結城合戦の始まり
1438年の永享の乱ののち、すっかり疲れ切ってしまった関東管領の山内上杉憲実は、弟の上条上杉清方に政務を任せきって引退してしまった。しかし旧公方派との間の軋轢は解消されないまま、時間が過ぎていったのである。
そしてついに、1440年1月13日。亡き足利持氏の近臣だった一色伊予守が鎌倉から蓄電。上杉氏家臣の長尾憲景、太田氏光が討伐に向かうが、伊予守は行方不明になってしまった。京都では2月の段階で管領の細川持之が開戦に至った場合の対策を打ち始め、足利義教も千葉胤直、三浦時高に伊予守の糾明を命じた。
そして2月中旬ころには、足利持氏の子息、安王丸、春王丸の二人が活動を始めた。3月に入ると二人は常陸中郡木所城で挙兵。この挙兵には岩松持国、桃井憲義、佐竹義人ら、有力者たちが協力しており、3月15日以降、幕府・上杉方は庁鼻和上杉憲信と長尾景仲を進軍させ、さらには太田、扇谷上杉持朝、千葉胤直、二階堂、武蔵一揆などに合戦の準備と情報収集を命じる。さらに山内上杉憲実の復帰要請も行われていった。3月21日には結城氏朝が、安王丸、春王丸の二人を結城城に迎えるが、すでに幕府方の大内左近将監が戦端を切っていたにもかかわらず、氏朝の離反はまだ幕府方には伝わっていなかった。
戦いの行方
そして4月に変わろうとする時期に、ついに小山持政から幕府に、安王丸、春王丸方に結城氏朝がつき、結城城に入った情報が伝わる。4月2日には幕府は扇谷上杉持朝、上条上杉清方に結城氏の討伐を命じ、幕府軍も本格的に組織され始める。上野守護代大石憲儀が高橋城を落城させ、山内上杉憲実が伊豆から復帰するなど、着々と反撃が進んでいった。
一方宿城合戦で岩松持国、桃井憲義、結城氏朝が小山持政に撃退される。さらに長沼秀宗が離反し、氏朝はこれも攻撃するが、うまくいかず、鎌倉「環著」を目指していた安王丸、春王丸方の戦況は停滞してしまう。そして幕府軍は上条上杉清方が発向。5月には京都から扇谷上杉持朝が鎌倉に下向する。さらに山内上杉憲実も8月には祇園城に入る。7月29日には結城城への攻撃が始まった。
さらに各地では局地戦が進行。岩松持国が筑波氏を率いて「東方」へ出陣した他、南奥では幕府方だった篠川公方足利満直が畠山氏、石橋氏、石川氏らに討ち取られてしまった。
そして結城城を包囲した幕府軍はその後決定打を持たず、あけて1441年になる。幕府方に甲斐、越後、下野、上野などから軍が集まり、ようやく1月中にほぼ戦況は決まり、4月16日、結城城は落城し、結城氏はほぼ壊滅し、安王丸と春王丸は捕らえられた。
戦後処理と足利成氏の新公方就任
白井、宍戸といった局地戦はまだ続いていたものの、5月16日には安王丸、春王丸は切腹させられた。またようやく結城城が陥落したことで、安王丸、春王丸の協力者だった佐竹義人への攻撃が始まったのである。結城城には詳細は不明だが、かつての稲村公方足利満貞の後継者や、後に鎌倉府再建の際名前が出る定尊らもおり、これら旧鎌倉府の足利一門は順次捕らえられていったようだ。
一方幕府の方針としては、1439年の時点で足利義教が子息・足利義永を新公方に就任させようとしていた。しかし、1441年6月21日、嘉吉の乱で足利義教は暗殺されてしまう。さらに幕府も方針を変え、新公方は安王丸、春王丸の弟が相続、山内上杉憲実の関東管領復権といったものに定めた。これは義教が亡くなったからもあるが、混乱する関東情勢を収束させることも目的としたものであった。しかしこの時期は、京都で預かっていた定尊を後継公方と定めていたようだ。
しかし、東国では1441年12月ころから、信濃で匿われていた万寿王丸の復権運動が開始された。当初は岩松持国らと協力し、安王丸、春王丸を引き継ぎ軍事行動を行っていた万寿王丸勢力であったが、京都に留め置かれ、東国に何ら働きかけが行えなかった定尊に比べると、彼の東国における存在感は次第に増していった。
やがて上杉氏の軍事的優位が確立すると、万寿王丸方は政治的復権を目指す方に方針転換する。こうして1447年に万寿王丸が後継者として幕府にも公認された。これに関しては、山内上杉憲実の去就と関東管領職の行方が決定しなかったこともあり、公方の決定に時間がかかる中、定尊ではなく東国に認知されていた万寿王丸の方が選ばれたのであった。こうして1447年8月27日、万寿王丸は鎌倉に下向した。さらに関東管領として、復帰する意思のない山内上杉憲実の就任はあきらめられ、その子である山内上杉憲忠が選ばれ活動を始めた。
1449年7月3日、万寿王丸は元服し、足利成氏となる。彼によって鎌倉府は回復していくが、やがて江の島合戦を経て、享徳の乱へ至り、さらに泥沼化するとはまだ誰も知らなかった…
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