羽田健太郎(1949年1月12日~2007年6月2日)とは、東京都出身のピアニスト・作曲家・編曲家である。ファンからは「ハネケン」と呼ばれることが多い。
概要
1歳の時に銀行員の父を亡くし、住宅会社に勤める外交員の母親と祖父によって育てられた。4歳のときに他人との協調性を学ばせるため、祖父の意見で東京少年少女合唱隊に入れられた。これが羽田と音楽との出会いであった。小学2年生の時にピアノに転向をする。中学2年の進路相談で「音楽学校へ進みたい」と意志を明らかにしたが、今まで師事していたのは「町のピアノ教師」であり本格的な専門教育者ではない。羽田は中学2年生まで本格的な専門教育を受けていなかった。
桐朋高校を受験前に後の恩師に演奏を披露したら、駄目出しを貰いショックを受け基礎から勉強をして、1年半後にビリから2番目の成績で合格した。高校2年生の時に羽田の母親がグランドピアノを購入し、防音対策のために家を改築する。羽田は有名になった後も終生このピアノを大切に使った。この年の夏休みに一日12時間もの猛練習で急速に実力を伸ばした。
大学に進学した1967年、第36回日本音楽コンクールを受けるが第1次予選で落選。その後大学には内緒でホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをして実演の経験を積んだ。これが後に受けるコンクールでの舞台度胸や実演の経験として功を奏した。大学4年の時に第39回日本音楽コンクールピアノ部門第3位入賞大学のピアノ科を首席で卒業。
桐朋音楽大学卒業後、羽田はクラシックピアニストの現状が非常に厳しい事を認識していたことや苦労をかけてきた母親に一刻も早く恩返ししたいという思いもあり、軽音楽の道に進む。スタジオ・ミュージシャンとしては、クラシック出身で指が確実に高いレベルでよく動く人材が当時は乏しかったため、非常に重宝され、朝から晩までスタジオにこもり、次から次へと録音をこなしていった(そしてこなせるだけの高い技術があった)。著書によれば、当時のサラリーマンの月給を2日で稼げるほど売れっ子だった。羽田の回想によれば、「金は要らないから休ませて欲しい」と思うほど、当時は仕事が次から次へと回ってきた。スタジオ録音全盛期の時代と、羽田の活躍の時期が重なったことは幸運であった。また、シンガーソングライター・渡辺真知子のバックバンドのリーダーをしたり、沢田研二の『勝手にしやがれ』のピアノ演奏を担当して、1977年の紅白歌合戦でのピアノ演奏も担当をした。この時代から、作曲家・編曲家としての仕事を開始する。
1970年代の終わりから1980年代のドラマ、アニメの音楽を携わることが多くなる。代表作としては『西部警察PARTⅡ』、『宝島』、『マクロス』、『まんが水戸黄門』、『渡る世間は鬼ばかり』等の作品がある。またゲーム音楽でも『ウィザードリィ』も羽田健太郎が担当している。
30代~40代になるとクラシックの仕事も徐々に増やし、また軽音楽奏者としても幅広く活躍するようになっていった。またテレビ番組にも出演するようになる。特に1990年~1994年までテレビ東京でも放送していた『クイズ!タモリの音楽は世界だ!』でのコミカルなキャラクターは人気があった。『ニュースステーション』での自然をバックにしたピアノ演奏の中継も有名であった。
1998年12月からは慢性的な飲酒がたたって体調を崩し生死をさまよったが、復帰後は原点のクラシック音楽へ回帰をするようになる。晩年は、ソロコンサートと同時にジョイントコンサート、指揮者としての出演が多く、また長女・羽田紋子(声楽家)とのジョイントコンサートも多かった。
また東京ヤクルトスワローズの大ファンで、神宮球場でも何度か『東京音頭』を演奏したこともあった。
2007年6月2日、午後11時53分肝細胞癌の為東京都新宿区の病院で死去。58歳没。
宮川泰・宇宙戦艦ヤマトとの関係
作曲家の宮川泰とは、2年ほど同じマンションの上下の階に住んで以来、盟友と呼べる仲であった。羽田のピアノの腕は宮川も認めており、宮川が作った曲にピアニストとして参加させた他、彼の息子である宮川彬良にピアノを習わせたこともある。
羽田の酒癖の悪さを示した、宮川とのエピソードがある。ある日、羽田が宮川の部屋へ遊びに来た際、酔っぱらって、宮川家のスプーンやゴルフクラブ、冷蔵庫の網棚などをへし折った。当時はユリ・ゲラーによる超能力ブームがあったため、「宮さん、僕も曲がるよ!」と真似したのであった。怒った宮川に追いかけ回された羽田は、水が張った風呂場に服を着たまま飛び込み、そのまま上から蓋を閉められて「助けてー!」と叫んだとのことである。
宮川が手がけた『宇宙戦艦ヤマト』シリーズでも、ピアニストとして多数参加。特に『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』のBGM「自動惑星ゴルバ」のテクニカルなピアノプレイは必聴である。
1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』では、宮川(息子の彬良も一部参加)と共に作曲を手がける。羽田の起用は、「(ヤマト音楽が)マンネリ化を避けるために新しい血を導入しよう」ということで決まった。本作では、二人が同一のテーマを作曲し、ベストな方を採用するという、コンペ形式が取られた。
羽田は主にディンギル帝国側の音楽を多く担当。「水没するディンギル星」・「抜けるヤマト」など、ダイナミックで勇ましくも悲哀を感じさせる曲が多い。また、「ハイパー放射ミサイル」のような、スピーディでかつおどろおどろしい曲も制作している。劇中の終盤、ヤマトにたった一人残った沖田艦長が、水惑星アクエリアスに立ち向かうシーンで流れる、「SYMPHONY OF THE AQUARIUS」は、叙情的でかつ超絶なピアノ演奏と、ハイクオリティなアニメ映像とが見事にシンクロしており 、物語のクライマックスを盛り上げている。この曲は、アニメ音楽としては異例の演奏時間が9分強あり、ヤマト音楽の集大成と言える出来となった。なお、タイトルには「SYMPHONY(交響曲)」とあるが、形式はピアノ協奏曲である。
音楽諸々に厳しい、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズのプロデューサーである西崎義展も、羽田作曲の音楽について絶賛しており、特に「アクエリアス45億年」・「ウルクの歴史」・「SYMPHONY OF THE AQUARIUS」の3曲は驚愕したと述べている。
関連動画
関連商品
関連リンク
関連項目
- 5
- 0pt