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細川 護熙(ほそかわ もりひろ、1938年1月14日 - )とは、日本の元政治家である。政界を退いた後は陶芸家・画家としても活動している。
概要
肥後国熊本藩の藩主であった肥後細川家の第18代当主である。父は肥後細川家第17代当主の細川護貞であり、母方の祖父は内閣総理大臣を務めた近衛文麿である。
1938年に東京府東京市に生まれる。学習院高等科を経て上智大学法学部を卒業、朝日新聞社に入社した。1969年の衆議院選挙に出馬したが落選、1971年に参議院選挙で初当選する。参議院議員を2期務めたあと、熊本県知事選挙に立候補し当選。熊本県知事も2期務めることとなる。
熊本県知事の職を任期満了で辞した後、1992年に新党「自由社会連合」を結党、のちに「日本新党」と改名し、同年の参議院選挙で当選する。2度目3期目の参議院議員となったが任期途中の1993年に辞職し衆議院選挙に立候補し鞍替えした。この選挙の結果、自民党が半数を割ったため非自民・非共産連立政権が成立することとなり、協議の結果日本新党の細川護熙が首相となった。
衆議院議員当選一回目での首相就任は吉田茂以来、閣僚未経験での首相就任は片山哲以来であり、公選都道府県知事の首相就任は初であった。
細川護熙内閣では政治改革四法の成立を目標とした、内容は小選挙区制の導入や政党交付金の制度確立である。首相任期中に1993年米騒動は発生し、これに対してコメ市場の一部開放により対処した。内閣の支持率は高いままであったが、政治改革の目標が一応達成されたことにより目標が無くなっていた。ここで突如「国民福祉税」構想を発表したが、根回しも無く突然のことだったため連立各党の反発を受けた。その後、連立与党内の対立が表面化したうえ、折からの細川自身の借入金の問題を野党・自民党からの追及もあり、求心力が急速に衰えた細川護熙内閣はあっけなく総辞職。同じく非自民・非共産連立政権として成立した羽田孜内閣に引き継がれることとなる。
羽田孜内閣において細川護熙が党首を務める日本新党は寺沢芳男が入閣したため、細川護熙は単に与党党首という立場となった。羽田孜内閣は日本社会党の連立離脱のため僅か2カ月で総辞職に追い込まれ、非自民・非共産連立政権は崩壊した。自社さ連立政権の村山富市内閣が成立し、日本新党は下野し野党党首となる。日本新党を解散すると新進党を結成した。その後も政権交代可能な政党を目指し、フロム・ファイブや民政党を結党。民政党が民主党に合流し、民主党所属議員となる。1998年5月7日に60歳を期に衆議院議員を辞職した。
その後は趣味の陶芸や茶道など芸術家として活動しつつ、時折政治に関するコメントを出したりもしていた。ところが、首相辞任から20年、国政引退からも16年を経た2014年、齢76にして東京都知事選挙に出馬し、世間を驚かせた。同じく元首相である小泉純一郎が推薦したことで元首相コンビとして注目され、選挙期間中は脱原発などを政策として掲げたが、当選した舛添要一、次点の宇都宮健児に次ぐ得票数3位で落選した。
現在は湯河原にて引き続き晴耕雨読の生活を送りつつ、財団法人永青文庫の理事長を務めている。
陶芸ではたびたび個展が開催されており、画家としては奈良・薬師寺慈恩殿の障壁画を制作。6年がかりで完成し、2019年9月に期間限定で一般公開された。
また2016年の熊本大地震に際しては、かつて先祖が居城としていた熊本城をはじめとした再建の為の募金活動を行うなど、積極的な行動を展開している。
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関連項目
熊本県知事
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細川護熙 1983~1991 |
福島譲二 1991~2000 |
第78代 | 第79代 | 第80代 |
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細川護熙(日本新党) 1993~1994 |
羽田孜(新生党) 1994~1994 |
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