范増(はん・ぞう)、紀元前277年~紀元前204年)とは、戦国時代末期~秦代の人物。秦末の反乱において、項梁(こうりょう)、羋心(びしん、楚の懐王・義帝)、項羽(こうう)の率いる楚の国の武将・参謀として仕えた。
特に、「西楚の覇王」となった項羽の参謀であることで知られる。
項羽に、劉邦(りゅうほう)の危険性を進言していたが、項羽にその進言をきかれず、忠誠を疑われたため、項羽のもとから去り、故郷に帰る途中で死去している。
この項目では、范増とともに、項梁・項羽に仕えた人物である召平(しょうへい)、韓生(かんせい)、鄭昌(ていしょう)、武渉(ぶしょう)についても、あわせて紹介する。
概要
楚王を立てる進言を行う
紀元前208年、中国のかなり南方の居巣(キョスウ)に住んでいた、范増は70歳になっていた。
范増は、智謀や軍略にすぐれ、策略を立てることを好んでいたが、紀元前223年に滅んだ楚の国にも、紀元前221年に天下を統一した秦王朝にも仕えずに暮らしていた。
特に史書に明記はないが、范増は、中国の地からはかなり独立傾向が強い居巣の地の領主に近い存在であったとも考える研究者もいる。
この時、秦王朝の政治は乱れ、かつての楚の国が存在した地方を中心として、各地で秦王朝への反乱が起きていた。
すでに、はじめに反乱を起こした陳勝(チンショウ)は、秦軍に敗れ戦死していたが(「陳勝・呉広の乱」)、項梁(コウリョウ)という人物が、かつての楚の国が存在した地方で、勢力をのばしていた。
項梁は、楚の国の名将であった項燕(コウエン)の子にあたり、かなりの人望がある人物であった。
紀元前221年4月、項梁は(反乱の盟主としてみなしていた)陳勝が戦死していることを正式に認め、薛(セツ)の地で、諸将や各地の群雄を集めて、今後のことを図っていた。
范増も項梁をたずねて、薛までやってきて、項梁に会い、計略を説いた。
「秦の国が六国(楚・斉・趙・魏・韓・燕)を滅ぼして天下を統一した時、楚の国が最も秦から攻められる理由はありませんでした。かつて、楚の懐王(かいおう、紀元前296年に死去)は、秦を信じて、秦に入って捕らえられて、帰してもらえず、秦で死去しました。このことを楚人はいまでも悔しんでいます。
だから、楚の南公(なんこう。楚の国の占いに長けた人物)は、『楚の国が残り三戸になっても、秦を滅ぼすものは、必ず楚だろう』と語ったのです。
陳勝は反乱を起こしたのに、楚の王の子孫を王として立てず、自分が王になったから、勢いは長続きしませんでした。これでは、敗れたのは当然です。
あなた(項梁)は江東※(こうとう)で決起して、楚人が争ってあなたのもとに集まっているのは、あなたが代々の楚の将軍に家の出だからです。だからこそ、楚の王の子孫を王として立てるべきなのです」
項梁は范増の進言を受け入れ、同年6月に、楚の懐王の孫にあたる羋心(ビシン)という人物が人に雇われて羊飼いをしているのを探して出して、(祖父の称号をとって)「楚の懐王」として、楚国の王として立てた。
※ この薛では、范増と敵対することになる劉邦(リュウホウ)や張良(チョウリョウ)も項梁をたずねてくるが、この時、范増が彼らと会ったかどうか不明である。
項羽の「亜父」
それからしばらく、范増の動きや活躍について、史書に記されていない。
項梁は、楚の懐王を立ててのち、楚の軍を率いて、秦の軍を率いた章邯(ショウカン)と戦い、勝利するが、章邯の反撃にあい、敗北し、戦死する(紀元前208年9月)。
范増は項梁の参謀もしくは武将として働いていたと思われるが、この時の動向や進言などは何も史書では分からない。
項梁が戦死した後、項梁の武将であった項羽(コウウ、項梁の甥)や劉邦、呂臣(リョシン)は、東の彭城(ホウジョウ)に集まり、懐王・羋心も、彭城に移って来た。
紀元前208年後9月(当時は閏(うるう)月が存在した)、懐王・羋心は、項梁に代わって、宋義(ソウギ)という人物を楚の全軍を率いる上将軍に、次将(二番目に高い地位の将軍)には項羽を任命している。
この時、范増も、末将(まつしょう、三番目に高い地位の将軍)に任命されている。
楚の全軍は、宋義の指揮下に置かれて、趙の国の救援軍となっていた。
