絶対国防圏とは、大日本帝國が大東亜戦争中に定めた防衛計画である。
概要
1941年12月8日より始まった大東亜戦争は、緒戦こそ日本軍優位で進んだ。しかし1942年6月5日のミッドウェー海戦で正規空母4隻を失い、多数の兵力と駆逐艦を失ったすえ1943年2月にガダルカナル島から撤退。防衛ラインをコロンバンバラ島まで引き下げなければならなくなった。連合軍の本格的反攻は留まるところを知らず、帝國陸海軍はニューギニア東部やソロモン諸島で苦戦を強いられる。戦線後退や縮小を望む声はガダルカナル島撤退直後から叫ばれるようになり、3月頃から陸海軍が合同研究を行っている。当初は南東方面しか考えていなかったが、5月にアッツ島守備隊が玉砕し、ドイツアフリカ軍団が消滅した事で北方やインド洋方面にも注意を払わねばならなくなった。
1943年9月30日、「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」にて戦争遂行に必要不可欠な地域を定めた。これが俗に言う絶対国防圏である。北から千島列島、小笠原、マリアナ諸島、トラック諸島、西部ニューギニア(サルミ以西)、小スンダ列島、ビルマがその範囲とされた。第六艦隊司令部があるクェゼリンや重要拠点ラバウルを蚊帳の外に出すという思い切った策定であった。これにより絶対国防圏内の戦力は拡充されるかに見られたが、その後も海軍は絶対国防圏外の地域(ソロモン諸島やラバウル)にこだわったため国防圏内の防衛体制や戦力の増強が後回しにされた。
それでも1943年末から増援を乗せた輸送船団が内地を出港。トラック諸島、モートロック、ウェーク島、南鳥島、クサイ島、ボナペ島の戦力拡充に成功した。だが内南洋中西部へ派遣されるはずだった陸軍部隊の多くは中国大陸での攻勢(大陸打通作戦)により中止となり、本来の戦力を送り切れなかった。この結果、日本の南洋庁があり、重要拠点であるサイパン島ですら迎撃体制が整う前に米軍の襲来を迎えることになり、マリアナ沖海戦やサイパン島の戦いで惨敗。サイパン島を奪取したアメリカ軍は日本本土をB-29の射程に収めることとなり、終戦まで続く本土爆撃が開始される。この結果を見て、東條英機は内閣総理大臣を総辞職し戦略爆撃機「富嶽」の開発も打ち切られる事になった。
日本の太平洋の防波堤であるマリアナ諸島を失陥させた米軍は次にパラオやフィリピン奪還を狙うようになる。マリアナ沖海戦で、やっとの思いで再建した機動部隊を壊滅させられた帝國海軍に最早航空機は残っておらず以降は水上艦による艦隊決戦を強いられる。
ニコニコ動画では
動画内で見せてはならないもの(性器など)にかけるモザイクや目隠しを「絶対国防圏」と呼称することがある。見せられないよ!
関連項目
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