脇坂安治単語

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脇坂安治(わきさか やすはる、1554~1626)とは、日本戦国時代後期~江戸時代前期に活躍した戦国武将である。豊臣秀吉徳川家康に仕え、としてのの始祖。

概要

文23年(1554年)に近江北部の土着武士長男として生を受けた。当初は近江北部を収めていた浅井久政浅井長政子に仕えたが、正元年(1573年)の小谷の戦いでの滅亡を経験する。

浅井氏滅亡後は織田に出仕し、中でも高い地位にいた明智光秀の配下となり丹波定戦に参加した。ここでの一連の戦いで奮戦した他、病床の赤井直正の下へ降勧告に訪れ、その際の堂々とした態度を直正に気に入られヒョウの皮で作ったを贈られたという(本当にあったのかは不明)。

その後は旧浅井領を領地としていた羽柴秀吉の配下となり、秀吉別所氏攻めや中国定戦・中国大返しからの山崎の戦に従軍。秀吉柴田勝家との決戦である賤ヶ岳の戦いでは大いに活躍し、秀吉から賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ称賛され3000石という大幅加増を受けた。なお、同じ七本の一人である福島正則は安治と一緒に数えられる事を嫌い、加藤清正も七本話題を出される事を嫌がっていた(清正・正則の二人は秀吉戚筋であり、安治らとは別格の存在だった。故に一緒に扱うのは馬鹿にしているのも同じであった)。小牧・長久手の戦いでも武功を上げ、その手柄によって正13年(1585年)に万石以上の石高を得て大名となった。同年10月には加増され淡路3万石の大名となった。

秀吉天下統一事業に貢献し数々の戦に従軍した安治は、今度は異の地朝鮮で戦う事になる。文の役・慶長の役共に淡路軍を率いて奮戦。李舜臣など朝鮮軍側の指揮官と幾度となく戦っている。手柄をあせって臣の戦術に引っ掛かり大敗した事もあるものの、朝鮮上を封鎖し地上で戦うを援護した。

秀吉が死去し内部対立が深刻になる中、安治は実者である徳川家康に接近する。石田三成が反徳を掲げ挙兵した際には大阪に滞在しており、1000程度の寡兵で反発する訳にもいかずそのまま西軍側に付いた。しかしい段階で三成を見限っており、家康に対して協する旨を初めから伝えていた。また、朽木元網を味方に引き寄せ寝返り組にする事に成功している。

慶長五年(1600年)9月15日関ヶ原の戦いでは大谷吉継によって小早川秀秋軍の備えとして配備された。秀は東軍との内通を噂されており、もし寝返った際の防御としての機を期待されていた。しかし、安治は虎視々と寝返りの時期を見計らっていた。小早川軍が裏切り大谷隊に襲い掛かったと同時に坂・朽木両軍も寝返り、これにビビった赤座直保小川祐忠両軍も勢いに任せて裏切る。5部隊もの大軍による一斉攻撃を受け大谷隊は壊滅し吉継は自害。そのまま西軍は崩壊し下分けの戦いは家康ら東軍の勝利に終わった。

戦後事後処理において、安治は当初から家康と通じ味方である事を宣言していたため、寝返りではなく東軍扱いとされ御咎めなしとされた。さらに慶長14年(1609年)には石高を加増され、伊予大洲城5万3500石へ移動となった(朽木元網は内通が遅かったため領地半減、事前に内通せず付和雷同する形で寝返った赤座直保小川祐忠両名は易という憂きに合っている)。

大坂の陣では旧豊臣への義理か、子の坂安元を従軍されたのみで自らは動かなかった。
督を譲った後は京都で余生を過ごし、寛永3年(1626年)8月6日京都で病享年73歳。賤ヶ岳七本槍メンバーでは最も長命を保ち、寿を全うした。

