経済学・哲学草稿とは、ドイツ哲学者カール・マルクスの未完成の原稿であり、彼が初めて資本論へと繋がる経済学的な問題意識を明確な形に草稿集である。略して経哲草稿。パリ草稿とも言う。
概要
この論文は全3編の草稿から構成され、草稿ゆえに不完全な状態で保存されている。経済学・哲学草稿では疎外論が初めて著書に現れており、加えてこの書ではマルクスの考える「共産主義」が明らかにされている点で有意義な文献である。
元々はヘーゲルや近代経済学への批判のための文章であったのだが、その中でも法律、政治、経済についての批判を分離してまとめたのが本書。全体を通してアダム・スミスとフォイエルバッハの影響が強く見られ、逆に言えば資本論に見られるマルクス独自の経済理論がまだ生まれていない状態である。第一草稿ではスミスの国富論からの引用が多くあり、疎外論もほぼフォイエルバッハの物を継承している。
第一草稿は「労賃」、「資本の利潤」、「地代」、「疎外された労働」の四章からなり、最初の三章で具体的な経済分析を行う。第四章では疎外論を展開。人間は類的存在(他者との関係があってこその存在)であるであるというフォイエルバッハの考えを用いて、賃労働がいかに人間から人間らしさを奪うか(疎外されるか)を述べた。
第二草稿はドイツ語でわずか4ページの短い草稿。というのもそのほとんどは現在失われており読むことが出来なくなってしまっているからだ。内容は当時の社会主義者の間で流行だった、私有財産についての議論。今では私有財産という概念は一定の意味で用いられるが、当時は私有財産とは何か?という議論が盛んであったのだ。プルードンの「私有財産とは盗みである」という言葉もあるほど。
第三草稿は全五章構成で最初の二章でマルクスの考えるコミューン思想、つまりマルクスの共産主義が描かれている。皆さんは私的所有を排した共産主義という言葉についてどう思うだろうか? 「頑張っても報われない社会」、「誰も努力しなくなって衰退する」、「怠け者が得をしてしまう」など否定的なイメージが強いのではないだろうか? 確かに実際のソ連はそのような要素を持っていたのは否めない。しかしマルクスの考える共産主義はそのような"共産主義"とは全く別のものである。
もし仮に共産主義が国家が国民の資産を管理し、それから平等に分配する社会であったならば、確実にその社会は衰退する。マルクスはそのような「粗野な共産主義」を激しく批判していた。マルクスは私的所有によって「人間は疎外を受けている」、「私的所有をなくすべき」と言っている。しかし、上記の社会システム(実際のソ連のような)では単に、個人の私的所有から国の私的所有になっただけで結局は変わっていないのだ。
ではマルクスの目指した本当の共産主義とはなんだったのだろうか? それは「人間的本質を獲得でき、かつ自然に対しても豊かさを求め、人間と自然の関係的に良好で、すなわち世界の安定をつかみ取るコミュニティで形成された社会」である。つまるところ経済学・哲学草稿においてマルクスの理想とする共産主義は非常に抽象的かつユートピア的であり、しかもそれを実現するための具体的な方法も何一つ明示されていないのだ。
このように経済学・哲学草稿の中の初期マルクスは共産主義を人類史の必然と置きながらも、まだ哲学的抽象的な文章でしかそれを表現できていなかった。しかしその後マルクスは研究を進めるにつれて具体的に共産主義を実現する方法論を編み出していった。つまり、空想から科学へと昇華を果たしたのだ。
第三章ではヘーゲルの方法論についての再考と哲学一般についての批判を行っている。この辺は哲学についての知識がないと特に読みづらいので事前にヘーゲルの「精神現象学」と「大論理学」くらいは読んでおいたほうがいいだろう。精神現象学は平凡社から全1040ページ、大論理学は以文社から全1700ページくらいで出ている。その内容は晦渋な表現と抽象的議論のオンパレードで読解難易度はハイデガーの『存在と時間』、カントの『純粋理性批判』と並び哲学三大難読書と呼ばれる程に高い。
詳しくはこちら→『精神現象学』
第四章は私的所有、第五章は分業について、第六章では貨幣に関しての考察。マルクスはシェイクスピアの文章を引用しながら貨幣を人の性質を転倒させる娼婦だと分析した。勇敢、美徳、親切、それらですら結局は貨幣を持つものが有利に得ることができる。誰しもそういう風に感じた経験はあるのではないだろうか?
