概要
なんかよくわからんけど部下に騙されて天皇辞めた人、なんかよくわからんけど部下に矢射かけられた人、などの古文で習ったエピソードで、平安時代の天皇の中ではかなりの知名度を誇る存在。
ただし、実際に調べると実話と言えないものも多い。ぶっちゃけ、花山天皇の属す冷泉皇統ではなく、円融皇統とそれを盛り立てた藤原道長一門、という「神話」を作るため、固有の「キャラクター」を与えられたとも言われている。
なお、そもそもソース確かめもしない上に臨床心理学の知識もないくせに、なんちゃって精神分析でレッテル貼ってるだけだよね?みたいな議論もあるので、その辺は特に触れずにおいておく。
誕生から即位まで
冷泉天皇と藤原伊尹の娘・藤原懐子の間の第一皇子として、安和元年(968年)に誕生した。本名は師貞。父親である冷泉天皇が弟・円融天皇に皇統を譲り、この師貞がその皇太子になったまではよかったのだが、以後彼の不幸が始まる。
まず、5歳の時に、外戚だった藤原伊尹があっけなく亡くなる。おまけに母親・藤原懐子や、藤原伊尹の息子のうち年長だった藤原挙賢、藤原義孝もこのあと数年のうちに一気に失った(藤原挙賢・藤原義孝に至っては忌日は同日)。
九条流となる藤原師輔の息子の中では長兄だった藤原伊尹は、当然嫡子である。つまり、生きていれば王家の嫡男と藤原氏の嫡男の盤石な体制になったはずだった。しかし、これらの死没により、一気にこの師貞は、九条流藤原氏にとっては縁もゆかりもない人になってしまったのである。
しかし、後継者ではあったので、なんやかんやで即位した。なお、『小右記』としては即位式で玉冠が重すぎて脱ぎ掛けた話が事実としてあった。だが、12世紀に成立した『江談抄』や13世紀の『古事談』では、即位式の間に女を犯していた謎のエピソードが生やされていたりする。ただし、これは既に一条天皇子孫の天皇家と藤原道長子孫の摂関家の覇権が確立して100年以上経ったころのものであり、既にそういうことになっている時期に成立したお話であることに注意は必要である。
とはいえ、この花山天皇即位後は、既に後継者も円融天皇の息子、つまりいとこの懐仁(一条天皇)となっており、既に自分から皇統がいったん離れるのは既定路線となっていた。
当然といえば当然なのだが、ぶっちゃけこの花山天皇には、藤原伊尹の四男で28歳の藤原義懐くらいしか支援者がいなかったのである。なお、やや遅れて成立した歴史物語の『栄花物語』や『大鏡』では、この藤原義懐に加え、魚名流藤原氏という摂関家にとってはかなり遠縁の藤原惟成の2名が、唯一の花山天皇派だったとされる。
しかし、藤原義懐は、花山天皇の即位によってようやく公卿の末席についたペーペーの若手であり、国政を差配する「陣定」に加われたのも1年くらい経ってからである。藤原惟成に至っては、五位蔵人、つまり公家ではなく諸大夫層であり、彼らが政権を担えたとは思われない。
花山天皇の結婚関係
その花山朝で本当に公家のトップにいたのは、ここまで出てきた九条流ではなく、小野宮流の藤原頼忠である。小野宮流とは、本来九条流より兄の家系だったのだが、外戚になるのに失敗し、権勢が衰えていたところ、九条流の後継者争いで摂関の座を急にぶん投げられたという、あの一門である。
当然、藤原頼忠は前代の円融天皇とも、今代の花山天皇とも縁もゆかりもなかった。ただし、円融天皇に比べると花山天皇とはしっくりいかなかったことが、『公卿補任』からすら読み取れるレベルである。この2人がしっくりいかなかったのは、実際のところどちらに要因があるか議論はある。
とはいえ、少なくとも花山天皇が提携相手として選んだのは、この藤原頼忠ではなかった。それこそ、九条流の庶家であった法性寺流の大納言・藤原為光であった。
