能登呂(のとろ)とは、
である。本項では2について記載する。
概要
1920年8月10日に竣工した知床型給油艦1番艦。艦名は樺太南端に突き出る能登呂半島最南端の西能登呂岬に由来する。したがって現代ではもう地球上に存在しない地名である。
当時帝國海軍は大小合わせて4隻のタンカーしか保有していなかったため、その不足を補うために生産された史上初の量産型給油艦である。設計については海軍先進国イギリスから輸入した給油艦野間を参考。外地から石油を輸入するのが主な任務なので平時での運用を想定しており、速力は低く、上甲板中央や艦尾甲板に給油管を受け渡すデリックポスト及びデリックブームこそ設けられているが、洋上給油能力も持たないなど民間のタンカーと大差ない性能だった。ただし海軍の給油艦という事で便乗者の居住区や補給用真水タンクなど民間船舶には無い装備を持っていた。持ち帰る重油を少しでも減らさないよう主機は既に旧式化していた石炭駆動のものを敢えて採用。大正時代に石油輸入の任を民間船舶に委託した事で洋上給油装置を搭載、艦隊随伴任務も行うようになる。能登呂は元々1番艦であったが、のちに水上機母艦へ改装されたため2番艦の知床がネームシップになるも、その知床も給炭艦に改装され、3番艦の襟裳がネームシップになるなど二転三転している。
空母の数が揃っていない昭和初期において能登呂の存在は非常に大きなものであり、多大な戦果を叩き出して水上機母艦の有用性を証明、これが千歳型や瑞穂型の建造に繋がった。特に上海事変や支那事変では空母に代わって陸軍の支援、偵察、爆撃、対艦攻撃を担って勝利に貢献。さすがに大東亜戦争では空母の数が揃って水上機母艦の必要性が薄れてきたため、今度は輸送艦として太平洋を縦横無尽に駆け巡る。輸送艦ながら書類上の艦種は水上機母艦のままだったらしく「軍艦」のままだった。任務の過程で幾度となく米潜水艦に狙われ、総計8本の魚雷をぶち込まれてドック送りにされるも驚異のタフネスさを見せて復帰、B-29から爆撃を受けて大破着底してもなお終戦まで運用され続けるなどまさに不死身だった。
要目は排水量1万4050トン、全長138.88m、全幅17.68m、最大速力12ノット、出力5850馬力、乗組員250名。武装は40口径三年式12cm砲2門、一四式水偵8機(常用4機、補用4機)。ロンドン海軍軍縮条約で制限対象外になるべく射出機を持っておらず、クレーンで水上機を吊り上げ、海面に降ろして発進させる形式だった。搭載機のフロートには所属を示す「ノトロ」の文字が書かれた。1937年前半の近代化改修で兵装を三式8cm高角砲1基、毘式20mm機銃約20基、留式7.7mm機銃数丁に換装、搭載機を九四式水偵4機と九五式水偵5機に刷新し、ロ号蚊艦本式混焼缶4基を搭載。
艦歴
水上機母艦の礎を築いた補給艦
八六艦隊計画にて第2号特務船の仮称で建造が決定、軍備拡充費を投じて川崎重工神戸造船所へ発注し、1918年4月17日に能登呂と命名される。
1919年11月24日に川崎重工神戸造船所で起工、1920年4月1日に類別等級を特別運送艦に制定され、5月3日に進水し、6月6日より神戸造船所内に艤装事務所を設置して8月1日に艦内へ移設、そして8月10日に竣工を果たした。初代艦長に秋吉照一大佐が着任するとともに呉鎮守府に編入。竣工した翌日の8月11日に神戸を出港、宮島を経由して8月13日に呉へ入港して兵装の工事を実施した後、9月20日より外地からの重油輸送任務に従事する。
オランダが支配する東南アジアの産油地、もしくはアメリカのサンフランシスコやホノルル等に寄港して重油8000トン近くを積載し、それを日本へと持ち帰る。国内では産出出来ない重油は国防上においても日本の重要な生命線であり、能登呂の任務はまさに重大そのものであった。しかし日露戦争に勝利した日本を脅威と見なしたアメリカ政府は重油の補給を禁止し、カナダのマーチネツにあるシェル社貯油所を閉鎖してしまったため、1922年6月27日にホノルルから出発したのを最後にアメリカ方面へは立ち寄らなくなった。