第一草稿 第4章『疎外された労働』
経哲草稿の中でも特に議論になることの多い、第一部第四章の『疎外された労働』についてもう少し詳しくみていく。
この章でテーマは疎外論である。マルクスの疎外論といえば、唯物弁証法とならぶマルクス哲学の根幹となる概念だが、その考え方はなかなかに難しい。この章を読むときに特にひっかかりやすいのは、「対象化」「外化」「疎外」「類」の4つの専門用語だろう。これらは全てヘーゲルとフォイエルバッハの哲学からの拝借物だが、この4つの意味がわからないと、この章を読んでもさっぱりになってしまう。
この内2つだけ簡単に説明すると、「外化」とは、物事の本質から生まれたものが、その本質から離れてしまうこと。また「疎外」とは、その外化したものが本質に対して敵対を始めてしまう現象のことをいう。とはいえ、これだけじゃ抽象的で難しいので、以下、4章に小見出しをつけながら4つの疎外について簡単に解説する。
従来の経済学の限界
三章までに、私たちは国民経済学[1]を使って、労働者がいかにして無機質で悲惨極まりない商品になるかを示してきた。しかし、そもそも従来の経済学が正しいかどうかについては検討しなかった。そこで、ここで一つ、この国民経済学が前提とする概念を疑ってみよう。
経済学者は、私有財産を前提とし、そこから生み出される経済的過程を観察し、帰納的に経済法則を導きだす。しかし、彼らはそもそも私有財産が人間の歴史の中でどのように生まれたかを考えはしない。
例えばスミスやリカードらは著作『国富論』や『経済学の諸原理』で「労働と資本は分離する」、「資本と土地が分離する」と主張するが、では「なぜ労働と資本は分離するのか?」、「なぜ資本と土地が分離するのか?」ということはけして教えてくれない。
また国民経済学者は経済を概念として捉えていないがために、経済現象の一体どこまでが偶然で、どこまでが科学的必然なのかも理解できないのだ。
つまるところ国民経済学は、本来学問的に暴くべき真理を、学問の前提にしてしまっているのである。彼らが当たり前だと思っている「人間の所有欲」と「市場の競争」。それらは必ずしも絶対普遍のものではないというのに。
そこで私たちは国民経済学から離れ、「私有財産」や「所有欲」みたいな彼らが前提とするものを概念として捉え、その理論的繋がりを見つけ出さなければならない。
まずマルクスは冒頭で国民経済学。今でいう古典派経済学についての批判を行う。従来の経済学者たちは経済法則の把握に務めるだけで、その経済法則がなぜ発生するかということに言及していないと、マルクスは指摘する。
これは現在の近代経済学とマルクス経済学の対比の中でもいわれることだ。古典派経済学も近代経済学も、人間の欲望や資本主義社会を当たり前のように前提とするが、そんなものは歴史的な産物で絶対的なものではないとマルクスは言う。
よってマルクスの課題は古典派経済学が無批判に受け入れる経済法則のメカニズムを解き明かすことにあった。そこでマルクスが取り上げるのが、疎外された労働となる。
生産物に対する疎外
私たちは3章までに3つの命題をとりあげた。すなわち、
「労働者は生産力が高くなるほど自分は貧しくなる」
「労働者は頑張って商品をつくるほどに彼自身は安い商品になる」
「労働は商品を生産するだけでなく、彼自身をより商品に近づける」
ということである。この三つの事実[2]から分かるのは、労働者が生み出した生産物は、労働にとって疎遠になり、労働者と敵対する独立して現れているということだ。
労働の生産物は、労働が対象のうちに固定され物となった姿であり、労働の対象化である。また、労働の現実化とは、労働を対象化することである。こうした労働の現実化が、労働者の価値の低下としてあらわれる。労働の対象化が、対象の喪失ないし対象への隷属としてあらわれ、対象の獲得が、対象の疎外あるいは外化としてあらわれる。
労働の現実化による労働の価値の低下は、労働者が餓死するほどに進む。労働の対象化による対象の喪失は、労働者の生活物資がなくなるだけでなく、労働対象すらも奪われるほどに進行する。
労働そのものが対象となると、労働者がそれを自分のものにするのは大変である。最大限がんばっても必ずしも対象を自分のものにできるわけではない。
労働が対象の形をとることを、疎外と呼ぶ。この疎外は労働者が対象を生産すればするほど、所有できる対象は少なくなり、彼は自分が生み出した資本に支配されるようになる。
