美濃国(美濃國)とは、かつてあった令制国の一つである。古代においては、「三野国」「御野国」「美野国」「美乃国」といった表記もある。
概要
七世紀に成立。おおよそ、現在の岐阜県南部を範囲としていた。東山道に属する。当初は木曾地方もその範囲に入っていたが、その内に信濃国になった。但し、木曽地域は木曽川流域に含まれ、その下流との結びつきも極めて大きかったため、どちらの国に所属しているかの認識は揺れ続けた。完全に木曽地域が信濃に含まれることとなるのは武田信玄の時代となる。
東に信濃国、北に飛騨国、越前国、西に近江国、南に三河国、尾張国、伊勢国と接する。また、尾張国とはその国境の西を木曽川としている。但し、天正十四年六月二十四日(1586年8月9日)に当時の木曽川が氾濫し、その流れを変えたため、豊臣秀吉の命令で、天正十七年(1589年)に現在の木曽川を境とすることなった。天正十七年以前は、現在の境川が国境であった。
鎌倉時代、初期に大内惟義、その後、北条氏が守護となった。
室町時代を通して土岐氏が守護を得るも、斎藤道三によって、土岐頼芸が追放され没落。その道三も息子の斎藤義龍によって殺害された。さらに、その子、斎藤龍興は稲葉山城が織田信長によって攻略された上、追放されて美濃斎藤氏も没落した。その後、岐阜城は織田家のものと成り、およそ織田系の大名が美濃に領土を得るも、関が原の合戦で織田秀信が改易された。江戸時代に、幕府はこの地に大藩を作らないよう、大きくとも十万石の小藩が幾つか立てられた。
明治時代以降、幾つかの県に分かれた後、筑摩県を分割した飛騨地方を統合して岐阜県となった。
現在は、濃尾平野などの地名にその名残をとどめている。また、将棋の美濃囲いは美濃国の城や美濃国出身者が考案したことが語源と言われている。
郡
関連項目
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