細川頼春(?~1352)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将であり、細川氏のうち三職務め最も子孫が繁栄した一門の祖である。
概要
他の多くの細川氏一門と同様、足利氏一門というよりも、仁木氏同様被官に近い扱いであるため、生年は不明である。細川和氏の弟で、細川師氏の兄という三兄弟の次男に生まれた。弓の扱いに優れ、建武政権下では後醍醐天皇から寵愛されたともいわれている。
彼が最初に登場するのは多くの足利一門同様、1331年の元弘の乱である。ここで三河の細川一門のひとりとして足利高氏に従軍し、その後も建武政権から離反した足利尊氏に付き従い続けた。尊氏の九州落ちの際にはほかの細川一門同様四国へ渡り、彼は伊予攻略を担当した。そしてそのまま土井義昌、河野通盛を下し、四国制圧に貢献したのであり、湊川の戦いでの楠木正成撃退の遠因となったのだ。
その後は斯波高経とともに新田義貞追討軍を率い、1337年に金ヶ崎の戦いで義貞を破り、尊良親王を自害に追い込むなど、尊氏の配下として室町幕府成立に大きく貢献したのである。
そんな彼は阿波、備後、伊予三国の守護となり、四国に大きな基盤を築いた。さらに南朝軍との戦いでも活躍をつづけ、1348年の四条畷の戦いでは高師泰、高師直兄弟と協力し、楠木正行、楠木正時兄弟を撃退したのであった。
やがて観応の擾乱が勃発すると尊氏派に属し、日向の守護に新たに任命されつつも、従兄弟で足利直義派だった細川顕氏や、足利直冬の討伐軍を率いつつも、阿波で一宮氏、阿波小笠原氏などと戦い勢力を固めていったのである。
しかし、である。足利直義討伐のために足利尊氏が京都を空けると、その間の守護、および足利義詮の補佐を任されたのが彼の運命の分かれ道となった。1352年、楠木正儀、北畠顕能が京都を攻めてくると七条大宮の戦いで敗死。その生涯を終えたのであった。
しかしその後足利義詮政権での政争で息子の細川頼之の地位が向上したために、細川氏の嫡流は彼の子孫が務めていくのである。
関連項目
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