これらの結果は労働者が自分の生産物に対して、疎遠な対象に対するかのように振る舞うことが原因である。というのは労働者が頑張って働けば働くほど、彼の外にある疎遠な対象的世界は大きくなり、彼の内的世界は貧しくなるからである。
労働者は自分の命を対象の中に注ぎ込む。しかし対象に注ぎ込まれた対象はすでに彼のものではなく対象のものである。これを外化を呼ぶ。生産物は労働者にとって外的な現実存在になるだけでなく、労働者の労働が彼の外で、彼から独立した疎遠な力として敵対し始めるという意味をもつ。
経済学は、労働者と生産の間の直接的な関係を考察しないために、労働の本質にひそむ疎外を覆い隠してしまう。確かに労働はお金もちには価値あるものを作り出すが、労働者にはその反対のものしか与えない。
その生産物に対する労働の直接的な関係は、自らの生産の対象に対する労働者の関係である。生産の対象と生産そのものに対する資本家の関係は、この第一の関係の帰結にすぎない。それはともかく、労働の本質な関係とは、生産に対する労働者の関係のことなのだ。
マルクスはこの章の中で疎外された労働から発生する4つの疎外について紹介する。まず第一に現れるのが、生産物に対する疎外。これはどういうことか。
私たち労働者は働いたときに、商品かサービスか、必ず生産物を生み出す。労働者は人生の大切な時間を労働に使い、生産物を生み出している。これは彼らが労働を通じて、生産物に自らの命を注ぎ込んでいることに他ならない。
これをマルクスは「労働の現実化」または「労働の対象化」と表現した。現実化、対象化とは、自分の主観の中にあるものを客観的な対象へと具体化し,外にあるものとして取り扱うことである。自分の命という主観的なものを、生産物という具体的な形にする。それこそが労働の本質なのだ。
つまり生産物は人間の本質の一部といえます。しかし皆さんもご存知の通り、ほとんどの賃金労働者にとって生産物は自分のものになりません。牛丼屋の店員は、自分で労働して作った牛丼だからって、勝手に食べたら怒られます。労働者にとって生産物は自分の本質でありながら、自分とは全く別の存在なのです。
これをマルクスは労働の外化といえる。最初に解説した通り、外化とは本質から出たものが自分とは別の存在となってしまうこと。ここにまさに生産物の外化が発生してしまっている。さらに生産物は自分とは別となるだけでなく、自分に敵対し始めてしまう。
労働者は頑張って労働して生産物に自分の本質を注ぎ込めば、生産物の価値はどんどん高まっていくが、当然その分、労働者にとっては自由時間の減少という形で自分は価値を低めていく。それでいて生産物が自分のものにならないとなれば、自分と生産物の価値格差は高まるばかりだ。労働者は頑張れば頑張るほどに相対的に自らは無価値になっていく。
価値の薄くなった労働者は自分で作ったものを自分の給料で買うことすらできない。その極地は労働者の餓死という形で現れる。自分の本質である生産物が外化し、ついには自分を苦しめる存在となる。これこそが第一の疎外、生産物の疎外である。
労働と自然
労働者は自然という感性的外界がなければ何も作りだすことができない。自然、つまり感性的外界は、労働者の労働がそこで実現され、そのうちに活動し、それをもとにして更なる生産をするための素材である。
自然は労働に生活手段を提供するだけでなく、他方で労働者自身が暮らしていくための手段も提供する。したがって、労働者は労働を通じて感性的自然を自分のものにするほど、2つの意味で生活手段を奪われていく。一つに労働するほどに感性的外界はますます彼の労働の生活手段ではなくなっていくし、第二に、労働者の生存のために手段でもなくなっていく。
こうして労働者は、自然という労働の対象から働き口を得て、また生活手段を得ることによって自らの対象の奴隷となる。これは彼が肉体的主体であるかぎり、労働者していてしかおのれを保てず、肉体的主体としてしか労働者ではないという意味を示す。
マルクスは自然という概念を重視する。なぜならば、人間は自然がなければ生きていくことすらできないからだ。そのため自然もまた人間の本質の一つといえる。