水上機母艦若宮丸が老朽化して代艦が必要になってきた事、試作中の一四式水上偵察機が高性能を発揮した事から新たに水上機母艦を用意する事が決まり、1923年に能登呂に白羽の矢が立てられた。船体が大型かつ機関が船尾に集中していて改造しやすかった点が理由に挙げられる。1924年10月5日に佐世保への回航命令が下り、所属を佐世保鎮守府第2予備艦に変更して10月16日に佐世保へ入港、水上機運用能力を獲得するための改修工事が始まった。
運送艦の水上機母艦化は手探りの部分も多かったが、若宮丸で有用だった部分を存分に盛り込んで対処。前部ウェル部に木甲板を張って水偵甲板とし、その上に鉄骨木製天蓋を乗せて一四式水偵常用2機と補用2機を積載。前マストに水平式の揚収デリックを設置、上甲板下のサマータンクの一部を諸倉庫にした状態で試用してみたところ好成績を収めたので工事続行。後部ウェル部も同様に改造して更に一四式水偵4機を搭載可能にした。前後のデリックポストを補強延長して艦内前部に軽質油庫、補用機格納所、弾火薬庫を、船橋より後ろに飛行機倉庫、発動機分解工場、予備発動機庫等を搭載し、その姿は差し詰め海に浮かぶ工場。若宮丸と比べて艤装も設備もデリック能力も遥かに優れ、また大型だったため従来の重油タンクはそのまま残す事が出来、給油艦としても運用可能というまさに正統進化を遂げた水上機母艦となった。大きな失敗や欠陥を出さなかったので後発の神威は能登呂と同様の要領で改装されたという。
1925年2月22日改装完了。若宮丸に次ぐ航空機運用能力を持った2番目の艦となり、連合艦隊第2航空戦隊へ転属。能登呂の艦種変更に伴って2番艦の知床がネームシップとなった。当時まだ水上機母艦という枠組みが無かったため新聞報道では「航空機母艦」と記載されている。イギリスより招いたセンピル航空団から水上機のノウハウを学んでいた帝國海軍の知識と能登呂が上手く噛み合い、これから多大な戦果を挙げていく事となる。1927年6月8日、消毒器室、兵員厠、兵員病室防熱装置、浴室兼厠、石油及び揮発油庫の新設訓令が下る。8月26日には駆逐艦葦の捜索に向かう駆逐艦栗に艦載機2機と機材を貸与している。1928年12月4日、横浜沖で行われた御大礼特別観艦式に参列し、第一番列外に連なった。
1931年9月5日午前5時11分、横浜港停泊中に軽質油の爆発事故が発生し、乗員11名が死亡、23名が重軽傷を負った。前部格納庫と搭載機が破損する被害が生じるも、船体自体へのダメージは少なかったためすぐに復帰出来た。12月より生起した満州事変では渤海方面で陸軍を支援している。
第一次上海事変
1932年1月、満州事変への反発で上海では反日感情が上昇し、日本人僧侶が殺害される事態にまで発展。日本総領事は上海市長呉鉄成に対し全ての反日団体の解散、賠償金の支払い、反日扇動の停止を求めたが、中国側の意見と板挟みになってしまい市長は優柔不断に陥っていた。前々から錦州海闢方面の陸軍を支援するべく中国沿岸で活動していた能登呂だったが、1月21日に揚子江方面への回航命令を受けて同日午前9時に旅順を出港、1月24日に上海へ到着して外港ウースンにて投錨する。
