継続戦争とは、第二次世界大戦中の1941年6月22日から1944年9月19日にかけて行われたフィンランド対ソ連の戦争である。継続戦争は冬戦争の延長線上であるとフィンランド政府は主張している。
概要
開戦までの経緯
第二次世界大戦が勃発して間もない1939年10月、ソ連は第二の都市レニングラード防衛の目的でフィンランドに交渉を持ち掛けた。ところがその内容は理不尽極まりなく圧倒的にフィンランド不利なものだった。当然フィンランドが拒否した事で交渉決裂。ソ連は力ずくでフィンランドを併合しようと1939年11月30日より侵攻作戦を開始する。これが後の世に言う冬戦争である。迎え撃つフィンランド軍は寡兵ながらも地の利と気候を活かして反撃、国際連盟もフィンランドに味方して支援物資が送られ、数に勝るソ連軍に約12万に及ぶ戦死者を与えて独立を死守した。
しかし国力に乏しいフィンランドにこれ以上の戦闘は困難であり、やむなく1940年3月13日にソ連と休戦協定を結んで一応の戦争終結を見る。国内最大の工業地帯だったカレリア地方はソ連に割譲される形となり、また無理な戦争のシワ寄せは国民の生活を圧迫するなど、休戦の代償はあまりにも大きかった。更にソ連は面目を潰したフィンランドに対して禁輸を行った他、フィンランド南岸にあるハンコ半島の海軍基地に3万もの兵力を配置して威圧するといった嫌がらせを続け、休戦条約締結後もフィンランド・ソ連間の緊張は続いた。同じ北欧の国であるノルウェーとスウェーデンはソ連の怒りに触れる事を恐れて中立化。経済が悪化の一途を辿っていたにも関わらずフィンランドは世界から孤立させられてしまった。唯一外国との貿易が可能だったのは西側に伸びる、長く険しいペツァモへ向かうリーナキマリ航路だけで、この航路でさえもソ連がその気になれば簡単に遮断出来る細い命綱に過ぎない。
塗炭の苦しみに喘ぐフィンランドに救いの手を差し伸べたのは、ヒトラー総統率いるドイツであった。両国は積極的に貿易を実施。フィンランド国内の民生品のうち9割がドイツ製になるほど緊密な仲となる。当初ドイツは怨敵ソ連と不可侵条約を結んでいたため国民はドイツとの交流を拒否していたが、政府は生き残りをかけて接近を続け、1940年6月にフランスを降伏させてドイツが西ヨーロッパの覇者になった時、フィンランドの英仏外交政策が破綻。同時期にドイツはノルウェーを下して北欧にまで進駐、一方のソ連はバルト三国を占領してフィンランドとスウェーデンは独ソの勢力圏に挟まれて物理的に孤立。これを機にソ連は再び「ニッケル鉱山の発掘許可要請」「オーランド諸島の要塞を破壊要請」「共産主義団体を使って国内で暴動を起こす」といった露骨な干渉を始めたため、フィンランドはドイツに状況打破の道筋を見出すしかなくなった。
今までドイツはフィンランドに武器を売る事を拒否していたが、8月に密約を結んだ事で秘密裏に武器を売るようになり、9月12日には軍当局が協定に署名、そして9月22日に正式発効となった。また同協定でスウェーデンとフィンランド領内をドイツ軍が通行出来るようになったためフィンランドにドイツ軍が進駐。これにより事実上枢軸国入りを果たす。フィンランドはドイツの戦争遂行に必要なニッケルとモリブデン等を供出し、その見返りに食糧や工業品を受け取った。生き残るために仕方なくドイツに接近し、日独伊三国軍事同盟にも加盟しなかったが(反コミンテルン協定には署名)、悲しいかな世界からは枢軸国への歩み寄りとしか認識されなかった。フィンランドとドイツとの急接近に焦ったソ連は急遽宥和政策を打ち出すも積年の恨みから効果は出なかった。
1941年2月よりラップランドにて、ドイツ人との協同で道路建設と諜報協力が行われ、またドイツ軍の部隊が続々とフィンランドに到着。シュテッティンから2万名、オスロから1万600名が輸送され、いずれも組織だった輸送で迅速にロヴァニエミに移動。バルバロッサ作戦開始直前の時点でその兵力は4万600名に膨れ上がっていた。3月までドイツ軍はフィンランド北部で対ソ諜報活動を実施。4月には武装親衛隊ウィキング師団フィンランド大隊の募集が行われ、志願者の一団は訓練を受けるべく5月にドイツへ向かっている。
