能登呂単語

ノトロ
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能登呂(のとろ)とは、

  1. 北海道宗谷岬と相対する、樺太の南端にある西能登呂岬の事
  2. 大日本帝國海軍が運用した特設運送艦(のちに特設水上機母艦)

である。本項では2について記載する。

概要

能登呂は、八八艦隊計画の知床補給艦1番艦として建造が決定。1918年4月17日に能登呂と命名。191911月24日川崎神戸造船所で起工。1920年4月1日に類別等級を特別運送艦に制定。5月3日に進し、6月6日より神戸造船所内に事務所を設置し、8月1日に艦内に移設している。そして8月10日工を果たし、秋吉照一大佐が艦長に着任。呉鎮守府に編入された。8月13日で兵装の工事を実施し、9月20日に出港。工当初は輸送艦として任務に従事。8000トンの重油を運べるがあった。アメリカから重油を運搬する運用思想通り、サンフランシスコホノルルを往来して日本に重油を持ち帰った。しかし日露戦争勝利した日本を脅威と見なしたアメリカ政府が重油の補給を禁止。カナダマーチネツにあるシェル社貯油所を閉鎖してしまった。この暴挙によりアメリカへ行く事はくなり、代わりにオランダが支配する東南アジアタラカンへ重油を貰いに赴いた。

1924年、水上機母艦の若宮丸が老朽化してきたため急遽代用が必要になってきた。そこで能登呂に白羽の矢が立てられた。船体が大なのと、機関が船尾に集中していて改造しやすかった事が挙げられる。1924年10月5日に佐世保への回航命が下る。所属を佐世保鎮守府第2予備艦とし、10月16日に佐世保へ入港。水上機運用を獲得するための修工事が始まった。

運送艦の水上機母艦化は手探りの部分も多かったが、若宮で有用な部分を存分に盛り込んで良好な性を発揮。後発の神威装時には同様の要領で行われた。要排水量1万2786トン、全長138.88m、全幅17.68m、最大速12ノット、出5850水上機は4機搭載可。クレーンで水上機り上げ、面に降ろして発進させる形式だった。当時の装は大規模なものではなく、補給艦としてのも残されていた。先代の若宮丸より船体が大きかった事から、水上機母艦補給艦を兼業できる器用な艦であった。装も設備も若宮丸よりかに優れ、デリックも強化されていた。19252月22日了。連合艦隊第2航空戦隊へと編入され、若宮に次ぐ2番航空機運用を持った艦となった。能登呂の艦種変更により、2番艦の襟ネームシップとなった。ただ当時は水上機母艦の艦種がかったため、新聞では航空母艦と書かれている。艦載機に一四式三座水上偵察機4機を装備し、フロートに「ノトロ」と書かれた。

1927年6月8日消毒器室、兵員厠、兵員病室防熱装置、浴室兼厠、石油及び揮発油庫を新設。8月26日駆逐艦の捜索に向かう駆逐艦に艦載機2機と機材を貸与している。1928年12月4日横浜で行われた御大礼特別観艦式に参列し、第一番列外に連なった。

1931年9月5日午前5時11分、横浜港停泊中に軽質油の爆発事故が発生。乗員11名が死亡し、23名が重軽傷を負った。前部格納庫と搭載機が破損する被害も生じた。船体自体へのダメージは少なかったため、すぐに復帰。12月から生起した満州事変では、渤方面で陸軍を支援している。

第一次上海事変

1932年1月満州事変への反発で上海では反日感情が上昇。日本人僧侶が殺される事態にまで発展した。現地の邦人を保護するため、同21日に呉鎮守府特別陸戦隊を乗せた巡洋艦大井と第15駆逐艦、そして能登呂を派遣1月24日上海へ到着すると、外港のウースンへ移動。1月28日に陸戦隊中国第19路軍が本格的に交戦を開始、同日午前3時少将の命で、陸戦隊支援を実施。苦戦する陸戦隊の上を能登呂の艦載機が通過し、敵の上照明弾を投下。その大胆さに敵が呆れたというエピソードが残る。翌29日、国民党軍の基地を攻撃するよう命じられ、北の装甲列車に対して10回の攻撃を加えた。当時動ける空母加賀鳳翔しかなかったため、水上機母艦は大変重宝された。