しかし事態は悪化の一途を辿り、1月28日未明、陸戦隊2500名と中国国民党軍第19路軍2個師団が本格的な交戦を開始。同日午前3時20分、塩沢少将の命令で閘北方面の偵察を行う事になり、午前4時に2機の水偵が発進。雨雲をかわしながら午前4時40分に閘北上空1000mへ到達して吊光弾を投下、商務印書館の敵軍から対空射撃を受けるも偵察の目的を達成した。午前6時13分には1機の水偵が湖州會館南方で苦戦する陸戦隊の上空を能登呂の艦載機が通過して敵陣に照明弾と爆弾を投下、その大胆さに敵が呆れたというエピソードが残る。続いて午前7時13分と25分に商務印書館に攻撃を仕掛け、午前9時15分(3機)と午前10時(2機)に出撃した水偵が閘北方面の敵陣を爆撃し、午前11時35分以降に出撃した機は市郊外の砲兵陣地と北駅の装甲列車へ攻撃を加えた。10回に及ぶ航空攻撃により装甲列車の行動は阻害され、敵の鉄道網に大きなダメージを与え、第19路軍の心理には絶大なる恐怖が刻まれた。翌29日、今度は国民党軍の基地を攻撃するよう命じられ、長江に進出した能登呂から水上機が発進。当時動ける空母が加賀と鳳翔しかなかったため水上機母艦は大変重宝されたという。2月2日、中国方面を担当する第3艦隊に編入。陸軍の増援5万名が上海へ上陸した事が決め手となり、包囲殲滅の危機に陥った第19路軍は3月1日に停戦に応じた。上海事変における能登呂艦載機の活躍は実に目覚ましいもので、水上機母艦の有用性が証明された事で次は艦隊決戦用の水上機母艦が求められ、千歳型と瑞穂型が誕生するきっかけとなった。5月25日、搭載機を新型の九〇式三号水上偵察機に刷新。
12月24日、巡洋艦出雲とともに遥西方面への進出が決定し、旅順港で集結したのち関東軍の海賊退治と呼応して第13及び第15駆逐隊とともに出撃。能登呂は山海関から連山にかけて航空偵察を行い陸軍との連携を強化した。
1933年9月18日、旅順港で墜落事故が発生して搭乗員1名が死亡。1934年6月1日、能登呂は特務艦籍から新たに制定された水上機母艦の枠組みに編入。これに伴って軍艦に格上げとなり、艦首に金色の菊の御紋が追加された他、新たに司令官室と幕僚室が新設されている。12月1日、佐世保工廠で飛行機搭載甲板の改造工事を実施。1936年8月14日20時20分頃、豊後水道水ノ子灯台南方3海里沖で夜間訓練を行っていた能登呂所属の九〇式水偵8号機が行方不明になる事故が発生。その日は晴天なれど霧が出ていた。決死の捜索にも関わらず搭乗員2名は見つからずじまいだった。10月29日、神戸沖で行われた特別大演習観艦式に参加し、西第二列に連なった。
1937年前半の定期修理を受けた際に近代化改修も並行して実施。上部天蓋を撤去するとともに新たに三年式8cm高角砲1門と毘式20mm機銃約20基、留式7.7mm機銃数丁を装備して武装を強化。搭載機も九四式水偵4機と九五式水偵4機に刷新され、主缶はロンドン海軍軍縮条約で廃棄された戦艦から流用したロ号艦本式混焼缶4基を搭載する。この改修により排水量が1万2678トンになった。8月6日には佐世保工廠で兵員病室の薬剤室を拡張する目的で隔壁の移設工事を行っている。
支那事変
1937年8月13日、第二次上海事変がきっかけで支那事変が勃発。戦時体制に移行した事から能登呂は更なる改修を受けて搭載機を倍の8機に増加させた。10月1日に発令された大海令第3号により第3艦隊(支那派遣艦隊)第3航空戦隊へ転属。10月12日朝に佐世保を出港して南支牛角山沖へ進出し、中国沿岸の攻略作戦に参加する。この時フロートに書かれていた「ノトロ」の文字は無機質な数字に置き換えられて識別出来ないようにされていた。12月1日には相方の衣笠丸と第四航空戦隊を編成。
1938年に入ると衣笠丸とともに北支方面の海上封鎖、鉄道攻撃、陸戦隊上陸に従事。2月24日、ナンシェン沖で九五式水偵5機を発進し都市攻撃に向かわせたが、中国第28飛行中隊と第29飛行中隊の迎撃を受け、1機を喪失。3月14日に中支方面での作戦に転用され、漢口、アモイ、九江の攻略支援を担った。10月21日、同じく水上機母艦の神威や神川丸、香久丸とともに南支方面で広東省の敵補給路を攻撃。水上機で列車や船舶を破壊して絶大なる戦果を収めた。特に南寧攻略戦では神川丸と超次元タッグを組み、水上機部隊が猛威を振るって第19路軍を震え上がらせている。