冬戦争を経たフィンランド軍は急速に近代化が進んでいた。冬戦争終結後に届いた各国からの武器や、ソ連軍から鹵獲した兵器、ドイツから購入した兵器によって戦力を増強。ドイツ軍を模した機甲師団の編制も行った。アメリカから東洋最強の戦闘機と名高いブリュースター・バッファロー戦闘機が届き、総計235機の可動機を有する近代空軍となった。1941年6月14日にはドイツ海軍から援軍として送られた機雷敷設艦6隻や魚雷艇19隻などが到着。バルバロッサ作戦の直前には国力の限界を超えて14個師団と3個旅団からなる53万人の兵士(女性兵士も含む)が動員され、冬戦争の英雄マンネルヘイム元帥が軍司令官に着任。
1941年5月20日、ドイツ軍はソ連侵攻作戦ことバルバロッサ作戦について情報共有を行うべくフィンランド軍最高司令部を招待し、ザルツブルクとベルリンで作戦会議。5月28日に行われたベルリン会議では武器の規格を統一する事が話し合われ、6月3日から6日にかけてはヘルシンキでも作戦会議が行われている。そして6月15日よりフィンランド軍は動員を始めた。ついに復讐の時が来たのである。
継続戦争
開戦初期
1941年6月21日夕刻、バルバロッサ作戦が始まる前日にフィンランド海軍は3隻の潜水艦をエストニア沿岸に派遣して機雷を敷設。これに呼応してドイツ海軍の機雷敷設部隊もフィンランド湾口に二重の機雷原を設置し、またバルト三国の港湾も機雷封鎖。ドイツ空軍の爆撃機はレニングラードの港とネヴァ川に機雷を敷設した。それと並行してフィンランド政府はソ連との国境に近い場所に住む4万5000名に避難命令を出す。6月22日未明、フィンランド軍はソ連に奪われたオーランド諸島に上陸して島々に駐在するソ連領事館員を次々に逮捕。諸島を支配下に置いた。
6月22日午前3時15分、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を開始。300万もの枢軸軍が一斉に越境してソ連領へと侵攻した。当初フィンランドは中立を表明。国内からは「ドイツ軍と協力して失地回復すべし」という声が上がっていたが、冬戦争の再現を避けたいマンネルヘイム元帥は「刹那主義には賛同できない」と諌めた。しかしソ連軍は報復として7機の爆撃機を送り込み、領空侵犯したのち午前6時6分にドイツ軍や首都ヘルシンキ、トゥルクを爆撃。6月25日朝にはフィンランド国内にある19の飛行場を狙って460機の戦闘機に護衛された爆撃機が再度領空侵犯。各地の都市を数回爆撃して多大な損害を受けたが、フィンランド軍の戦闘機が迎撃して23機を撃墜、この戦闘を以って事実上交戦状態に入った。6月26日、フィンランドはソ連に対して宣戦布告。
「我々は平和を望んでいた。しかしソ連の爆撃で戦争状態へ突入せざるを得なくなった」(リュティ大統領)
フィンランド政府は「ナチスとは無関係」「これはフィンランドとソ連の戦争で、冬戦争の継続である」として継続戦争と呼称。ドイツからユダヤ人の引き渡しを要求された時も断固拒否している。しかし連合国からは枢軸国扱いされて宣戦布告もしくは断交を受けた。ただ継続戦争の呼称については海外向けというよりも国内世論に向けたメッセージだったとされ、枢軸国扱いされるのは想定済み、あるいは甘んじて受けるつもりだったと思われる。
冬戦争の継続とあるように、フィンランド軍の目的は不当に奪われたカレリア地方の奪還であった。6月28日にラドガ・カレリア方面の攻撃作戦を練り上げ、7月10日にドイツ軍とともにフィンランド軍50万が越境してソ連領へ侵攻。ドイツ軍はレニングラード方面に向かっていったがフィンランド軍はラドガ湖北部へ進撃。先陣を切ったのはエルンスト・ルーベン・ラガス大佐率いる唯一の機甲師団であった。先の冬戦争で鹵獲したソ連製のT-26軽戦車を中心に編成されており、ソ連軍は自軍の戦車に攻撃される羽目になった。
