芥川也寸志(1925~1989)とは、日本の現代音楽に属する作曲家である。
概要
芥川龍之介の三男として生まれる。兄には俳優の芥川比呂志がいる。
2歳のころに自殺した父親の遺品であるストラヴィンスキーのレコードを聴いて育ち、作曲家を目指したという。1943年に東京音楽学校(現、東京芸術大学)本科作曲部に入学。翌年の1944年学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊するが、敗戦とともに復学し。橋本国彦、伊福部昭に師事する。そして1949年に卒業する。
1950年の『交響管弦楽のための音楽』が、NHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特賞入賞したことによって一躍脚光を浴びる。1953年には、『弦楽のためのトリプティーク』がカーネギー・ホールで初演され、ワルシャワ音楽賞を受賞した。この頃、 團伊玖磨、黛敏郎と「3人の会」を結成する。
1958年『エローラ交響曲』、1960年オペラ『広島のオルフェ』(1967年『暗い鏡』と改題)、1969年『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』、1986年『響』といった具合に、主に管弦楽の分野で戦後日本の音楽界をけん引した。
一方、音楽はみんなのもの」という考えから、1956年にアマチュアオーケストラ「新交響楽団」を創設し、30年にわたり指揮者として活動を支援した。また1977年以降は、NHK『音楽の広場』や『N響アワー』など音楽番組の司会者を務め、音楽の普及にも従事した。さらに1981年には、日本音楽著作権協会の会長に就任し、著作権擁護運動に打ち込んでいく。「反核・日本の音楽家たち」運動でも有名だろう。
初期の作風は師である橋本国彦の表現と、伊福部昭のリズム法を併せ持ったものであった。やがて前衛的な作風へと移っていくが、後期には前衛的表現は保ちつつも、初期の活力的なオスティナートを取り戻していった。
1989年に、63歳で死去する。翌年、その功績を称え「芥川作曲賞」 が創設された。
関連動画
関連商品
関連項目
- 2
- 0pt