この藤原為光は藤原師輔の九男であり、醍醐天皇の娘・雅子内親王を母親とする、かなりの庶子である。また、この藤原為光の妻である、藤原伊尹の娘もポイントとなる。彼女の母親は、『尊卑分脈』に記載はないのだが、藤原伊尹からスムーズに一条第を継承していることから、藤原懐子・藤原義懐と同じ醍醐天皇孫の恵子女王と推定されている。
加えて、花山天皇を支える藤原義懐の正室は、この藤原為光の娘となった。つまり、孤立気味の花山天皇・藤原義懐陣営と、兄たちのように摂関になれるわけでもないがチャンスさえあれば期待できそうな藤原為光陣営の、双方のメリットから姻族化して提携したと思われる。
かくして、花山天皇は、この藤原為光の娘・藤原忯子と結ばれた。この理由も『栄花物語』だと藤原忯子の顔だが、上記経緯からかなり政治的な判断だったとも想定できる。とはいえ、さらに相次いで堀河流の藤原朝光の娘・藤原姚子、小野宮流の藤原頼忠の娘・藤原諟子が入内した。
しかし、最初に入内したのは当然、関白の藤原頼忠の娘ではなく、藤原忯子であった。しかも、彼女を清涼殿に最も近い弘徽殿に入れた。おまけに花山天皇は藤原頼忠の娘に対しては、他よりもそこまで配慮を見せなかった。こうしたところからも、花山天皇に現職関白との関係をアピールする政治的なパフォーマンスをする意思がなかったとみなされ、両者の関係が疎遠になったと思われる。
ただ、この摂関家の中では主流派を選ばなかったことが尾を引いた。確かに当時の代表的な史料である『小右記』は、関白藤原頼忠の甥・藤原実資の日記のため身内びいきは差し引く必要はある。とはいえ、この『小右記』において、花山天皇との連携をアピールしようと藤原為光や藤原朝光が必死だった様子が皮肉られている。
ところが、藤原忯子は身ごもったままあっけなく死ぬ。その1か月前には藤原為光の妻も亡くなり、後々のことを考えると、このタイミングで藤原為光は花山朝で活躍をあきらめ、藤原兼家陣営についたと思われる。
寛和の変での退位
こうして、花山天皇には、支援者は再度藤原義懐くらいしかいなくなった。ただし、藤原忯子の死後村上源氏から婉子女王を新たに迎え、特に藤原忯子の死に落ち込むことはなく、1年近くが過ぎた。しかし、30にも満たない若造である藤原義懐には、他の公卿に当然リーダーシップを発揮できるはずもなく、じりじりと空回りする日々が続いた。
そこに持ち掛けられたのが、『大鏡』や『栄花物語』で描かれる、寛和2年(986年)6月の、藤原兼家の息子・藤原道兼にだまし討ちに近い形で出家させられた、「寛和の変」である。他に史料がないので引用するが、藤原忯子の悲しみから厭世観にさいなまれていた花山天皇に、藤原道兼が一緒に出家しようと持ち掛ける。こうして花山天皇はこっそり宮中から誘い出されて出家させられたのだが、誘った肝心の藤原道兼は特に何もしなかった。こうして花山天皇の廃位だけが決まり、仕方なく花山一派である藤原義懐、藤原惟成も出家したという話である。
ここまでの物語が事実かどうかは別として、事実として、花山天皇・藤原義懐・藤原惟成は出家という形で政権から退場させられた。
これを転機として、確かに一条天皇と藤原兼家一門の権勢という形でその後の歴史が進む。しかし、おそらく当時の藤原兼家の関心としてはむしろ、冷泉天皇と自分の娘・藤原超子の間に生まれた居貞親王(三条天皇)の確保もあったと思われる。つまり、既に唯一の皇子が皇太子として天皇になることが決まっている円融皇統だけでなく、念のために冷泉皇統も自分の外孫が継承できるようにし、当時まだ息子もいなかった花山天皇は脱落という形で決着させたかった、と考えられる。