7月31日、ラドガ湖北部で攻撃を開始。8月9日には別動隊が湖岸に到着して北西部を防衛していたソ連軍三個師団をモッティと呼ばれる包囲戦術で締め上げ、やむなく湖を渡っての退却を行っている。8月22日よりヴィープリ奪還を目指して南部で攻勢開始。敵の準備が整っていない隙を上手く突き、8月29日にソ連軍守備隊を撃破してヴィープリ市を奪還に成功した。ソ連軍側は撤退命令を出すのが遅すぎた影響で物資に甚大な被害が発生、先細ったソ連軍第23軍はフィンランド軍の猛攻を押さえ切れず、8月末に西カレリア地方を奪還、9月1日にポルランビ近郊で生起した戦闘でソ連軍第23軍に勝利し、9月2日には勢力図が冬戦争以前の国境線に戻された。一連の戦闘でT-34/76中戦車やKV-1重戦車を鹵獲して自軍に組み込んでいる。この勝利でソ連北部戦線はレニングラードとカレリアに分断された。
ところが無茶な戦争の遂行は国内産業に大きな打撃を与えた。数々の物資が欠乏、中でも食糧品の不足は深刻であり、足りない物はドイツからの輸入に頼っていた関係上、次第にドイツからの要請を断りきれなくなってきた。9月4日、ムルマンスク鉄道遮断を要請され、フィンランド軍は東カレリアに進撃。今回の進撃ではドイツの北方軍集団も一緒だった。東カレリアを守るソ連軍兵士は元フィンランド人で、多くが武器を持って投降、諸都市も諸手を挙げてフィンランド軍に降伏した事で攻略作戦は順調に推移。少数ながらもロシア系の住民もいて彼らは頑強に抵抗した。激闘の末、フィンランド軍は10月1日にペトロザボーツクを占領し、無事ムルマンスク鉄道の遮断に成功。しかし無茶を重ねてきたシワ寄せでフィンランド軍の動きは鈍化。それでも何とか進撃を続けて12月6日に第二の都市メドベルジュゴルスクを占領。ここで豪雪に遭ってフィンランド軍の進撃は完全に止まった。同時期、包囲していたハンコ岬のソ連軍3万も降伏し、ついにフィンランド領内からソ連軍が消滅。フィンランド軍の戦死者は2万6355名に対し、ソ連軍は23万の死傷者と5万の捕虜を出した。
目的を達成したフィンランド軍は進撃を止め、カレリア一帯に防衛線の敷設したり、ドイツ軍の支援作戦を行う程度に留めた。ドイツ軍からレニングラードの包囲に加わるよう要請があったものの拒否している。このためドイツ軍やルーマニア軍との共闘は殆どしていない。
中期
1941年12月8日、大日本帝國が枢軸国として参戦。これに伴ってイギリスから宣戦布告を受けるが、前々から同情的だったためかフィンランド軍に対し軍事作戦は行っていない。アメリカに至っては宣戦布告すらしなかった(ただし断交はしている)。当初、フィンランド軍はソ連からの和平提案を全て蹴っていた。
1942年夏、ドイツ軍は夏季攻勢に転じ、コーカサス地方まで進出。フィンランド軍にレニングラード攻撃に参加するよう再度要請を行ったが、これも拒否している。ドイツ軍に対する支援といえば、空軍がムルマンスク鉄道を攻撃したくらいであった。この頃はソ連軍もフィンランドを攻撃する余裕は無く、小規模な攻撃に留まっていた。同年12月、スターリングラードの戦いでドイツ第6軍が降伏し、30万人が捕虜となった。この敗報を受け、リュティ大統領はドイツの敗北を予期。戦争の早期離脱を考え、内閣を改造する。また、言うことを聞かないフィンランドに業を煮やしたヒトラー総統は、親独派によるクーデターで政権を転覆させる研究した事もあった(実行はされなかったが)。