1939年11月10日、南寧攻略部隊を支援すべく上海方面から増援として駆けつける。巡洋艦足柄とともに水上機を神川丸の指揮下に入れ、25機の水上機が整列。この威容を見た連絡の陸軍参謀が「これで成功疑いなし。各部隊は水上機隊の協力を持ち焦がれております」と評した。
支那戦線に功績と足跡を残した能登呂は一線を退き、改修工事を受けて給油能力を強化、以降は聖川丸とともに鹿児島県鴨池海岸や淡路島洲本海岸で水上機の訓練を行った。1940年11月15日には支那派遣艦隊から連合艦隊に転属し、いよいよ支那戦線から引き揚げる事になったが、南寧の攻略が終わるまでは現地に留まった。11月16日の戦闘では水上機による機銃掃射で友軍部隊を掩護。約3時間の激戦を経て推車嶺の峰を占領した。
インドシナと委任統治領の島々に航空基地が整備された事により水上機母艦の必要性が薄れ、代わりに東南アジアの資源地帯と日本を往来するタンカーが大量に必要になると試算され輸送艦の需要が高まったため、能登呂は輸送艦として運用される事に。1941年7月から9月にかけて能登呂は艦載機を全て降ろして新鋭の航空機運送艦富士川丸に供与。そして11月、出師準備に伴って佐世保港内で可燃物の陸揚げ作業を実施した。12月2日、旗艦長門より送信された「ニイタカヤマノボレ」の暗号文を受信。
12月5日に能登呂は和歌山県下津港で重油を満載し、仏印カムラン湾へと向かった。
大東亜戦争
1941~1942年
1941年12月8日、大東亜戦争の開戦を能登呂はカムラン湾で迎えた。南方作戦に投入された能登呂は最古の水上機母艦であったため最前線には投入されず、後方海域において水上機と重油の輸送任務に励んだ。
12月14日、夏洲島南西約10海里で米潜水艦ソードフィッシュの雷撃を受けて陸軍徴用船香椎丸が大破。たまたま海南島最南端の楡林港に停泊していた能登呂は海南島警備府の指示を受けて翌日午前11時に救難へ向かい、午後12時24分に左舷に数十度傾斜している香椎丸を発見、香椎丸側と連絡を取りながら曳航索を渡す。14時50分、能登呂は「御被害につき深くお見舞い申す」と慰みの信号を投げかけ、香椎丸から「ありがとう」との返礼があるなどほんわかムードが漂っていた。15時54分より曳航を開始、護衛には水雷艇鴻(おおとり)がつき、曳航索の状態を見るため2隻との間に大発が配置された。幸い追撃を受ける事無く19時17分に鴻による護衛を終了、20時47分に曳航を解除し、21時1分に三亜港へ辿り着いた。
1942年1月2日13時に佐世保へ帰投、1月7日午前11時に出港した後に呉へ回航され、占領したばかりの香港への輸送任務に従事すべく1月12日午前11時に鹿ノ川を出発。1月19日16時30分から22日午前10時まで香港に寄港して帰路につき、高雄を経由して2月1日午後12時30分に佐世保へ帰投した。次はダバオへの水上機輸送任務に臨み、2月16日午前7時30分に出港、2月23日16時にダバオへ到着して水上機を揚陸。現地で神風丸、箱根山丸、仙光丸からなる即席の船団を編制し、敷設船燕に護衛されて2月28日16時にダバオを出港、経由地のタラカン港外にて便乗者を特設砲艦万葉丸に移乗させ、3月1日午前8時30分にバリクパパンへ入港。同日午前9時18分に敷設船燕へ炭と水を補給した。そして翌2日16時30分にタンカーあけぼの丸とともにバンジェルマシンに到着。マカッサルとタラカンを経由したのち3月21日午前11時に佐世保へ入港した。南方作戦は無事成功に終わり、帝國陸海軍は東南アジア一帯の資源地帯を入手。
