細川晴元(ほそかわ・はるもと 1514 ~ 1563)とは、戦国時代の大名、室町幕府管領である。
概要
父の代から続く細川家当主の座を巡る家督争いで、細川高国に逆転勝利をおさめて管領に就任。この時代には室町幕府将軍はすっかり形骸化していたので、事実上の最高権力者・天下人に君臨した。
だが、重臣・三好氏との対立、高国の後継者である細川氏綱の登場などにより立場は不安定であり、三好長慶の離反を招いた事で失脚する。その後も復権を目指そうとあがいたが、叶わずに終わった。
生涯
ここまでのあらすじ
父・細川澄元は細川一族のひとつ・阿波細川氏に生まれたが、当時の細川京兆家(宗家)当主・細川政元(職業:魔法使い)の養子となって、いずれはその座を継ぐはずであった。ところが政元は澄元含め3人もの養子を取っており、当然のごとく後継者争いが勃発する。
当初は澄元が当主となったが、かつて追放された10代将軍・足利義稙を味方につけた細川高国にその座を追われ、何度か反撃を試みるも、1520年に澄元は死去した。なお足利義稙はその後また追放されてしまい、12代将軍として足利義晴が擁立されていた。
雌伏の時
こうして7歳の時に父を亡くして家督を継ぐ。ときは細川高国の全盛期であり、晴元は実家である阿波でひっそりと、じっくりと反撃の機会をうかがっていた。また、追放された元将軍・足利義稙は阿波へ亡命した末に亡くなり、その養子であり現将軍・義晴の兄弟にあたる足利義維も阿波細川家で保護されていた。
そんな1526年、高国陣営では内紛が起こり、細川典厩家当主の細川尹賢が高国の内衆である香西元盛を讒言をした上で殺害、これに元盛の兄弟である波多野元清・柳本賢治が激怒して反乱する。これをチャンスと見た晴元たちは、義維を新将軍候補として旗頭に立て挙兵、堺へと上陸するのであった。
堺公方府の誕生と内紛
1527年、桂川原の戦いで晴元軍は高国軍を破り、都を追われた高国は凋落の一途を辿る事になる。一方の晴元は、義維を次期将軍とするべく着々と準備を進め、本拠地としていた堺に事実上の政権「堺公方」が誕生した。
これらの戦いで活躍したのが、重臣・三好元長だった。三好氏は阿波細川氏に代々仕える譜代の臣である。
一方で桂川原の戦いにおいては元長は不在で、一門の三好政長や先述の柳本賢治らが奮戦して勝利していてこちらにも功があった。
畠山総州家から晴元に接近した木沢長政も加え、元長とは別グループを形勢していた。
だが、突然晴元陣営に将軍・足利義晴と和睦する選択が浮上してくる。
元はと言えば、かつて細川政元がクーデターを起こして足利義稙を追放した事件から将軍の座を巡る因縁が生じてしまっている訳で、その追放時には朝廷も「我々が任命した将軍を勝手に追放するとは!」と激怒している。晴元は細川家の当主に就任できた以上「将軍追放」という余計なリスクを担う必要は無いと考えたようだ。
正確にはこの路線を推し進めていたのは柳本賢治と松井宗信(細川典厩家家臣)であり、彼らは高国を徹底的に排除した上で義晴を迎えようとしていた。
一方の元長は高国と和睦してでも義維を将軍に据える考えを持っており、義維擁立に思い入れのない諸将と対立を深めていくこととなる。
当の晴元は十代後半の青年にすぎず、「御前衆」と呼称される可竹軒周聡(細川家出身と見られる)らの意見に左右される事が多いものの、義晴との和睦に前向きな傾向だった。
可竹軒らの讒言もあって高国との和睦に失敗した元長は面目を失い阿波に下向するが、賢治・宗信の勧めた義晴帰還に対しても何を思ったのか可竹軒が強硬に反対、両者も出家して離脱してしまう。
1530年に柳本賢治は巻き返しを図る中で高国陣営に暗殺され、浦上村宗と組んだ高国が京奪還に迫る中で晴元方は元長の軍事力に頼らざるを得なくなり、元長は再び復帰する。
1531年、大物崩れで敗北した細川高国は、尼崎で捕縛して遂に処刑された。これで父の仇をとった晴元は、ねんがんの細川京兆家当主となったのである。
天文法華の乱
だが堺の足利義維の存在は宙に浮いたままであり、三好元長が復帰したところで義晴擁立に傾く晴元との仲が上手くいくはずもなく、すぐに破綻は顕在化する。
元長は畠山義堯と共に対立する木沢長政を攻撃、この時は和睦したものの賢治亡きあとの柳本氏を攻め殺してしまい晴元に激怒される。出家して陳謝したものの翌年になるとまた三好勢が木沢長政を攻撃しだす。
ここに至って晴元は遂に元長排除を決断、木沢・可竹軒の入れ知恵により「一向一揆に蜂起してもらって堺公方派を潰す」というアイデアを実行。この時の一向一揆の勢いは凄まじく、三好元長・三好一秀・畠山義堯といった主要な面々はことごとく討死・自害に追い込まれた。義維は命からがら阿波へと逃げ帰る羽目になる。
ところが目的を達成したはいいのだが、一向一揆の勢いが全く止まらず暴走状態になってしまったので、今度は法華一揆を扇動してぶつけるという荒業に出る。
その混乱に乗じて高国の弟である細川晴国や、それを支援する畠山稙長らが晴元を打倒しようとし戦火は更に燃え広がる。(なお可竹軒周聡はその最中に討死)
更に法華宗と仲が悪かった比叡山延暦寺がこれを期に細川・六角を利用し京の寺院を焼き払うという凄まじさ。