12月24日巡洋艦出雲とともに西方面への進出が決定。順港に集結ののち、関東軍の海賊退治と呼応して第13及び第15駆逐隊とともに出撃。能登呂は山関から連山にかけて航空偵察を行い、陸軍との連携を強化した。

上海事変で能登呂が活躍し、水上機母艦の有用性が明された事から艦隊決戦用の水上機母艦められ、千歳瑞穂が誕生するきっかけとなった。

1933年9月18日順港で墜落事故が発生し搭乗員1名が死亡1934年6月1日、新たなに制定された水上機母艦組みに編入。これに伴って軍艦に昇格し、新たに官室と幕僚室が設けられている。1937年前半に近代修を受け、上部蓋を撤去。新たに8cmと毘式20mm機約20丁、留式7.7mm機数丁を装備。搭載機は新機に刷新され、九四式偵4機と九五式偵4機を搭載。缶もロ号艦本式混焼缶4基にめられた。

1936年10月29日神戸で行われた特別大演習観艦式に参加し、西第二列に連なった。

支那事変と開戦まで

1937年8月、第二次上海事変がきっかけで支那事変が勃発。能登呂は更なる装を受け、搭載機を倍の8機に増加させた。航空機輸送艦給油艦として支那方面で活動した。10月12日に内地を出発し、南支牛角山沖に到着。10月20日、第3艦隊(支那派遣艦隊)に編入され、12月1日には相方衣笠丸と第四航空戦隊を編成した。

1938年に入ると、衣笠丸とともに北支方面の上封鎖、鉄道攻撃、陸戦隊上陸に従事。2月24日ナンシェンで九五式偵5機を発進し都市攻撃に向かわせたが、中国28飛行中隊と第29は飛行中隊の迎撃を受け、1機を喪失。3月14日に中支方面での作戦に転用され、口、アモイ、九江の攻略支援を担った。10月21日、同じく水上機母艦神威丸、香久丸とともに南支方面で広東省の敵補給路を攻撃。水上機列車や船舶を破壊し、絶大なる戦果を収めた。特に南寧攻略戦では丸と次元タッグを組み、水上機部隊が猛威を振るって第19路軍を震え上がらせた。1939年11月10日、南寧攻略部隊を支援すべく上海方面から増援として駆けつけた。巡洋艦足柄とともに水上機丸の揮下に入れ、25機の水上機が整列した。これを見た連絡の陸軍参謀が「これで成功疑いなし。各部隊は水上機隊の協を持ち焦がれております」と助を乞うた。

支那事変を最後に一線を退き、1939年修で給油を強化。聖川丸と組んで、鹿児島県淡路島水上機の訓練を行った。1940年11月15日には支那派遣艦隊から連合艦隊に転属し、支那戦線から引き揚げる事になったが、南寧の攻略が終わるまでは現地に留まった。翌16日の戦闘では、水上機による機掃射で友軍部隊を援護。約3時間の戦を経て、推嶺の峰を占領した。

1941年7月から9月にかけて搭載機を全て降ろし、航空機運送艦富士丸に供出した。以降は輸送艦となる。佐世保港内では戦闘準備として可燃物が陸揚げされた。12月2日、旗艦長門より送信された「ニイタカヤマノボレ」の暗号文を受信。12月5日和歌山県港で重油を満載し、印カムラン湾へと向かった。

大東亜戦争

1941~1942年

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。能登呂は開戦をカムラン湾で迎えた。そして能登呂は南方作戦に投入された最古の水上機母艦で、全体を通して水上機と重油の輸送に励んだ。12月15日15時54分、潜水艦ソードフィッシュ撃を受けて大破した陸軍徴用船香椎丸を航。艇鴻(おおとり)が護衛についた。21時1分、三亜まで連れ帰って投錨。

