結城秀康(ゆうき・ひでやす 1574~1607 於義丸、羽柴秀康、結城秀朝、松平秀康)とは、
徳川家康の次男にして羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子という二人の天下人を親に持ち(「秀」「康」の字をそれぞれ受け継ぐ)、後に結城晴朝の養子となって名跡・結城家を継ぎ、関ヶ原の戦い後には越前藩主となる。
1579年に長兄が亡くなって以降、徳川家において長子であったが、家康の正統後継者には決してなり得なかった。
概要
特異な出生
天正2(1574)年2月8日に生まれる。父は徳川(松平)家康、母は然るべき身分の女性でなく、正室の下女であったお万の方。
このため家康は正室・築山殿の悋気などを恐れ、居城の浜松城ではなく城下の有富見村にて生ませた。
幼名は於義丸と名付けられ(ギギという小型のナマズの様な魚に顔が似ていたためと言われる)、3歳になるまで父親の家康と対面する機会を与えられなかった。その対面も幼い弟を不憫に思った長兄の松平信康の取り成しによって実現したものである。
このように冷遇された理由としては、母が身分が低くほとんど浮気相手であることのほかに、実は双子であったから(双子は当時犬畜生と同じ生まれ方として非常に忌み嫌われた)という説もある。
『徳川諸家系譜』の史料では双子の片割れは生後すぐ亡くなったと伝えるが、生後すぐ知立神社に預けられ(家康の子ではないことにされ)、のちに神官となる永見貞愛がそうであるという見方が有力。
1579年、5歳の時に兄・松平信康が自刃させられる。この時点で秀康は家康の一番年上の男児となった。
秀吉の養子に
天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉は徳川家康に和議として、養子(もちろん人質の意味もある)を要求。
この時、家康の男児には次男・秀康(11)、三男・秀忠(6)、四男・忠吉(5)、五男・信吉(2)―いずれも数え年―がいたが、秀康が択ばれることになる。
意外と見る向きもあろうが、将来跡継ぎで揉めないように、母親の身分が低い庶長子を早い段階で他家の養子に行かせるのは、この時代には普通のことである。
人質に出された秀康は、秀吉の養子となり、元服して「羽柴秀康」の名を与えられた。
13歳にして、秀吉の九州征伐に随行する。この時大いに奮戦したといわれる。
結城家を継ぐ
天正17(1589)年、秀康は秀吉から、突如結城家に養子に行けと申し渡される。理由としては、秀吉の子供・鶴松が生まれ、養子が邪魔になったこと、関東と奥州の間に存在する結城家に秀康が入ることにより、伊達と家康の双方を監視できること、等であった。
しかし結城家当主・結城晴朝には結城朝勝という、既に後継者に決まっていた別の養子がおり、結城家としても複雑な感情であったであろう。(結局、結城朝勝は元の宇都宮家に戻り、その後は戦いと苦労の連続であった。晩年は神官だったという。)
結城家の家督を継いた秀康は、晴朝から「朝」の字を継ぎ結城秀朝と名乗るようになった。この名乗りは5年続き、後に秀康に戻したという説がある。
その後、秀吉の小田原攻め、奥州攻めに参加。文禄の役では肥前名護屋での留守居を務めた。
関ヶ原の戦い以降。越前藩主に
秀吉の死後は、家康方の将として、関ヶ原の戦いでは会津で上杉景勝の抑えに回るという役となった。結局上杉軍は攻めて来ず、戦にはならなかった。
戦後処理を通して、江戸幕府の準備にあたって松平(徳川)一門、譜代は大幅に領地加増されることになる。
既に他家の養子に行った秀康は、家康にとって正式な後継者とすることはできなかったが、越前67万石という一門最大の大俸を与えられる。越前結城家(すぐに松平家と名乗り改めることになる)は親藩の中でも「制外の家」とされ、特別扱いされた。1603年、従三位に任官、1605年には権中納言となる。諸大名中最高の官位であった。
この頃には江戸へ何度も参勤をしており、体調を崩していた。
1607年、33歳で死去。父・家康や義父・晴朝よりも早い死であった。
その後の越前松平家
家康の11人の公認男子のうち後世まで子孫を残した家系は、次男秀康、三男秀忠、九男義直、十男頼宣、十一男頼房の5人のみである。
秀忠系は当然将軍職を継ぎ、晩年の3人の子の家系はのちに「御三家」と定められ、秀忠系が絶えると頼宣の家系(紀州系)から養子を出して継いでいる(8代将軍吉宗)。
だが、秀康系のみが「徳川」ではなく「松平」姓を名乗り、官位や家紋にも差がある。秀康は晩年父・家康に重用され支えたが、一度養子に出た身分。生前「徳川」姓を名乗ることを自ら申し出たことはなかった。