人間はまず第一に自然を対象にして労働をすることによって、そこから生活の糧を得る。そしてそれだけでなく、労働の手段。例えば鍬や梳なんて農具も自然から生み出すことができる。しかしそれゆえに人間が労働をすればするだけ、自然はやせ細り、人間労働を生み出すことも、労働者の生活の糧を生み出すこともできなくなっていく。
だがそれでもはやり人間は自然に依存していかなければ生きていけない。私たちは生命活動の維持のためには自然に従属し、労働者として彼らに関わらなければならないのだ。ここから、自然と交流する労働は人間の本質ということができる。そうだとすれば次の第二の疎外が現れる。
生産的活動の疎外
疎外は自らの生産物に対する労働者の関係の中だけではなく、生産の行為そのものの中にも現れる。
労働そのものの疎外とは、まず第一に労働が労働者にとって外的であり、それを不幸なものと感じ、徒労となることにある。彼の労働は欲求の満足を満たす自発的なものではなく、強制労働である。彼の労働は、労働以外のところで欲求を満足させるための手段にすぎない。強制力がなくなれば人々は労働を忌み嫌うことからもこれは明らかだ。
さらに労働の外在性は彼の労働が自分のものではなく、他人のものであることに現れる。
その結果、労働者は飲み食いや生殖といった動物的な機能や、せいぜい住居やファッションくらいにしか自由を感じることができず、おのれの人間的機能を動物としてしか感じなくなる。つまり人間的なものと動物的なものの転倒がおきる。
疎外は生産物だけでなく、生産過程の中にも発生してしまっているという指摘である。労働は人間の本質なのに、賃金労働においては労働者の労働は彼のものではない。これもまた一つの外化と言える。
その結果、労働は退屈でつまらない時間になってしまう。人間の本質である労働が、生存のための手段になってしまうのだ。ただ生きるための食事、そうでなくても一時の娯楽のためだけの労働は、なんとも動物的なものである。本来、労働とは人間的であり、自分が生きていることを証明できる楽しいものであるはずなのに、強制されなければいけないほどの徒労に感じるようになる。これが2つ目の疎外、生産活動の疎外である。
以上の「生産物の疎外」、「生産活動の疎外」の2つの疎外から、第三の疎外「類的疎外」が現れます。この類という概念が難しい。案の定というべきかヘーゲル哲学の概念である。長く分かりづらいので、数字を付けながら解説していく。
類的生活と類的疎外
⑴人間は類的存在である。それは、人間が実践的にも理論的にも、類を対象とできるからであり、またそれだけでなく、人間が生きた類としてかかわり、自由な存在として関わるからである。
⑵人間でも動物でも類的生活の本質はまず、非有機的自然に依存して生活することにある。そして人間が動物よりも普遍的であればあるほど、彼が依存する非有機的視線の範囲もまた普遍的になる。
⑶植物や岩石などあらゆる自然は、それが科学の対象であれ、芸術の対象としてであれ、理論的に人間の意識の一部をなしているように、現実的にも人間の生活や活動の一部をなしている。これらの自然の産物が食料か、あるいは衣服か、どのような形で現れるにしろ、人間は物質的にはそれらの自然にひたすら依存して生活する。
⑷人間の普遍性は、実践的には、まずなにより自然が2つの領域で現れる。つまり、まず第一に、自然は直接的な生活手段であり限りにおいて、また第二に、人間の生命活動の対象と素材と道具である限りにおいて、自然を人間の非有機的な肉体とするような普遍性の内にこそ現れる。
⑸自然は人間の身体ではないが、人間は自然なくしては生きていくことはできない。そのような意味で、自然は人間の非有機的な肉体なのだ。
⑹疎外された労働は人間から、まず第一に自然を疎外し、そして第二に人間自身を、つまり人間特有の生命活動を疎外することによって、人間を類から疎外する。
⑺疎外された労働は、類としての生活を個体としての生活に変化させてしまうのだ。それはまず第一に、類としての生活と個体としての生活を互いに疎遠なものにし、第二に、抽象化された個体としての生活を、同じように抽象化され疎外されたかたちでの類としての生活の目的にしてしまう。
⑻人間と動物の区別とは何か。それは意識的活動ができるかどうかである。動物は彼らの生命活動とそのまま一つである。動物は生きることのみを生きる目的とするだけだ。しかし人間は自らの生命活動を意識の対象とすることができる。つまり人間が類的存在である。それこそが動物と人間の区別である。
