羽柴秀勝(はしば・ひでかつ)とは、戦国時代の武将であり、同姓同名の人物が3名いる。どの人物も豊臣秀吉に深く関わり、中核をなした人物と言えるだろう。主に幼名を付けて区別される事が多い。
石松丸秀勝( ? ~ ? )
羽柴秀吉が長浜領主時代に授かった子供であるが夭逝したと言われている。生母は秀吉の側室南殿であるとされることが多い。存在を長らく疑問視されていたが、近江長浜の妙法寺や宝厳寺での調査により、現在は実在説が主流である。
織田秀勝/於次丸秀勝(1568?~1586)
織田信長の四男(五男とも)として永禄十一年(1568年)頃に誕生する。母(養観院)の出自等は不明。
石松丸秀勝を失った秀吉の養子となり、秀吉の勢力拡大を裏から支えた。同じく織田一門の藤掛永勝を重臣とし、羽柴秀吉による毛利輝元攻めにも従軍。1582年の備中高松城の攻略や山崎合戦にも従軍し、戦後織田信長や織田信忠の遺領を決める清州会議では、兄の織田信雄が尾張を、同じく兄の織田信孝が美濃を与えられたのと同様、明智光秀の領土であった丹波を貰い受けている。
秀吉主導で行われた大徳寺での織田信長葬儀では喪主を務め、他の信長息子らとともに葬儀に参加している。1583年の賤ヶ岳の戦いに従軍、のち1584年の小牧長久手の戦いでは軍を率いて岐阜城の守備につき、尾張に出張る秀吉の後方守備を担当。しかしこの頃から病を篤くし、1586年に若干18歳で死去。自然死扱いが主流であるが、秀吉によって↓とすり替えられたという説も存在する。
豊臣秀勝/小吉秀勝(1569~1592)
三好吉房と日秀(秀吉の姉)の子として永禄十二年(1569年)に誕生する。叔父に豊臣秀吉、兄に豊臣秀次、弟に豊臣秀保を持つ。
織田秀勝の遺領である丹波を相続し、秀吉親族衆の1人として豊臣政権に重きをなした。同時期に浅井長政の娘である江(のちの崇源院)を娶っている。のち九州征伐で功を巡り秀吉の怒りを買って丹波を没収されるが、継嗣なく死没した蜂屋頼隆の遺領敦賀を引き継ぐ。丹波は小早川秀秋に与えられた。その後甲斐信濃、美濃岐阜と領土を徐々に増やしながら転々とし、同時期に兄の豊臣秀次が関白に就任するなど栄達を極めていた。自らも1592年に従四位参議に就任していたが、同年行われていた唐入りの途中、朝鮮で死没した。遺領は織田秀信らに受け継がれた。
前年1591年には豊臣秀長が、数年後の1595年には実弟で秀長養子となっていた秀保も病死し、その直後に秀次事件が勃発。豊臣家の数少ない縁者が短期間で立て続けに亡くなった不幸は、豊臣政権崩壊の一因であろう。
なお、2011年の大河ドラマ江〜姫たちの戦国〜では不可解な死を遂げていたが、史実では病死である。
関連動画
補足
創造までの時点では、信長の子である於次丸こと織田秀勝のみが登場している。小吉秀勝が登場する機会はまだであろうか。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | |||
覇王伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 21 | 政治 | 67 | 野望 | 41 | ||||
天翔記 | 戦才 | 138(B) | 智才 | 62(B) | 政才 | 134(B) | 魅力 | 75 | 野望 | 42 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
関連項目
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