范増は、別働軍の軍を率いることとなった劉邦はともかくとして、その他の楚の武将であった黥布(ゲイフ)、蒲将軍(ホショウグン)、龍且(リュウショ)、桓楚(カンソ)たちよりも高い地位の武将に任じられたようである。
これは、范増が懐王・羋心の擁立を進言した功績により、羋心に任じられたものと考える研究者といるが、羋心が范増の功績に報いたいだけなら、むしろ、政治や顧問の大臣に任じればいいとも考えられる。
范増はやはり、軍略や軍の指揮に長じており、それによって、功績をあげたため、楚の末将に任じられたと考えた方が自然である。
この後、范増はまた、しばらく史書にその名を記されることがなくなる。
この時の趙討伐では、項羽によって宋義が斬られ、項羽が楚の趙救援軍を率いることになり、さらに、このまま、王離(オウリ)率いる秦軍を破って、趙を救援する。さらに、項羽は秦の章邯にも勝利し、降伏させる(紀元前207年7月)。
この時も、范増は宋義を斬った項羽を支持し、項羽の参謀もしくは武将として働いていたと思われるが、この時の働きや進言などは何も史書では分からない。
実は、項梁や項羽のもとで行った范増の働きは、ほとんど史書に記されてはいない。
ただし、いつの時期か正確には不明であるが、この頃には、范増は「父に次ぐ敬うべき存在」という意味の「亜父(あふ)」の名で、項羽やその周囲の人物たちに呼ばれていたようである。
楚軍の「大将」
項羽は、降伏させた章邯たちとともに、諸国の軍を率いて、秦の本拠地であった関中(カンチュウ)を目指すことになる。特に、史書に明記されてはいないが、范増も項羽に従い、ともに関中に向かったことは間違いない。
その途中、項羽は章邯の部下であった秦の降伏兵に反乱の動きがあったため、二十数万人を新安(シンアン)というところで殺害してしまう(紀元前206年11月)。
この時も、范増が項羽に対し、積極的に賛成したのか、反対して項羽を諫めたのかも不明である。
やがて、紀元前206年11月、項羽率いる諸国連合軍、約四十万は、関中を守る関所である函谷関(カンコクカン)に着いた。
だが、項羽の諸国連合軍は、項羽や范増とともに楚に仕えていたはずの、劉邦の軍に函谷関で阻まれてしまう。
実は、劉邦は、懐王・羋心が「先に関中に入ったものを関中王とする」と宣言した言葉を信じて、楚の別働軍を率いて、項羽より先に関中を奪い、秦を降伏させていたのだ。
しかし、劉邦は、項羽が章邯を「雍王」に封じていたことを聞いて、劉邦が「関中王」になれないことを不安に思い、実力行使にでてきたのである。「雍王」とは、関中王に近い意味の称号である。
項羽とすれば、章邯を「雍王」に封じたのは、懐王・羋心の部下ではない諸国の王や武将たちと決めたことであり、懐王・羋心が項羽の(一応の)主君であるといっても、話し合いすらもなく、その約束を強制させられる道理はなかった。項羽は当然、激怒した。
范増は、すでに「亜父」と呼ばれ、項羽の「大将」として、函谷関に進んだが、劉邦の軍に阻まれたことに怒り、「沛公(はいこう、劉邦のこと)は、反乱を起こしたいのか?」と語り、函谷関を焼き討ちにした。やがて、函谷関は開門した、と伝えられる。
※ 『史記』では、項羽が函谷関を破ったのは、ひそかに間道を進んでいった黥布の功績が大きいとされる。ただし、『楚漢春秋』はあやしい史料ではなく、『史記』の出典の一つとなった重要な史料である。
この時の范増は、項羽の「大将」とされるほどの高い地位にあったようである。「大将」とは全軍を率いる将軍という意味であるから、おそらくは、范増は「楚軍の大将」であり、諸国連合軍を率いる「従長(じゅうちょう)」という立場になった項羽から、楚軍の指揮を預けられる存在になっていたと考えられる。
このことを考えると、范増はただ、参謀というだけなく、軍の指揮や統率力、戦術能力にも長けた人物であったようである。
豎子(じゅし)ともに謀(はか)るに足らず
紀元前206年12月、函谷関を破った項羽の軍は、劉邦たちが軍を集めた霸上(ハジョウ)の近くの鴻門(コウモン)の地に軍を休ませた。項羽の軍は40万に対し、劉邦の軍は10万であり、項羽は天才的軍略を有している。結果は見えていた。