⑼人間は、労働も生命活動も生産的生活も、生きることを含めた人間の欲求を満たすための手段と勘違いしている。しかし、生産的生活は実は類としての生活なのだ。それらは生活を生み出すための生活であり、ある動物の生命活動の様式には、その動物の種族の全ての性格、つまり類的性格が含まれている。
⑽人間の類的性格とは、すなわち自由な意識的活動である。ところが疎外された労働の内では、人間の本質であるはずの生産的生活が、生活のための手段のように見えてしまう。
⑾対照的世界の実践的な産出、非有機的自然の加工こそが、人間が意識的な類的存在あることの確証である。つまりそれらは人間が、類におのれ自身の本質と関わったり、自己に類的存在として関わるような存在であることを示しているのだ。
⑿確かに動物も巣や住居を作る。生産もする。しかし彼らの労働や生産は生存のためだけの一面的生産なのだ。それに対して人間は肉体的欲求を越えた自由な普遍的生産を行う。動物の生産物はそのまま彼の物理的な血肉になるが、人間は自らの生産物に自由に対峙する。
⒀以上のことが正しければ、人間が類的存在であることを証明するのは、対象世界の加工がまず第一である。生産活動こそが人間の活動的な類としての生活なのである。生産活動によって、自然は人間の作品であり、人間の現実でもあるものとして現れる。
したがって、労働の対象は類としての生活が対象化されたものである。というのは、人間は意識的だけでなく現実的にも自らを二重化するからであり、それゆえに自分が想像した世界の中でおのれ自身を直観するからである。
⒂そうだとすれば疎外された労働は、人間から生産活動の対象を奪いとることによって、人間から類としての生活を奪いとり、彼を人間から動物にしてしまうのである。類的疎外とはつまり、人間の本質の疎外に他ならない。
この類というのは、言葉的には人類の「類」のことである。マルクスはまず最初に⑴で、人間は類的存在であると指摘する。実をいうとこれはフォイエルバッハの研究をそのまま拝借しているだけにすぎない。「人間と動物の違い(種差)は何か?」という問いに対して、従来の哲学者は「意識の存在だ」と主張していたが、フォイエルバッハはそれを更に進めて「全ての創造物の中で人間だけが、類を意識することができる」と主張したのである。人間以外の動物が意識できるのは自分と、せいぜい自分の目に見える範囲の群れだけ。人間だけが「人類」という全体を意識の対象にできる、つまり類的存在であるというわけだ。
⑴の文章は非常に分かりづらいですが、要するに、人間が自然の全体を、そして人間の全体(類)を考えの対象にすることができるから、人間は類的存在なのだという意味である。自然主義者であるマルクスにとって、⑵人間の類は「人類」だけでなく、労働を通じて自然もその対象になることもポイントだ。
マルクスは人間でも動物でも類的生活の本質はまず非有機的自然に依存する事だという。先述した通り、⑸人間は自然なくては生きていけない。そのため自然は人間にとって身体の一部ということができる。内蔵や脳みそは血や神経が通っているので有機的身体というのに対して、自然は血や神経が通っていないので非有機的というわけだ。
⑻⑿では人間と動物の区別について強調して解説している。動物は自分の肉体が意識の全てであり、その肉体の欲求の趣くままに食べて寝る。しかし人間は肉体から意識を離し、遠い将来のことや、形而上学的な概念。さらには人類全体のことを考え、また労働することができる。そして類として他人のことを考え、他人と関わることができる。その結果、協業や分業なんて類的活動も生まれる。以上のような類的活動は、類的存在である人間だけに許された行為である。
⑹で、疎外された労働はまず第一に人間の本質である自然を疎外し、第二に人間特有の自由な生命活動(類的生活)を疎外してしまうのだ。自由な類的活動を疎外し、人間同士を疎遠にさせる。それこそが正に第三の疎外、類的疎外なのである。
類的疎外が発生してしまうと⑺まず私たちは普遍的人類ではなく、ただの個人に成り果てる。そして第二にその個としての存在を、人類の普遍的な目的としてしまう。
⑻⑽労働において自由に意識的活動を行う行為こそが、人間と動物を区別する重要なポイントとなる。しかし⑼疎外された労働においては、その労働が生存のための手段になってしまっている。つまり⒂類的疎外では人間が動物になってしまっているのです。それはまさに人間の本質の疎外に他ならない。