秀康は多くの男子を残し、それぞれが福井(越前)藩・津山藩・松江藩などを支配したので、福井藩のみで見ると秀康死後はほぼ30万石台で推移したが合計の石高は100万石近くになる。
ただし、あくまで宗家は幕府によって福井(越前)藩とされ、各分家を総称して「越前松平家」と呼んでいる(「親藩」の項も参照)。
ひとこと
彼は朝鮮の役でも留守居役で、関ヶ原でも上杉の抑え役で合戦をしておらず、家康の次男でありながら華々しい軍功はほとんどない。
よって小説などの物語の主役にはなりにくく、登場すらしないことが多い。しかし、幼少期に家康に嫌われ、人質生活も家康と秀吉という存在の狭間で心労の絶えないものであっただろうし、突如縁もゆかりもない結城家に飛ばされて、新参者が結城家をまとめるという難題に苦労したであろうし、関ヶ原前夜においても元・秀吉の養子という立場上苦労したであろうし、越前藩主となってもまた新しい土地を治める苦労が増えたであろうし、将軍の息子、または二代目将軍の兄という立場にも苦労したであろうし、江戸への参勤の数が尋常ではなく、その苦労も彼の寿命を大いに削ったものと思われる。
家康について語る時、たまにでいいから彼のことを思い出してやってください。
子女
- 長男・忠直(1595-1650):父の後を継ぎ、越前松平氏福井藩2代藩主となるも、1623年に将軍秀忠の命で隠居。
- 次男・忠昌(1598-1645):兄の隠居により、越前松平氏福井藩3代藩主となる。
- 次女・喜佐姫(1598-1655):毛利輝元の長男秀就の正室。
- 三男・直政(1601-1666):1638年に越前松平氏松江藩初代藩主となる。
- 四男・吉松(1604-1609):福井藩家老の本多富正の養子となるも6歳で夭折。
- 五男・直基(1604-1648):越前勝山、山形、姫路などの藩主を務めた。
- 六男・直良(1605-1678):木本、越前勝山などの藩主を務めた。
逸話
- 秀康が所持した武器で有名なものがいくつかある。
- 伏見の馬場で馬を走らせていた時に、馬首を並べて併走した男を無礼討ちにしている。
- 出雲の阿国を天下第一の女人と認め、自分がそうでないことを認め無念に思ったという。
補足
※結城家当主・越前藩主なのに低すぎる政治も気になるが、それよりも知謀の低さが有り得ない程である。KOEIは何を持って彼を脳筋と判断したのだろうか・・・。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 70 | 政治 | 59 | 魅力 | 73 | 野望 | 58 | 教養 | 68 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 48 | 政治 | 56 | 野望 | 58 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 168(A) | 智才 | 80(C) | 政才 | 122(B) | 魅力 | 85 | 野望 | 73 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 85 | 智謀 | 50 | 政治 | 60 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 76 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 41 | 政治 | 54 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 69 | 智謀 | 10 | 政治 | 39 | 野望 | 68 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 73 | 知略 | 26 | 政治 | 47 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 73 | 知略 | 26 | 政治 | 47 | 教養 | 43 | ||||||||
革新 | 統率 | 78 | 武勇 | 84 | 知略 | 29 | 政治 | 53 | ||||||||
天道 | 統率 | 78 | 武勇 | 84 | 知略 | 29 | 政治 | 53 | ||||||||
創造 | 統率 | 76 | 武勇 | 80 | 知略 | 37 | 政治 | 54 | ||||||||
大志 | 統率 | 75 | 武勇 | 82 | 智謀 | 41 | 内政 | 53 | 外政 | 44 |
関連商品
関連項目
- 3
- 0pt