范増は、関中に入った後の劉邦の行動を聞いて、特に警戒して、項羽に進言する。
「沛公(劉邦)は、東の土地にいた時は、財貨をむさぼり、美女を好んでいました。しかし、関中に入ったから、財貨を奪うことはなく、女性たちを近づけませんでした。これは、その野心が小さくないことを証明しています。
私が(気を占うことできる)人間に劉邦の気を占わせてみせたところ、劉邦の気は龍や虎となり五色のあやをなす、「天子の気」です。この機会を利用して、攻撃するのです」
項羽は范増の言葉に同意するが、劉邦の参謀となっていた張良が、項羽の叔父にあたる項伯(コウハク)を通じて、劉邦に項羽に謝罪を行う機会を与えさせ、項羽に降伏しようとしていた。
項伯は、項羽に劉邦の謝罪と降伏をうけいれるように勧めると、項羽は項伯の言葉にも同意した。
やがて、劉邦が張良、樊噲(ハンカイ)ら百人余りを連れて、項羽のいる鴻門にやってきた。劉邦が謝罪を行うと、項羽はその言葉を受け入れてしまった。
※范増が、項羽や項伯から、劉邦の降伏を受け入れると、事前に説明されていたかは不明。ただし、説明されていても、范増は、劉邦の降伏を受け入れることに反対したまま、この「鴻門の会」にのぞんだようである。
やがて、宴会が始まると、項羽と項伯は東に向かって座り、范増は南に向かって座った。劉邦は北に向かい、張良は西に向かって座る。
劉邦を危険視し、劉邦をここで始末することを進言していた范増は、項羽に何度も目くばせし、さらに、「決断を促す」ための「玉玦※(ぎょくけつ)」を三度、挙げて見せたが、項羽は黙って応じなかった。項羽は、范増よりも項伯の進言に従うことにしたようだった。
※腰につけた玉の飾り物。玉の環の一部が欠けている。「玦」の字は「決」の字に通じ、決断を促す時に、使われたようである。
范増は宴会から出て、項羽の従弟にあたる項荘(コウソウ)という人物を呼ぶ。
范増「わが君(項羽のこと)は(降伏したものを一方的に殺すという)むごいことはできない人格である。宴会に入って、出席者の長寿を祈った後で、(項羽に)剣舞を舞うことを願いように。そして、剣舞の最中に、沛公(劉邦)を殺すのだ。そうしなければ、我らは(劉邦に)いずれやられるであろう」
項荘は范増に従って、その言葉通りに行うが、項伯が項荘の剣舞の相手となり、項荘は劉邦を殺害できなかった。その間に、張良が宴会を出て、樊噲を呼び、樊噲が宴会に乱入してくる。
樊噲は、強弁して劉邦をかばい、項羽はその勇気と豪胆に感服して、劉邦を許してしまう。やがて、劉邦は樊噲を連れて、便所にいくと見せかけて、自分の陣営にもどっていった。
宴会に残った張良が、劉邦が勝手に帰って行ったことを謝罪して、劉邦からの贈り物として、項羽に「白璧(はくへき)」一対、范増には、「玉斗(ぎょくと、玉でつくった酒をいれる甕)一対」を贈って来た。
なお、この時、張良は范増を「大将軍」と呼んでいるため、やはり、范増は楚軍全軍を率いる「大将軍」の立場にあったようである。
項羽は、張良が贈った白璧を受け取ったが、范増は玉斗を地面に転がして、剣を抜いて、玉斗をたたき割ってしまった。范増は嘆いた。
「ああ! 豎子※(じゅし)とともに謀(はか)るに足らず!(小僧なんぞと、一緒に計略を練るものではないものだ!) 項王(項羽)の天下は、必ず、沛公に奪われるであろう。我らは、今にも、やつにやられてしまう」
※この「豎子」は、項羽のことを指す説と、項荘のことを指す説がある。
この「鴻門の会」における范増の言葉は、やがて、現実のものとなってしまう。
劉邦を封じ込める
その後、項羽は秦の都である咸陽(カンヨウ)に入り、子嬰(シエイ、最後の秦王となった人物)ら、秦の王族を滅ぼし、咸陽を略奪するが、特に、このことに関する范増の動向や発言は記されていない。
やがて、諸将の代表である「従長」である項羽が、秦を滅ぼした功績ある諸将と話し合い、彼らに封じる土地を定めることにした。項羽は、主君である楚の懐王・羋心に意見を聞いたが、「私の言葉通り、先に関中に入った以上、劉邦を関中王にするように」と答えが返って来た。