人間からの人間の疎外
以上の三つの疎外により、さらに第四の疎外、人間から人間を疎外が発生する。つまり人間が自分自身と対立するとき、必然的に他人とも対立し始めるのだ。それはつまり3つの疎外(生産物、労働、人間本質)が、他人のものについても当てはまるようになってしまう。
疎外された労働においては、どの人間も労働者としての自分の基準や関係をもとに他人を見る。
第一の疎外で労働者の生産物は彼の手を離れ、彼と対立すると述べたが、その生産物は他の人間の手に渡っていることを見過ごしてはならない。生産物の疎外の発生には、彼を威圧的に支配するご主人様が関わっているのだ。
自己疎外というものは、他の人間に対する実践的な現実的(経済的)関係を通じてのみあらわれる。人間は疎外された労働を通じて、他人の生産物や生産、そして他人自身と敵対し始める。
疎外は個人の中だけで発生するわけではない。これまで生産物、生産活動、類の三つの疎外を紹介したが、もしある人が他人のこれらについて疎外したらどうなるか。そうなれば人は、疎外された労働に基づく価値観でしか他人を評価できず、社会において人間同士は損得勘定で動く疎遠な関わりしかもてなくなってしまう。
疎外された労働は自己疎外だけでなく、他の人間とも疎外を生み出し始める。これが第四の疎外、人間からの人間の疎外である。
ところで、今まで色々と外化、疎外について語ってきたが、そもそも労働者の手を離れた生産物はどこへ行くのか。もちろん天国におわす神さまのお膝元ではない。資本主義社会において、労働者から生産物を収奪しているのはブルジョワ、資本家に他ならない。
私有財産と疎外された労働
経済学の立場は外化(疎外)された労働は私有財産の運動の必然的な結果であるように見えるが、実は逆に疎外から私有財産が生まれている。とはいえ、これは後に相互作用に変わる。つまり私有財産は疎外された労働の産物ではあるが、一方では労働を外化するための手段でもあるのだ。
私有財産と疎外された労働の関係についての分析は、様々な領域において未解決の問題を解決するヒントとなる。
まず第一に経済学について。経済学は労働から出発するにもかかわらず、労働には何も与えず、私有財産にはすべてを与える。この矛盾が疎外された労働の自己矛盾であり、経済学が疎外された労働から観察できた法則を言っているにすぎないことが明らかになる。
したがって労賃と私有財産が同じであることがわかる。というのも労賃とは、労働の生産物に対しての給料ある場合、それは労働の疎外からの必然的な帰結にすぎないからである。賃金労働においては、労働は目的ではなく賃金をもらうための手段である。そうだとすれば労賃の引き上げに成功したとしても、それは奴隷の給与改善でしかない。
第二に、私有財産による人間の隷属の解放は、労働者の解放という政治的なかたちで現れるということだ。近頃の社会主義者は、労働者の解放ばかりに躍起になっているが、あくまで労働者の解放は人間の解放に含まれていることを理解しなければならない。
そのような構造になっているのは、生産活動に対する労働者の隷属のうちに、人間の隷属状態の全てが含まれていて、他の隷属状態がその関係の変化形にすぎないからである。
先ほど類概念とは人類全体の意識と述べたが、これは人間同士が結びついた共産主義社会に似たものでもある。したがって、この私的所有と疎外の関連も含めて、労働の疎外からの人間の解放は、私的所有に基づく資本主義社会を止揚し、共産主義の実現こそがキーになっていることも重要ポイントだ。
まとめ
マルクスのいう疎外された労働とは、資本主義においては賃金労働。つまりサラリーマンの仕事を指す。ブルジョワならば自分で作った生産物や利益は全て自分のものであり、そのため頑張れば頑張るほど自分の価値が高まることになる。一方でサラリーマンは頑張っても会社の利益になるだけで、給料も大して上がらず、それではもちろんやる気なんて起きやしない。
マルクスはサラリーマンシステムのことを賃金奴隷制、つまり奴隷形態の一種と言いきっている。疎外された労働から人間を解放するためには、私的所有の廃止と奴隷労働の廃止。つまるところ、共産主義革命による社会経済のラディカルな変革が必要だというわけだ。
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