4月11日13時、インド洋アンダマン諸島に水上機を輸送するべく佐世保を出港。4月13日20時45分に雷跡を認めるが命中せず、4月22日22時から25日正午までシンガポールへ寄港、そして4月29日16時30分にポートブレアに入港して持ってきた水上機を揚陸する。5月1日18時20分に出発した能登呂はシンガポールを経由して5月18日午前10時に佐世保へ帰港。輸送任務を成功させた。
6月2日15時に佐世保を出港。今度は水上機輸送任務の規模を拡大してトラック、ラバウル、サイパンの三ヵ所を巡る事になり、まず6月12日15時30分にトラック諸島へ到着。ここでラバウル行きの船団に混じってトラックを出発、味方機の上空援護を受けながら6月19日午後12時30分にラバウル到着、続いて6月27日午前7時30分にサイパンへ寄港して積み荷を揚陸し、7月9日午前10時に佐世保まで戻った。以降しばらくは大連、舞鶴、新潟港を往来して内地方面の輸送任務に従事。
9月8日午前9時、横須賀を出港して再びトラック、ラバウル、サイパンへの輸送任務に臨む。10月3日午前6時5分、ラバウルにて第22号掃海艇が横付けして午前6時50分まで24トンの重油を送油する。10月21日15時に呉へ入港。10月25日午前6時30分にトラックへ届ける航空機を積載して呉を出発。11月5日にトラックから出発してきた駆逐艦夕月が護衛につき、付き添われながら翌6日14時30分にトラックへと入港、激闘続くソロモン戦線に送られる航空機を揚陸する。11月10日午前10時、給油艦石廊とともに駆逐艦夕月に護衛されてトラックを出港、環礁外10海里沖で夕月は反転帰投していき、11月21日午前9時呉へ帰投する。
12月1日午後12時30分、スラバヤに届ける航空機を積載して呉を出発。機雷敷設艦那沙美の護衛を受けながら12月16日15時にスラバヤへ到着して積み荷を揚陸。その後はスラバヤとバリクパパン間の輸送任務に励む。
1943年
この年は能登呂にとって受難の年となった。
1943年1月8日午前9時、バリクパパンを出港。しかし安全と思われた東南アジアにも既に敵潜が侵入してきていた。翌9日16時頃、マカッサル海峡北口で米潜水艦ガーが能登呂を狙って3本の魚雷を発射、このうち2本が命中して小破ながらも航行不能に陥る。1月11日午前9時に特設電線敷設船山鳩丸が救援に現れて曳航、1月15日午前11時25分にバリクパパンへ到着して緊急修理を受けた後、1月22日午前7時に今度は春日丸に曳航されて出発。特設砲艦長沙丸の護衛を受けながら1月31日15時40分にシンガポール入港。
セレター軍港の第101工作部で修理を受ける。当初の予定では6月15日に完了するはずだったが部品の不足で遅延が発生し、5月頃になってようやく乾ドックへ入渠、7月末に出渠し、8月24日にようやく修理を完了した。
8月25日正午にシンガポールを出発した能登呂はバリクパパンに寄港して燃料を満載。9月4日午前8時25分、駆逐艦朝風、特設砲艦万葉丸、第6号駆潜艇が護衛する第2607船団に参加し、パラオ方面に向けて出港。9月10日16時20分に無事パラオへ到着して燃料を揚陸、今度は第8161船団に加わり、9月16日午前6時に第29号駆潜艇や賢洋丸とともに出発する。しかし9月20日22時30分、トラック諸島西方100海里で米潜ハドックにレーダー探知され、斉射された6本の魚雷が第8161船団に襲い掛かる。うち3本が左舷前部、中部、後部にそれぞれ命中して中破、無線航海装置に相当な被害が発生するとともに重油に引火して炎上。通常の輸送船なら即死級のダメージを負いながらも鎮火に成功、また機関が無事だった事から翌日トラックまで逃げ切り、明石に横付けして応急修理を受ける。
この年だけで5本の魚雷をぶち込まれる災難に遭いながら生きながらえるという、幸運なのか不運なのかよく分からない運命に翻弄される能登呂であった。
1944~1945年