劉邦と結託しているのか、楚王としての権威を保ちたいのか、楚勢力を有力にしたいのか、項羽の力を削ぎたいのか、それとも別の理由かは分からないが、劉邦がそのような扱いを受けることに納得する諸将などいない。また、章邯をすでに、(関中のどこかに封じるはずの)「雍王」に封じてもいる。
楚の懐王・羋心が項羽の立場を考えていないのは明らかであった。項羽は羋心を「義帝(ぎてい)」とし、一応は諸国の王の上に立つ存在として持ち上げ、実際は実権を奪ってしまった。「義帝」となった羋心は、南方にある郴(ヒン)まで移してしまう(紀元前206年2月)。
なお、このことについても、范増の動向や発言は記されていない。
范増は劉邦が天下を取るのではないかとまだ疑っており、項羽も、劉邦には、なんらかの罰を与えるべきとは考えていた。ただ、すでに、劉邦の降伏はうけいれ、和平し、一応は、「義帝」との約束がある以上は、完全に背くのは難しい。
そこで、二人はひそかに図った。関中の南部である巴(ハ)と蜀(ショク)は多くの山に囲まれたへき地ではあるが、一応は関中に含まれている。そこで、ここに劉邦を「左遷」することに決める。これなら、劉邦を完全に封じ込めることができる。
だが、項伯が、張良から贈り物を受けて、劉邦に巴・蜀より北にある漢中(カンチュウ)の地を与えるように、項羽に進言をしてきた。項羽は、これを許してしまう。劉邦は、「漢王」に封じられた。
このために、范増が当初、意図したようには、劉邦をへき地に封じ込めることは難しくなってしまった。
項伯の意図は不明であるが、項伯と范増の間では、項羽陣営の実権をめぐって、なんらかの争いが起きていたのかもしれない。
※創作作品では、范増がこの時の項羽の、「諸国の王や諸国の武将についての封建」である「項羽の十八王封建」について、進言したことにされることが多いが、史書では上記の劉邦の処遇以外では、なんらその進言は記されていない。
楚漢戦争
やがて、項羽は「西楚の覇王」を名乗り、義帝・羋心から奪った楚の国を統治するために帰って行った(紀元前206年4月)。
その後、范増の危惧が当たり、漢王となった劉邦が決起して、関中の地が奪われてしまう(紀元前206年8月)。また、斉や趙でも項羽の論功行賞に不満として、反乱が続発し、項羽はその対応は追われることになる。
項羽は、邪魔になった義帝・羋心を殺害する(紀元前205年10月、当時は年初めが10月)。
しかし、このことが劉邦にさらに、項羽討伐の大義名分を与えることになってしまう。これが「楚漢戦争」の勃発である。
項羽が斉を討伐している最中、劉邦は項羽の楚に攻め入り、項羽の本拠地である彭城を56万の大軍で制圧する。しかし、項羽はすぐに引き返して、劉邦の軍を3万で撃破する(「彭城の戦い」、紀元前205年4月)。
項羽と劉邦は、滎陽(ケイヨウ)の地で膠着状態におちいる。戦術・戦闘では、項羽が勝り、戦略・外交では劉邦が勝る。正に互角の戦いが繰り広げられた。
この時代の范増の動向・発言についても、やはり、史書には記されていない。
ただ、范増はどこかの段階で、項羽によって、楚の「歴陽侯(れきようこう)」に封じられていたようである。
骸骨を請う
紀元前204年4月頃、項羽は、劉邦を滎陽の城に押し込めていた。もっとも、項羽陣営も、すでに章邯は戦死し、猛将の黥布と、参謀であった陳平(チンヘイ)が、劉邦に寝返っており、全体では不利な状況である。ここで、劉邦を討たなければ、次第に不利になっていくことは明白であった。
項羽の軍は、滎陽城にいる劉邦の軍の補給を行うための甬道※(ようどう)を奪い、その兵糧を断っていった。劉邦は、恐れて、「滎陽の西を漢の領土とすることで講和をしよう」と使者を送ってきた。
「漢の軍を倒すのは、たやすい状況です。もし、劉邦を許して倒さねば、必ず後悔することになるでしょう」
項羽は范増の進言をいれて、劉邦との講和を断念し、范増とともに滎陽城をさらにきつく包囲した。