1942年1月2日、佐世保に帰投。同7日に出港し、占領した香港への輸送任務に当たり、2月1日帰投。次はダバオへの輸送任務に従事し、2月16日水上機を運搬して佐世保を出港。23日にダバオへ到着、次はバンジェルマシンす。3月1日午前9時18分、敷設船に炭を補給し、万葉丸に便乗者を移送した。翌2日バンジェルマシン入港。マカサルタラカンに寄港しつつ、3月21日に佐世保へ帰着。4月11日に佐世保を出港し、シンガポールす。13日20時45分、跡を認めるが命中せず。4月22日シンガポールへ到着。アンダマン諸への水上機輸送任務を行い、5月18日に佐世保帰港。次はトラックラバウルサイパンに輸送を実施した。7月10日から9月9日にかけて舞軍港と新潟港を往来して重油を運搬。

12月1日を出港し、スラバヤに進出。

1943~1945年

19431月8日にバリクパパンを出港。しかし翌9日16時頃、マカサル峡北口で潜水艦ガーの撃を受けて2本の魚雷が命中。小破航行不能に。2日後に山丸が救援に現れ、バリクパパンまで航。緊急修理を受けたのち春日丸に航され、特設砲艦長沙丸に護衛されながら1月31日15時40分にシンガポール入港。セレターの第101工作部から修理を受けたが、部品の不足により遅延発生。5月頃にドックへ入り、7月下旬に出渠。8月24日修理了。

8月25日に出港し、バリクパパンで重油を積載。第2607船団に参加し、9月4日午前8時25分に出港。駆逐艦朝風と特設砲艦万葉丸に護衛され、他タンカーとともにパラオへ向かった。9月10日16時20分にパラオへ入港。第8161船団の一員として同16日午前6時に出発し、今度はトラック基地をした。ところが9月20日23時カロリン付近で潜ハドックから撃を受ける。魚雷6本のうち1本が直撃し、中破。翌21日にトラックへ逃げ込み、応急修理を行った。

1944年2月13日トラックを出発。27日に横須賀へ入港し、3月10日に因日立造船所に入渠。5月18日に出渠し、20日に出港。佐世保へ回航された。6月2日、第25魚雷艇隊の魚雷艇を搭載して万里へ回航。ミ05船団に参加し、6月8日に基へ入港。翌9日に出港、艇の前路と対潜警を受けながらマニラに向かった。しかし中の6月13日15時51分、まりふ丸が潜フリアーから撃を受ける。第38号艇と第17号掃海艇が爆を投下し、16時と第38号艇がまりふ丸護衛のため船団から離脱。苦難のすえ、翌14日午後にマニラに入港した。4日後にマニラを出発し、的地のミリへと向かった。今回は何事もなく6月23日午後12時57分にミリ到着。今度はミリから出発するミシ03船団に参加し、シンガポールへ向かった。

その中の6月29日午前2時25分、シンガボールの南東フラッシャーが能登呂と貨物船日本丸に向けて撃。それぞれ2、3本が直撃し日本丸は沈没。能登呂は中破航行不能に陥った。航され、翌3016時30分にシンガポールに入港した。さっそく入渠修理が始められたが、工員が現地で雇用された中国人だったため作業は非常にゆっくりしたものだった。11月5日インドから飛来したB-29爆撃を受けて大破着底。浮きドックも3ヶ使用不能になった。もはや修理途が立たなくなり、以降は浮き重油タンクとして使用される羽になる。

1945年3月1日に第4予備艦となる。その後はずっとシンガポールに留め置かれ、8月15日終戦を迎える。大破していたとはいえ、能登呂は水上機母艦で生き残った艦となった。戦後は進駐してきたイギリス軍に接収され、1947年1月12日シンガポールで撃沈処分。5月3日除籍。

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