なお、じゃあ花山天皇は、何でこれに乗ったかは本当に不明。『日本紀略』や『百錬抄』に上記3人が延暦寺で受戒した話は残るので、『大鏡』や『栄花物語』と違って、すぐにちゃんと出家したのだろう。実際『大鏡』や『栄花物語』で描かれたように、あまりに素早い藤原兼家陣営の謀略で出家する気もなかったのにだまし討ちされた可能性も十分想定できる。が、何もないのでここに関しては憶測でしかものが言えない。
退位後の花山天皇
退位後は一条天皇の政権に全く発言権はなく、完全に暇を持て余して子作りや仏道修行、文化的な公家との交流くらいしかやっていない。なお、性空像を描かせた話や、熊野詣をした話は、史実性はかなり怪しく、『小右記』に花山法皇が前々から熊野行きたかったから馬貸せと藤原実資に言い、すぐ一条天皇たちにばれてやめさせられた話くらいしかない。
その花山天皇が久々に大きな事件を呼んだのが、藤原道長の兄の家系で本来嫡流とも言えた中関白家の没落につながる、「長徳の変」である。
『小右記』の逸文である『野略抄』によると、既に亡くなった藤原為光の家で、花山法皇と藤原道長の甥である藤原伊周・藤原隆家兄弟が乱闘になり、花山法皇の童子2人が殺害された、までは確実な事実である。ただし、痴情のもつれというのは、『栄花物語』などに描かれる創作であり、これまたどこまで事実かはわからない。
ただし、この結果、一条天皇の政権で中関白家が完全に閉塞し、藤原道長の覇権が確立する。とはいえ、実はこの件に正直花山天皇はほぼ関係なく、ぶっちゃけ只の巻き添えである。
また、長徳3年(997年)に、『小右記』によると、花山法皇の院司が、一条天皇の政権の代表的な人物である藤原公任・藤原斉信の車に乱暴する事件が、実際に起きた。この事件は、実際は翌日に藤原道長が追補を行い、翌々日には花山法皇も犯人を差し出して一件落着した。のだが、『大鏡』ではかつての花山天皇の乱暴ぶりという、事実かどうか不明な事件に対する源俊賢のコメントを伏線として、やっぱり花山はダメだなという作者の感想が急に出てくる。
つまり、『栄花物語』や『大鏡』は、例えば藤原兼家の兄弟3人に肝試しをさせるといった創作エピソードと、実際にあった事件を織り交ぜて、物語に仕立て上げているので注意が必要というわけである。
というわけで、和歌を読んだり京都で仏道修行に励んだり、廃位前は一人もいなかった皇子を作ったりいろいろしていたのだが、寛弘5年(1008年)に亡くなった。花山天皇が亡くなった当時は、まだ一条天皇即位時で、冷泉院も後の三条天皇もいたのだが、冷泉皇統から在位経験のある男児が一人減った。
それもあってか、花山天皇の息子は冷泉院の子ということにされ、昭登親王と清仁親王になった。なお、この皇子は『栄花物語』では平祐之の娘・中務とその娘が孕まされてそれぞれ産んだことになっているが、史実かは不明。一次史料としては、藤原行成の『権記』の寛弘8年9月10条に出てくる、御匣殿の補足説明として後世書き加えられた箇所という、またややこしいものくらいしかなく、倉本一宏も判断を保留している。ちなみに、清仁親王の子孫は白川伯王家になっている。
また、花山天皇の娘こそ、かの有名な盗賊に殺されて死体が犬に食われた皇女である。『小右記』によると、藤原伊周の息子・藤原道雅が裏で暗躍していたともされるが、事実かは不明。というか、同じく『小右記』によると、結局この件はうやむやになった模様。
なお、『栄花物語』では、4人の皇女がいて、花山天皇が死ぬ時に他の3人は花山天皇に呪い殺されたと書かれているが、他の娘は確認されておらず、史実かは不明。
関連項目
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