同じ賤ヶ岳七本槍である加藤清正福島正則加藤嘉明べるとエピソード・石高・扱い共に大きな差があり、地味な感じが否めない上に、関ヶ原の戦いで寝返ったマイナスイメージられることも少なくない。しかし、手さこそいものの地に手柄を立て続け、堅実にに貢献しているのは間違いないだろう。
また、正則は後に易、清正と嘉明は子の代になって前者が易・後者が大幅な減封と落したのに対して、安治は巧みに時流を読んで世渡りを行い、地味ながらも堅実に戦国の世を生き抜いた。

後を継いだ坂安元は内政に長けた優秀な跡取りであり、江戸時代初期の豊臣恩顧大名の易ラッシュからも逃れたは、この後堀田から養子を貰い受けて譜代大名に昇格。の廊下で取りつぶしとなった明け渡しを勤め上げた坂安照や、大奥スキャンダル事件を取り締まった坂安董ら名君を輩出したは、大名という大身のまま名を明治維新まで残し、現在系は存続している。

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脇坂安治

18 ななしのよっしん
2020/02/21(金) 16:22:00 ID: PKC7vzFEgJ
安治が李舜臣に負けた後秀吉は「大が焼かれたことは仕方がない。それにしても安治が事でよかった」と言ったそうな
安治が味方の軍の整備が終わるのを待たず抜け駆けして負けた面もあるというのに、秀吉どんだけ安治が好きだったんだ
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19 ななしのよっしん
2021/01/11(月) 18:41:21 ID: Fyw8rJsU+V
 >>18
 清正・正則等とは対照的に秀吉と同様、戚筋とかは関係ヒラから成り上がったからシンシーを感じて居て、其れが脇坂安治贔屓に繋がったのかも…、とか吐かしてみるテスト

 マァ文の役の初戦ではコケたが其後は朝鮮・明軍と互以上に渡り合えたからセーフ…かな?
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20 ななしのよっしん
2021/07/04(日) 23:56:05 ID: rw+OanJ017
存続してる言うけど
ここ実質堀田でしょ?
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21 ななしのよっしん
2022/02/06(日) 11:49:19 ID: f53T5LWn/G
誕生日プレゼント買ってもらうためにはるやいったら脇坂安治役の本があってわろた。しかも著者が大島光義役とした【93歳の関ヶ原】を書いた近衛龍治でくっそ一人で盛り上がった。もちろん即買いした。
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22 ななしのよっしん
2022/02/06(日) 11:51:01 ID: f53T5LWn/G
著者の文字間違えた近衛
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23 ななしのよっしん
2023/05/08(月) 12:33:46 ID: 7WVpgGII41
>>20
は3代から堀田、最後のである10代の血筋になってるね
その代わり、安治の六男が旗本家として安治の血を現代まで残してるみたいだよ
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24 ななしのよっしん
2023/10/11(水) 09:43:55 ID: UgiGwGboDV
個人的に息子共々信長の野望とかでもうちょっと上げてほしいかも……。加藤嘉明とは別の意味で堅実に立ち回ってて幕末まで勝ち組であり続けてたのもあるので……
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25 ななしのよっしん
2023/12/06(水) 23:57:25 ID: FSyNBR9bkG
NHK歴史探偵で関ケ原の話をやっていたが
西軍が負けたのは脇坂安治の裏切りが大きいと解説していた

しかし本来なら東軍に入る予定だった脇坂安治を重要な地点に配置するなよ…と思うんだが
西軍側はもその事に気づかなかったんだろうか?
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26 ななしのよっしん
2024/02/10(土) 08:29:46 ID: mVHK01/21G
「別にのいうこと無視してもいいけど、お前のことこっちに寝返りますってもう内府殿には言ってるから。お前のついた方が勝つといいね!
って藤堂高虎手紙で言われてるけどこういうの痛いこと言ってくれる人がいるって意味では仲良しで微笑ましいし人望も伺える
勝つにせよ,負けるにせよ判断がいから大勝ちはしてもボロ負けはしない(負ける時はサクッと負ける)という特性を買われて、秀吉直々に加増+軍を任されたんかな
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27 ななしのよっしん
2024/02/15(木) 16:33:16 ID: m81o9cUeBU
戦国におけるコミュ強大名だよな
藤堂高虎京都山岡兄弟という人脈マンたちとも仲良し
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