若の里 忍(わかのさと しのぶ)は、田子ノ浦部屋(2013年12月までは鳴戸部屋)所属の元大相撲力士である。
概要
1976年7月10日生まれ、青森県弘前市出身、千葉県在住。本名は古川 忍(こがわ しのぶ)。第45代横綱・初代若乃花と同郷であり、四股名の「若」の字は若乃花にちなんでいる。同学年には青森県だけで高見盛(元小結)、武州山(元前頭3枚目)など錚々たる面々が並んでおり、アマチュアの相撲大会では全国大会より青森県大会のほうが勝ち抜くのが難しいと言われた。よその県の力士を見ると千代大海(大分県)、栃東(東京都)、琴光喜(愛知県)の3大関を輩出しており、「花のゴーイチ組」と呼ばれた世代である。
大相撲には中学校を卒業して1992年3月場所で鳴戸部屋(師匠は第59代横綱隆の里)から初土俵。この場所は若貴フィーバーの影響で入門者が史上最多の場所だった。若の里自身も当時貴花田と名乗っていた後の横綱貴乃花に巡業で稽古をつけてもらったことで入門を決意している。同じ部屋から隆乃若、隆の鶴も幕内に上がり、合計13人が関取に昇進。厳しい鳴戸親方の指導の下で猛稽古を積み、1997年11月場所、21歳で新十両。1998年5月場所で新入幕を果たした。3代目若乃花は同じ一門の横綱であり、その縁から露払いを勤めたことがある。
1998年11月場所で横綱若乃花から初金星。怪我で十両まで落ちたこともあったが、2000年11月場所以降は幕内上位に完全定着した。5年間上位に定着して4回も殊勲賞を獲得するなど上位には強く、19場所連続で三役に在位したが、大関に昇進することができず、最後は怪我で三役から陥落した。それ以降は大関取りどころか三役復帰もできなかった。
三役から陥落した後は大怪我を繰り返すようになり、入門後の手術回数はのべ9回。右足の甲には現在でも鉄板が埋まっているという。入門前にも4度の手術を経験しており生涯の手術回数は13回。怪我のデパートの異名をとり、最高位が関脇以下の力士としては、通算の休場数が1位という嬉しくない記録を持っている。40歳まで幕内力士として土俵を務めた旭天鵬が入門同期だが、互いに「いつ辞めるのか」と話すことも多かったという。晩年になると互いに励ましあうことも増える一方、どちらが先に辞めるのかを互いに気にし合っていたが、奇しくも旭天鵬と同じ2015年7月場所限りで力尽きて引退することになった。
通算914勝783敗124休(140場所)、幕内613勝568敗124休(87場所、うち三役26場所)殊勲賞4回、敢闘賞4回、技能賞2回。通算900勝達成は史上6人目。通算勝ち星は史上7位。
本来であれば、引退を決意したら引退届けを出すべきではあったが、現役最終場所となった7月場所の直後には故郷青森県で夏巡業が予定されており、現役を引退したら参加できなくなるため、引退届けの提出を保留した(旭天鵬は千秋楽翌日に引退)。引退を口にすれば土俵に上がれないため、報道では「引退確実」という表記が見られ(終いには日本相撲協会の機関誌までこの表現を使用した)、8月20日の青森県七戸町での夏巡業を最後に土俵を去った。9月3日に現役引退を発表して記者会見が行われ、西岩親方となって田子ノ浦部屋で後進の指導に当たることとなった。
力士としては模範的で真面目な人であり、真摯に相撲に向き合う姿勢はファンを魅了した。日本相撲協会も若の里の真面目さを高く評価しており、巡業では毎回「風紀委員長」に任ぜられた。相撲寺子屋という協会の公式イベントでは嘉風、輝の2関取が聴講を希望し、またニコニコ生放送配信では安美錦が閲覧してコメントを打っていたことが判明している。
趣味はビアガーデン巡りという誤記がWikipediaに掲載された時期があったが、2014年の春巡業で開催された大相撲超会議場所で間違いであることを指摘されると、直ちに訂正された。本当の趣味は芸術的であり、陶芸と絵画。その腕前は思わずうなってしまううまさであり、陶芸では自分で作った焼き物をファンサービスとしてプレゼントし、絵画では奇跡の一本松を描いた油絵が陸前高田市の市役所で展示されたことがある。
余談だが、高見盛が取組の直前に土俵上で独特の気合入れをするようになったのは、若の里との取組で負ったトラウマが原因だった。
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