自己言及のパラドックスとは、自身を含めて言及しようとして起こるパラドックスのことである。
概要
パラドックスとは、簡単にいえば「当然の論理からありえない結論を導く」という状態のこと、またはここでいう「論理から結論を導く(間違った)プロセス」のことで、事実と事実から仮想を事実にしようとする野心的な試みである。
自己言及のパラドックスとは、「A → A」という形式の単純な論理が実は間違っているというパラドックスである。
とくにAしか肯定できない状況において「Aは偽である」と明言することで発生する。
「この文(の真偽)は偽物である。」という文章はそれを分かりやすくした例である。
もし「この文は偽物である。」が真である場合、文そのものが肯定されて偽となり、真ではなくなる。
もし「この文は偽物である。」が偽である場合、文そのものが否定されて真となり、偽ではなくなる。
結果、どちらを選んでもパラドックスが発生する。
これは「」内の文章(自己)に言及して否定しているために発生している。
身近な所を挙げれば、「『張り紙禁止』と書かれた張り紙」・「『静かにしろ!』という怒鳴り声」・「『例外のない規則はない』という規則」・「『その質問には回答しない』という回答」・「『ありえないなんて事はありえない』という台詞」等々、自己言及のパラドックスは世の中にありふれている。
自己言及のパラドックスは原理上「無限ループ」そのものであり、従ってプログラマーなどの情報処理技術者はこれの回避方法を習得するのが必須となっている。
例を用いた考察(嘘つきのパラドックス)
このパラドックスは聖書に書かれている「クレタ人のパラドックス(エピメニデスのパラドックス)」として古くから知られている。
この発言を肯定すると、エピメニデスを含めたクレタ人は「うそつき」ということになり、彼の発言も嘘になってしまう。しかし発言が嘘であればクレタ人は嘘をついていないことになり、従ってクレタ人である彼の発言は嘘ではなくなり肯定されてしまう。
かくして自身を含めて言及したためにパラドックスが発生し、肯定と否定の無限ループが起こる。
ニコニコ動画風に言えば「「コメントフォームが表示されない」と動画内でコメントする」に例えられる。
ただしこれは仮定ではなく「コメントできた」という事実があるので、パラドックスというよりも怪奇現象か単なる嘘かもしれない。
さらなる考察
クレタ人のパラドックスを分析すると、大きく分けて4つの意味があると思われるので、これを分けて考えてみたい。
背理法で証明すると、①の否定は「全てクレタ人は常に嘘をつく。」訳ではない、つまりあるクレタ人は本当の事を言う事がある。これ自体は納得出来る所でしょ う。また同じく②の否定、全てのクレタ人は嘘をつく事がある。これ自体も論理的にはパラドクスとも呼べないもので、ある時点・定義さえ定めれば「全てのクレタ人」が嘘をつくか否かは判別可能である。③も同様、あるクレタ人が常に本当の事を言うというのを遡るにしろ今後確かめるかすれば良いし(ひとつでも立証出来れば十分)、④も③と同様である。本来パラドクスとも呼べない物(嘘をつくか否かは偶然の物でこの文自体は何ら自己言及らしき物が無い為)がパラドクスの代表格に押し上げられたのは、隠された前提がある為と思われる。
では次の例はどうだろうか。
もちろんこのページに書かれたことが全て嘘なら「このページに書かれていることはすべて嘘」という文が嘘であるということになり、パラドックスが生じる。しかし、少しでも正しいことがあれば「すべて嘘」は嘘になる(真実ではない)が、パラドックスは生じない。
では自己言及文をもっと範囲を狭めてみよう。
この文を真と仮定すると明らかに矛盾するので、少なくとも真ではない。一方偽だと仮定すると「私のこの発言は嘘である。」真実通りの事を述べている事になる、よって少なくとも偽ではない。結論は真でもなく偽でもない。解説によってはこれで「パラドックス」とするのもあるが、真偽の定まらない文だからといって端的に「パラドックス」とは言えない。というのも多少抜け穴的だが真偽の定まる文、平叙文というのだが、それについて真か偽か言うのが通常であって真偽の定まらない文、つまり命令文(~してくれ)や感嘆文(ああ、なんて○○なんだ!)、意味不明な文(天国は車に比べて凶暴)という部類のその他の文の範疇に収めれば解決するからである。
そろそろ冗長になってきたので、一応のパラドックスはというと
私のこの発言は本当ではない。
これは真と仮定すると「本当ではない」というのが真なので真ではなくなる、また偽だと仮定すると「本当ではない」という本当の事を言っているので偽でもない。つまり「真でも偽でもない」という事になる、と仮定出来る。が初めに「本当ではない」と言っているのでこの仮定も成り立たない。(この文が嘘というだけではなくその中間の状態ですらないという事なので)つまり正真正銘のパラドックスといえる。だがこれが実際問題になるかというと矛盾した文自体は「明日北緯135°東経35°地点に雨が降るか降らない」というように不思議な感じには受け止められず単なる矛盾した文という位置づけと一緒である。どのような文もそれが平叙文ならば言外には「この文は真である。」という一句を含んでいるので「私のこの発言は本当でありかつ本当ではない。」と言った文であるのが最後の例文の簡単な説明である。
その他の自己言及のパラドックス
嘘つきのパラドックスは自己言及のパラドックスの一種ではあるが比較的簡単に理解出来る物の一つである。以下別の形をした物をいくつか例示する。(中にははっきりとパラドックスと言えない物もある)
- グレリングのパラドックス(「短い」という語はそれ自体短い、「長い」という語はそれ自体は短い。前者は自叙的、後者は非自叙的と言える。では「非自叙的」という形容詞は自叙的か、非自叙的か)
- ベリーのパラドックス(「三十字以内の日本語では記述出来ない最小の自然数」は何だろうか、いかなる自然数だったとしても「三十字以内の日本語では記述出来ない最小の自然数」で記述出来てしまうのだが)
- ラッセルのパラドックス
- 床屋のパラドックス
- 必ず正解の出る質問(「あなたはこの質問にイエスと答えますか?」)
関連項目
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