肝付兼久(きもつき・かねひさ)とは、
本稿では1について記述する。
1の概要(1473-1523 肝付家14代)
肝付家14代当主。肝付兼連の嫡男。弟に肝付兼顕。子に肝付兼興、肝付兼親、頴娃兼洪がいる。
1482年、父の死によりわずか10歳で家督を継ぐ。
祖父・肝付兼忠は健在であったが、77歳という高齢であり隠居していた。(wikipediaでは1484年まで当主扱いで重複している。)
補佐する者もおらず、若年と侮った一門の肝付兼広(兼忠の三弟)らが謀叛を起こすと兼久は志布志の新納忠続を頼って逃亡する。
のちに忠続の援助もあり、兼広らを倒して当主復帰を果たした。
元服時に島津忠昌を加冠役としたが、やはり島津氏とは相成れぬ仲だったのか、何度も対立している。
1506年、忠昌がとうとう兼久討伐のために高山城へと進軍する。
兼久は居城を中心として、忠昌と戦うこととした。兼久の当主復帰を手助けした新納忠続はもうこの世にはいなかったが、忠続の甥・新納忠武が跡を継いでおり、彼もまた兼久に味方することを表明した。
島津一門であり、飫肥の島津忠朝も兼久の嫡男・肝付兼興の正室の実家ということもあり、兼久に味方した。(兼興は当時15歳であるが。)
小林・真幸院を治めていた北原久兼も援軍として登場する。
更に更に球磨の相良長毎も兼久の援軍に駆けつけた。長毎の次女が兼興の一番最初の嫁という。
こうして多くの味方を得た兼久は2ヶ月の死闘を演じて忠昌を撃退した。
2年後に忠昌は自殺に追い込まれ、大隅国に平和が訪れた。
こうして内乱などで不安定であった肝付氏を纏め上げ、戦国大名への礎を築きあげた。
補足
蒼天録1作のみの登場。自殺に追い込んだ島津忠昌よりちょっと勝る程度。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | 34 | 知略 | 56 | 政治 | 54 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
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関連項目
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