次第にドイツ軍が押されるようになり、戦線はフィンランド側へと押し寄せてきた。これを機に1943年からフィンランドはソ連との単独講和の道を模索し始めたが、ドイツの反対によって難航。それどころかスウェーデンで行われたフィン・ソ秘密協議をドイツに暴かれ、制裁として食糧の禁輸を受けてしまう。国内の食糧供給をドイツに頼っていたフィンランドにとって禁輸は死活問題で、戦争を継続すると伝えて許しを乞うた事で再開してもらっている。ソ連軍がフィンランドを攻撃する余裕は未だ無かったが、代わりに赤軍パルチザンを国内に送り込んで破壊工作を仕掛けてきた。パルチザンは共産主義者やドイツ軍に家族を殺された者達で構成されており、手段は残忍かつ過激なものだった。傍若無人な赤軍パルチザンを掃討するため、フィンランド軍は部隊を派遣。元々狩猟が得意な民族だったため、1943年中にほぼ殲滅された。その手並みに、いつもパルチザンに手を焼いているドイツ軍は感心したという。苦難が続くフィンランドに、意外なところから助け舟が来た。1943年11月末、イランのテヘランでチャーチル、ルーズベルト、スターリンが会談を行った。枢軸国からの講和は一切認めない事で合意したが、フィンランドに同情的なチャーチルは「唯一フィンランドのみ分離講和を認める」と発表。講和という逃げ道を作っておいてくれた。
1944年1月、ソ連軍がレニングラードの包囲網を打ち破り、そう遠くない場所が戦場と化す。そこでフィンランドは翌2月にソ連へ講和を持ちかけた。ところがソ連から突きつけられた講和条件は過酷なものだった。それは「独力で国内のドイツ軍を排除する事」。当時のフィンランド軍の戦力では到底不可能であり、むしろ返り討ちに遭って全土を占領下に置かれかねない。イタリアやハンガリーがそうであったように。講和を諦めたフィンランド軍は、ひたすら防御を固める事にした。防衛線の構築はカレリア地方以外にも及んだ。各地の防御陣地は一層強化され、予備兵力の動員まで行われた。
流血の夏
そして1944年6月9日、ノルマンディー上陸に呼応してソ連軍もフィンランド侵攻を開始。5500門の火砲と900門近くのロケット砲がカレリア地方を耕した。これが「流血の夏」と呼ばれる3ヶ月の始まりだった。侵攻してきたソ連軍はドイツ軍との戦いで経験を積んだ精鋭部隊で、装備も冬戦争の頃とは比較にならないほどの強化を受けていた。T-34-85やスターリン重戦車といった新型戦車が多数投入され、フィンランド軍を蹴散らす。季節が6月なので気候も味方に出来ない。せっかく奪還したカレリア地方も手放さざるを得ず、撤退。無論ドイツ軍から最新鋭武器や三号突撃砲、パンツァーファウストなどが供与されていたが、それさえも霧散するほどの圧倒的な物量と暴力がフィンランド軍を襲う。ソ連軍はレニングラード方面軍とカレリア方面軍の戦力を投入し、フィンランド軍はほぼ全戦力を使ってこれを迎撃。Ⅲ号突撃砲は特に優秀で、ソ連軍の猛攻を押さえるフィンランド軍の主力兵器となりえた。空軍はバッファロー戦闘機を使い、敵機と交戦。この頃になると型落ちであったが、故障に強い設計から「空の真珠」と言われた。しかしながら性能差は覆しがたく、ドイツから供与されたメッサーシュミットBf109に刷新されていく事になる。奮戦するフィンランド軍であったが、4本のうち2本の防衛線を突破され、第二の都市ヴィボルグも失陥。6月21日、フィンランド軍は3本目の防衛線である「VKTライン」に集結。
フィンランド政府は枢軸国からの離脱や単独講和を打診したが、立場が逆転したソ連は無条件降伏以外認めないという方針を貫いた。フィンランドが単独講和をしようとする動きは当然ドイツ軍も察知していた。勝手に脱落しないよう、6月24日と27日にフィンランド湾で重巡リュッツォウ及びプリンツ・オイゲンを演習させて圧力をかけた。更にドイツ軍はフィンランドが単独講和した時に備え、タンネ・オスト作戦の準備も行っていた。これはスールサーリ島をソ連軍より先に占領する侵攻作戦であった。ドイツの圧力を受け、リュティ大統領は「最期までドイツと戦う」と宣言。納得の行く回答を得られたドイツ側は増援と武器を送った。
