が独力で遣明船を派遣することが困難となっていたため、周防・長門を中心に治めていた大内氏などを仲介することで明へ船を派遣していた。
仲介を行った大名家は、幕府や朝廷に対して貿易によって得た利潤、言わばみかじめ料を幕府や朝廷に納めることを要求されていたのだが、これを不服とみなした大内家と、元締めである細川家はこの日明貿易の権利を巡って代々争っていたのである。
父の代からの抗争相手である細川を今度こそシバき倒す為、そして大内家による単独の貿易権を勝ち取る為、当時の大内家当主である大内政弘も山名宗全に接近した。
宗全との対立
持国を失脚させた事で勝元と宗全の関係は強固になる…かと思いきや、共通の敵を失った2人の実力者は、次第に反目し合うようになる。
将軍・義政が赤松家の再興を本格的に企図しだすと、勝元はそれに賛同し旧赤松家臣に対する支援を進めるようになる。勝元の支援もあって赤松家は加賀国半分の守護として復活するものの、前述の経緯もあり赤松家の再興に反対していた宗全は、面目をつぶされる形となってしまった。
また、斯波家のお家問題の際、宗全は自身と縁戚関係にある斯波義廉を支持したが、勝元は義廉の対抗馬である義敏を支持。面子をつぶされた両者の対立は激化する。勝元と対立していた大内家を宗全が支持した事も両者の対立を大いに煽った。1466年(文正元年)には実子の誕生を契機に、宗全から養子として貰い受けていた豊久を廃嫡して強制的に出家させており、宗全との対決姿勢を明確にした。
同年には義政に実子となる足利義尚が誕生し、義尚と次期将軍予定だった義視との間に後継者争いが起こる。同年12月に宗全は吉野で力を蓄えていた畠山義就を京に呼び寄せ、1467年(応仁元年)には政長の管領職を取り上げさせ、自身の娘婿の1人である斯波義廉を管領に祭り上げた。
応仁の乱
同年1月18日に義就軍は立場悪化で軍を率いて上御霊神社に転進していた政長軍を襲撃(御霊合戦)、勝元はこの戦いでは静観に徹し、敗北した政長らを屋敷に匿う以上の事はしなかった。
戦いこそ収束したが両派共に軍隊を解散せず、町では両派の兵による小競り合いが繰り返され、いつ両軍が激突してもおかしくない状況が続いた。
5月26日には勝元方(以後東軍)による義政の身柄確保を目指し幕府政庁(花の御所)がある上京を攻撃。
これに宗全方(以後西軍)も呼応し迎え撃った事で戦端が開かれた(上京の戦い)。
当初は義政を保護し、その関係で東軍を官軍、西軍を朝敵と認定させる事に成功したことで優位に立っていた東軍だが、宗全が戦況を覆すべく大内政弘に支援を求め、政弘が大軍を率いて京に侵攻してきた事から戦局は5分となり、戦況は拮抗する。
さらに地方にも戦いの波は伝播し、各地で両軍の軍勢が入り乱れての戦いが勃発した。
乱の途中で両軍の旗頭が入れ替わったり・後南朝の皇子が担ぎ出されたり・病が流行したりなど、戦乱は混迷を極めていき、室町幕府の威光は凋落し、京の町は荒廃しきってしまう。
越前守護代の朝倉敏景(英林孝景)を寝返らせて越前を掌握し、赤松家が播磨国など旧領を奪還した事で東軍優位へと傾いていきながらも、各々の目的や軋轢から戦いは文字通り泥沼のごとく延々と続いていき、両軍ともに厭戦ムードが漂っていった。
そんな状況に勝元も乱の終結を望み、1472年(文明4年)から宗全との間に和睦交渉を始める。
しかし、両軍共に和睦に反対する勢力が多く、和睦反対派の妨害工作により交渉は決裂してしまう。
直後に勝元は自身の猶子であり抗戦派であった勝之を廃嫡、家督を政元に譲り隠居してしまう。(同じころ宗全も、一説には切腹未遂を起こした末に隠居している。)
1473年(文明5年)、戦争の終結を見ることなく死去。享年44。
2か月ほど前には宗全もこの世を去っており、東西両軍のリーダーが相次いで亡くなってしまった。
翌1474年(文明6年)には細川・山名両家の後継者の間で講和交渉が再開され、同年6月には両家の間で和睦が成立した。
しかし、戦乱は両軍の抗戦派諸将によって引き続き繰り広げられる事になる。
人物像
武人気質な宗全と比べ、勝元は政治家タイプの権謀・策謀を巡らせる人物だった。
しかし、この姿勢が各家の対立をあおった挙句、一線を超えた一大事となり応仁の乱を招いた感も否めない。
明との貿易を通して、最先端の技術や知識に精通した当時随一の知識人としても知られていたらしく、
様々な方面の文化的趣味を愛した風流人で、和歌に親しみよく歌会を開いて多くの連歌師と交流を持った。また、絵画や焼き物に対する優れた目利き能力を備えていたとも。
文化的活動に精通した一方で、鷹狩りや犬追物も好んで行っている。
宗教面では禅を信仰し、パトロンとして禅寺を新たに建立させている。
世界遺産の1つでもある京都の龍安寺は、勝元が創建した寺である(現在の寺は応仁の乱で焼失した後に後継者である政元が再建させた)。
また、当時の貴人の中でも有数のグルメでもあったらしく、食材を食べ比べて産地を言い当てたという。
関連項目
- 1
- 0pt