三好千熊丸(後の長慶)の仲介で和睦するもののすぐに破綻し、今度は三好家の三好連盛・久助が一揆方に寝返り晴元方を攻撃する始末。
こうして想像以上に畿内の内乱が長引いてしまったものの、1536年には正式に京兆家を継承し、幕府の実権を握る事になった。
因果は巡る
亡き三好元長の子・三好長慶とは和睦していたが、微妙な関係ではあった。1541年には力を持ち過ぎた木沢長政が長慶・政長・畠山家によって討ち取られている。また一方で、細川高国の養子・細川氏綱が当主の座を巡って挙兵するなど、因縁の関係は付き纏い続けた。
1546年、足利義晴は隠居して13代将軍・足利義輝が就任するが、この就任式は近江坂本で行われている。
氏綱の反乱には苦戦しており、晴元も京都を追われる状況にあったが、1547年の舎利寺の戦いで長慶らの活躍で氏綱方を撃破して京都に復帰した。が、この際に氏綱方に一時寝返った摂津国人・池田信正を許さずに切腹させた事が問題となる。
信正は切腹させたものの息子の長正に家督を継承させると約束しており、それに対しては池田家中は納得したようだが、三好政長が池田家と縁戚であることを利用して介入を始めると池田家中がそれに反発。
この池田切腹がきっかけとなり、三好長慶や摂津国人衆が大挙して政長排除を訴える。
それでも晴元は政長を庇ったため彼らは氏綱方へと寝返ってしまう。1549年、江口の戦いで三好政長が長慶に敗れて戦死する。晴元は義晴・義輝親子を連れて近江坂本へと都落ちした。この後、1552年にようやく和睦して義輝が帰京、氏綱が京兆家家督に就任、晴元の子・細川昭元(当時5歳)が人質となった…が、結局晴元は和睦を認めずに若狭武田氏の下へと逃れていった。
以後は三好政勝(政長の子)や丹波の波多野氏の力を借りながら抵抗する。長慶と義輝もたびたび反発しあっており、ときに義輝と手を結ぶこともあったが、長慶の権力を崩すには至らなかった。
1561年には遂に観念したのか長慶と和睦して摂津に隠棲する。その2年後に死去。氏綱も翌1564年に死去。
なお、晴元・氏綱を指して「最後の管領」と指すこともあるが、実際に管領に任じられた記録は見受けられない。彼らにとって重要なのはあくまで京兆家の家督だったと思われる。
阿波の出身でありながら、畿内出身であるかのように阿波の勢力と対立し、結果として崩壊を招いた晴元だが、その矛盾は後の三好政権の末路においても再現されることになる……。
子孫
人質生活を送っていた子・細川昭元はそのまま三好氏の下で行動する。義輝暗殺後は14代将軍・足利義栄(義維の子)擁立に協力するが、のちに織田信長・足利義昭に降伏した。義昭追放後は信長に与し、信長の妹(お犬の方)を妻として細川信良と名乗る。が、結局かつての細川氏の栄光を取り戻す事は出来ず、傀儡の存在に終わった。晩年は豊臣秀吉の御伽衆となる。
昭元の子・細川元勝も豊臣家に仕え続け、大坂の陣でも豊臣方で戦った。母がお犬の方という事で、戦後は織田家などが助命嘆願して命を繋いだ。昭元の娘が秋田実季に嫁いでいた縁で、元勝は秋田氏(三春藩)の客将として迎えられ、京兆家の子孫は三春藩大老として続いた。
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補足
基本的に高めの政治とそこそこの統率を持ち、大名向きなステータスの持ち主。信長元服シナリオ(1546)くらいまでは畿内最大勢力のトップとして君臨するが、その後はイベントで勢力をまるごと三好に乗っ取られてしまうのがお約束。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 80 | 戦闘 | 69 | 智謀 | 46 | 政治 | 71 | 野望 | 71 | ||||
天翔記 | 戦才 | 138(B) | 智才 | 126(A) | 政才 | 150(A) | 魅力 | 81 | 野望 | 83 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 65 | 戦闘 | 40 | 智謀 | 49 | 政治 | 53 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 61 | 智謀 | 38 | 政治 | 49 | 野望 | 96 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 58 | 知略 | 36 | 政治 | 67 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 55 | 知略 | 40 | 政治 | 65 | 教養 | 64 | ||||||
革新 | 統率 | 62 | 武勇 | 39 | 知略 | 45 | 政治 | 73 | ||||||
天道 | 統率 | 62 | 武勇 | 39 | 知略 | 45 | 政治 | 73 | ||||||
創造 | 統率 | 59 | 武勇 | 48 | 知略 | 48 | 政治 | 71 |
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