細川頼之(1329~1392)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。
概要
細川三兄弟の次男・細川頼春の子。頼春の死後、1352年に阿波の守護となった。中国・四国方面の平定軍を指揮し、1362年には南朝に降った従兄弟の細川清氏を討ち取っている。清氏が本来宗家だったのだが、その子細川正氏は南朝に残ったため、細川頼之が細川家の当主となった。
1367年に足利義詮の死の直前、足利基氏の推挙で足利義満の補佐役を務めるよう足利義詮に頼まれたという。そのため義詮の死後、彼は足利義満の管領となり、幕政をとることとなった。彼の最初の仕事は将軍の権威を高めることで、そのために芝居を打つことなどもあったという。
1368年に南朝で和睦を推進していた楠木正儀が北朝に投降し、裏切った彼に対する追討軍が差し向けられた。頼之は正儀を支援しようとしたが、諸将のやる気は低く、1371年に職を辞して西芳寺で出家しようとしたのである。これに義満は驚き、何とか思いとどまらせ、1373年に赤松範資、細川氏治らの軍は天野の長慶天皇の行宮を攻め吉野に敗走させたのである。さらに九州探題に今川了俊を任じ、大宰府や菊池氏攻めなどを成功させていたのだ。
しかしここでまた起きたのが、幕内で力を高めた細川頼之に対する軋轢である。まず土岐頼康、山名師義と争い、両者は領国へ帰ってしまった。さらに1378年に越中守護斯波義将との抗争が勃発。同年京極高秀も近江で挙兵する。頼之は土岐頼康、京極高秀の追討の名を出したが、斯波義将がこれに合流してしまったのである。
足利義満はこれに驚き、斯波義将の進言を受けて討伐命令を撤回。頼康、高秀も赦免された。そして立場が悪くなった頼之は反頼之派に御所を囲まれた末管領を罷免され、細川頼元、細川詮春、細川氏春ら一族を連れて淡路に落ちていったのである。
その後領国である讃岐にわたると斯波派の河野通直に攻められることになる。これに対し逆に伊予まで進撃して通直を討ち、四国平定を勧めながら赦免活動を続けていったのだ。そして1389年に、厳島参詣を足利義満が行うと、細川頼之は弟の細川頼元とともに同道し、10年ぶりに義満に会い、ようやく赦免されたのであった。これには今川了俊の尽力もあったという。
そして1391年に斯波義将が管領を辞すと細川頼元が後任となり、頼之は弟の後見として上洛、ついに幕政に復帰したのである。同年明徳の乱が起きると頼之もこれに従軍し、畠山基国、京極高詮とともに山名満幸敗走の功績をあげ、戦後備後守護に任じられた。翌年に病没し、実子もいなかったが、彼によってようやく細川氏の地位は安定し、以後管領を出す家として続いていくのである。
関連項目
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