船中八策とは慶応3年6月15日(グレゴリオ暦1867年7月16日)、土佐脱藩浪士の坂本龍馬が土佐藩参政の後藤象二郎に対して提議したとされる八ヶ条の政策論である。
概要
通説
慶応3年6月15日、坂本龍馬は後藤象二郎と共に土佐藩の蒸気船夕顔丸(水蓮)に乗り、京都に向かっていた。その船上で坂本は後藤に対し、土佐藩そして我が国の掲げるべき政策として以下の八ヶ条を提議し、海援隊の同志である長岡謙吉に起草せしめたとされる。
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨て他に済時の急務あるなし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並行するも、亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。
要旨は大政奉還、上下院の議会設立、官制改革、条約改正、憲法制定、陸海軍の創設、通貨政策で、その後の我が国の様々な制度改革を先取りする内容であった。後藤はこれに賛同し、京都に着くと在京中の寺村左膳、福岡孝弟、真辺栄三郎ら土佐藩重役を相手に説明し、全員から賛同を得た。この方針をもって後藤は7月上旬高知に戻り、山内容堂に大政奉還の建白を説いた。容堂の認可を受けた後藤は10月3日幕府に大政奉還の建白書を提出し、徳川慶喜がこれを受け入れ、同月14日に政権を朝廷に返上した。
坂本はこの船中八策を考案するにあたり、かつて交流した幕臣の大久保一翁が主張した政権返上論や、儒学者の横井小楠が越前藩(福井藩)に提出した『国是十二条』などの影響を受けたのではないかと言われている。
疑問点
この『船中八策』と呼ばれる提議については近年様々な疑問の声が上がっている。以下に要約する。
船中なのか?
坂本がこの『船中八策』を示したのは6月15日の船上だったという説が一般的に流布されている通説だが、坂本と後藤の乗った夕顔丸が長崎を発ったのは6月9日であり、大坂に到着したのは3日後の12日である。15日には両者ともに京都に滞在中であるため、15日に船上であった出来事としては有り得ない事になる。[1]
八策なのか?
現在『船中八策』と呼ばれている提議は明治時代に書かれた坂本の伝記では八ヶ条ではなく十一ヶ条であるとするものがある。弘松宣枝という人物が明治29年(1896年)に出版した『阪本龍馬』という伝記がそれで、この中で弘松は「彼が(中略)長岡謙吉をして建議案十一箇条を草せしめた」と書いている。9、10、11条については不詳としており、残ったのが八ヶ条になるわけだが、『船中八策』という名称については特に何も触れられていない。なお、弘松は坂本の甥に当たる高松太郎の甥である。[2]
そもそも実在したのか?
長岡謙吉が坂本の意を受けて起草したとされる八ヶ条の文章には原本が現存していない。また、この『船中八策』は明治時代には上記のように別名義で呼ばれていた事もあり、その実在性や起源については謎が多い。高知県の歴史家・松岡司によると、現在確認できる『八策』と記された最も古い記述は明治31年(1898年)初稿と見られる『坂本龍馬伝』(瑞山会・編)だが、ここにも『船中』とは書かれていない。[3]
大正期の龍馬本の著者として知られる千頭清臣の、大正3年(1914年)に出版された『坂本龍馬』では『龍馬の八策』と書いており、しかもその内容は現在では大政奉還後の11月に坂本自ら起草したとされる『新政府綱領八策』の事とし、坂本が長岡謙吉に起草させ、更にそれを後藤が修正を加えたものがこれ(船中八策)であると主張しており、新政府綱領八策と船中八策の成立時期が逆転している。[4]
大正15年(1926年)出版の『坂本龍馬関係文書』を編纂した岩崎英重(鏡川)も、現在『船中八策』と呼ばれる提議を『新政府綱領八策』と名付けた上で「此の綱領を俗に船中八策と云ふ」とした。従来『船中八策』の名称が確認できる最古のものはこれではないかと思われたが、知野文哉によれば更に遡り、大正5年(1916年)11月15日に開催された「坂本中岡両先生五十年祭記念講演会」での講演においてである。[5]
『新政府綱領八策』という呼称に関しては昭和期の歴史家・平尾道雄が昭和4年(1929年)に刊行した『坂本龍馬 海援隊始末』の中で6月提議を『船中八策』として以降、後発の関連書籍等で各々の呼称が踏襲されるようになった。[6]この『船中八策』と『新政府綱領八策』にまつわる千頭清臣や岩崎英重の扱い方が後世の歴史研究に紛らわしさを残したきらいがあるため、松岡司は6月提議を『八策一次』、11月提議を『八策二次』と呼んでいる。また、歴史学者の松浦玲は6月提議を『八策』、11月提議を『八義』と呼んでいる。なお、『新政府綱領八策』については坂本自筆とされる原本が二通現存している。
大正5年以前に『船中八策』という呼称が使われていたのか、使われていたとしてそれはいつからだったのか、そもそもこの八策は明治中期以前に遡る史料が存在するのかどうかについては研究者の今後の課題であるが、坂本が後藤に政策提言をしていた傍証として、長岡謙吉が慶応3年10月に親戚宛てに送った手紙の中で「建白二書を草案」とある事が挙げられる。仮に『船中八策』が実在しなかったとしても、坂本が後藤に対して『八策』に類する何らかの示唆を与え、それが後世『船中八策』の逸話の原型になった可能性もあるのではないだろうか。
船中八策(酒)
上記にあやかった酒が高知県の酒造メーカー・司牡丹酒造にて製造・販売されている。「香り高く、口中で旨みが膨らみサラリと切れる、キレ味抜群の超辛口純米酒。」との事。
関連商品
関連項目
脚注
- *別冊歴史読本『坂本龍馬伝』P103
- *別冊歴史読本『坂本龍馬伝』P104
- *松岡司『異聞・珍聞龍馬伝』P191
- *新・歴史群像シリーズ『維新創世坂本龍馬』P102-104
- *知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』P78
- *知野文哉『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎紫瀾』P85
- 0
- 0pt
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E8%88%B9%E4%B8%AD%E5%85%AB%E7%AD%96