6月25日、タリ・イハンタラの戦いが生起した。無数にある湖沼や地の利を活用し、Ⅲ号突撃砲G型やパンツァーシュレックでソ連軍の戦車を40輌以上撃破。このうち修理できそうなものは鹵獲され、寡兵のフィンランド軍を支えた。その中にはT-34もあった。一方、空ではドイツ空軍から供与されたメッサーシュミットBf109Gを率いてウインド大尉が勇戦していた。ソ連軍航空隊のシュトルモビクやYak-9を次々に撃墜していった。ドイツ空軍のクールマイ戦闘団は対地攻撃を行い、100輌以上の敵戦車を撃破。6月27日から30日にかけての大攻勢でフィンランド軍は防衛線を突破されかけるも、粘り強く堅持。3倍以上の戦力を誇るソ連に、ドイツ・フィンランド軍の損害の4~5倍のダメージを与える事に成功。7月9日、ソ連軍は退却し同地の防衛に成功した。戦力が薄くなった東カレリアを奪取しようと、同方面にソ連軍が進撃してきたが、フィンランド軍の巧みな遅延戦闘で勢いを削がれ、あらかじめ構築されていた強固な防衛線にぶつかった事で停滞した。この頃、ソ連軍はバグラチオン作戦のために戦車部隊を集めており、フィンランド戦線からも引き抜かれた。これが影響して戦線が次第に膠着していく。
7月26日、ソ連とフィンランドの国境近くにある北カレリアのイロマンツィ村近郊で戦闘が生起し、イロマンツィの戦いが発生した。フィンランド軍の戦力は3個大隊程度だったのに対し、ソ連軍は2個師団を投入。継続戦争最後の大規模戦闘へと発展した。両軍ともに増援を送り、フィンランド軍は1万3000名に、ソ連軍は2万名に増強された。緒戦はフィンランド軍が制し、冬戦争で使用した「モッティ」戦法を実行。8月1日にはソ連軍唯一の退路を塞ぎ、包囲網が完成。包囲殲滅の危機を感じ取ったソ連軍は3個旅団を派遣し、森林を切り開いて退路を築こうとしたが、フィンランド軍の妨害で失敗。進退窮まったソビエト将兵は重火器や戦車を捨て、森の中を通ってどうにか撤退に成功した。放置された兵器は勿論フィンランド軍に鹵獲されている。8月10日、包囲下のソ連軍が武器を捨てて逃亡。イロマンツィの戦いはフィンランド軍の勝利で終わった。
だが、局地的勝利を重ねても大国ソビエトはビクともしなかった。それでも不利な戦況ながら不屈の闘志で戦い続け、何度も優勢なソ連軍を押し返しては計画に狂いを生じさせた。当初ソ連は無条件降伏以外認めない方針であったが、あまりにも頑強に戦うので考えに変化が生じた。フィンランドは小国ながらも強い。既にフィンランド軍の3倍に及ぶ損害が発生していた。しかも本丸はドイツなので、フィンランドを降伏させたとしてもドイツにダメージは入らない。フィンランド軍と戦う事に虚しさを覚えたソ連は、ついに講和の席につき、協議を開始した。交渉を行うたびにドイツから経済封鎖を受けたが、フィンランドの意志は堅かった。1944年9月2日、フィンランドはドイツとの断交を発表。翌3日、ドイツ軍第20山岳軍団はビアケ作戦(ラップランドからの撤退)を開始した。現地のドイツ軍はフィンランドの脱落を見越していて、あらかじめ撤退作戦の準備やフィンランド軍との打ち合わせを行っていたのである。続いて9月19日に休戦条約が成立。賠償金3億ドルの支払い、国境線を冬戦争後に戻す事、フィンランド湾のポルッカラをソ連の租借地にする事、軍備の制限、戦争犯罪人の処罰、全体主義団体の解体などの諸条件を受け入れ、フィンランドは正式に枢軸国から脱落した。翌20日、ソ連軍の進撃は止まった。
こうして継続戦争は終わった。だが領内にはまだ20万人以上のドイツ兵が残っており、彼らを巡って更なる受難が待ち受けていた。戦いはラップランド戦争へと続いていく。
関連動画
関連項目
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