2月13日午前2時13分、海防艦隠岐や第31号駆潜艇が護衛する第4212船団に加わってトラックを出港。この時、アメリカ軍は大規模空襲を企図してトラックを包囲下に置いており、もし出港が4日遅れていればトラック大空襲に巻き込まれて沈没の憂き目を見ていたと思われる。虎口を脱した能登呂は2月27日午前10時30分に横須賀へ入港。3月6日15時15分に横須賀を出港、尾鷲湾を経由して3月10日午前9時58分に因島へ到着、日立造船所で入渠整備を受ける。
5月18日出渠。佐世保へ回航したのち第25魚雷艇隊の魚雷艇を積載して6月2日に出発、ミ05船団が待つ伊万里へ移動し、6月3日午前4時15分に第17号掃海艇、水雷艇鷺、第38号哨戒艇、第18号海防艦、第22号駆潜艇に護衛されて出発。道中で船団から分離して6月8日に基隆へ入港するが、船団が高雄に到着するや否や自身も高雄へ移動して合流し、6月11日に出港。マニラへと向かっていた6月13日15時51分、まりふ丸が米潜水艦フリアーの雷撃を受け(命中せず)、第38号哨戒艇と第17号掃海艇が爆雷を投下、16時に水雷艇鷺と第38号哨戒艇がまりふ丸護衛のため船団から離脱、一時的に第1号海防艦が護衛に加わるなど慌ただしくなったが、6月14日深夜に無事マニラに到着。6月18日にマニラを出発して道中何事もなく6月23日午後12時57分にミリ到着。今度はミリ発シンガポール行きのミシ03船団に参加し、6月25日19時15分に出港してシンガポールへ向かった。
6月28日夕刻、シンガポール南東沖を遊弋していた米潜フラッシャーが水平線上から立ち昇る黒煙を発見し、21時に13隻の商船からなるミシ03船団をレーダー探知。そして翌29日午前2時25分、米潜フラッシャーは2隻(能登呂と日本丸)に向けてそれぞれ3本ずつ魚雷を発射。能登呂も日本丸も2~3本の魚雷が直撃して日本丸は船体を真っ二つに折って沈没、能登呂は驚異の耐久力を見せて何とか中破航行不能で踏みとどまった。命からがら助かった能登呂は22番船に曳航され、6月30日16時30分にシンガポールへ入港。早速入渠修理が始められたが、工員が現地で雇用された中国人だったため作業は非常にゆっくりしたものであり、戦線復帰は遅れに遅れた。
11月5日午前6時44分、インドのカルカッタから発進してきたB-29爆撃機53機がシンガポールに到達して盲爆。敵の第一目標は戦艦の修理さえも可能なキングジョージ6世ドックであり、そこに入渠していた能登呂は巻き添えを喰らう形で猛攻を受ける。此度の爆撃はこれまで行われた昼間の爆撃の中では最長のもので、能登呂にも爆弾が命中して大破着底、キングジョージ6世ドックは3ヶ月間使用不能となった。シンガポールでの修理は出来ず、レイテ沖海戦に敗北して内地帰投も困難な今、もはや修理は不可能と判断され、以降能登呂はシンガポールで浮き重油タンクとして運用される。
シンガポールへの爆撃はその後も続き、1945年2月1日の爆撃では給油艦知床がドックごと攻撃を受けて沈没する被害が出ているが、既にキングジョージ6世ドック付近は攻撃対象から外されていたため能登呂への被害は無かった。3月1日、内令第196号により第4予備艦となる。北号作戦で残っていた有力艦艇は軒並み脱出、重巡足柄と羽黒は輸送任務中に撃沈され、8月15日の終戦時、シンガポールに残留していたのは大破して戦力にならない能登呂、高雄、妙高、そして唯一戦闘可能な駆逐艦神風だけだった。大破していたとはいえ能登呂は水上機母艦で唯一生き残った艦となった。
戦後
戦争が終わるとシンガポールに進駐してきたイギリス軍が能登呂を接収。1947年1月12日にシンガポール沖で撃沈処分され、5月3日に除籍となった。26年以上を生きた老艦は静かにこの世を去っていった。
関連項目
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