「楚の国を、謀略で、乱しましょう。項王(項羽のこと)の臣で忠義厚く優れた人物は、亜父(范増)・鍾離眜(ショウリバツ)・龍且(リュウショ)・周殷(シュウイン)ら数人しかおりません。大王(劉邦)が数万斤の黄金を私に渡してくだされば、「反間の計」を行い、項羽の君臣の間にお互いへの疑いの心を起こさせましょう。項王(項羽)は疑い深く、讒言を信じやすいため、必ず内部で責めあうでしょう。その時、漢の軍が兵をあげて攻めれば、必ず楚の軍に勝てるでしょう」
劉邦は、陳平の進言に従い、四万斤の黄金を彼に預け、好きに使って、「反間の計」を行うように命じた。
四万斤とは、約20トンの黄金である。これは、かつて、大国であった秦が魏の信陵君(しんりょうくん)を追い詰めた謀略に使った一万斤の4倍もの黄金であった。
陳平は、その大量の黄金をばらまいて、楚の軍に流言を起こさせた。
「鍾離眜たち諸将は項王の武将となって功績が多いが、土地を与えられて王になることはないだろう。だから漢に裏切って、項氏を滅して王となろうとしているようだ」
元々、項羽の楚軍は、范増や鍾離眜たちも功績が少ない項羽の一族が重用される傾向にあった(実際に、項羽は范増の進言よりも項伯の言葉を優先している)。
この流言は説得力を持っていたために、あちこちでささかれるようになり、また、項羽の一族も身に覚えがあるため、不安を感じるようになったことも想像に難くない。
やがて、この言葉は、項羽の耳にも入り、項羽は鍾離眜らを疑いだした。
ただ、范増は陳平のターゲットの筆頭であるにも関わらず、『史記』の文では、項羽が疑ったのは「鍾離眜ら」とあるため、やはり、項羽の范増に対する信任は他の武将よりも厚くはあったのだろう。
だが、その信任も破れる日がやってきた。
項羽がこの流言の真偽を探ろうとして、使者を滎陽にいる漢を送った。劉邦は、はじめは豪勢な食事でその使者を出迎えた。しかし、使者に会うと驚いたふりをして言った。
そこで、食事を持ち去り、ひどい食事を使者に与えた。使者は帰ってから、項羽にこのことを伝えた。
実に見え見えの策略であったが、項羽の范増に対する疑心はすでにかなりつのっていたのか、いくらなんでも劉邦みずからこんな恥知らずな芝居はしないと考えたのか、項羽は、范増まで劉邦と内通しているのではないかと疑い出した。
項羽は、急激に滎陽の城を攻め落とすように進言する范増の言葉を信じず、その提案を却下した。さらに、項羽は、徐々に范増の権限を奪っていった。
范増は、項羽が自分を疑っていることを聞いた。范増が「忠義を尽くした范増を疑う項羽の人柄」、「このような策略にかかる項羽の見識」、「劉邦や陳平に策略にのって、范増の讒言を行うようなその使者や項羽の一族」どれに対して、怒りを感じたかは不明だが、激怒した。
「天下の大事はすでに定まりました。君王(項羽のこと)は自分でおやりになればいいでしょう! どうか、骸骨を請(こ)いて(辞職して、今までの地位や役職を全て返上する、という意味)、兵卒になりますから、故郷に帰らせていただきたい!」
さすがに、項羽も身に覚えがあったのだろう。楚の軍の内情を知る范増を抑留させずに、願い通り、故郷に帰ることを許した。
しかし、老年であった范増の心理的衝撃は大きかった。范増は、項羽の都である彭城に着く途中で、極度のストレスのためか、背中に疽(そ、悪性のはれもの)の病が発し、死んでしまった(※)。
※ 范増は「憤死(ふんし)」したと書かれる場合があるが、特に史書ではそのようには記されていない。中国の「憤死」は、実際は自害を意味する表現であるという説があるが、范増はこれにはあてはまらない。
結局、項羽は滎陽において、劉邦を逃がしてしまい、最終的に敗れて自害することになる。
范増の墓は、故郷の居巣において、長い間、祭られたと伝えられる。
評価
劉邦は皇帝に即位した時、「自分は、自分より優れた能力を持つ張良・蕭何(ショウカ)・韓信(カンシン)の三人(漢の三傑)を使いこなし、天下を取った。しかし、項羽はただ一人の范増を使えなかった。これが項羽がわしに敗れた原因である」と語っている。
本文の通り、范増はその計略は余り史書に記されておらず、数少ない計略である「懐王・羋心を立てたこと」は、項梁死後の楚の国体を守ったかもではあるが、後に項羽にとって邪魔な存在になり、結局は、羋心を殺害する形で終わり、劉邦に項羽討伐の大義名分を与えてしまっている。
また、数度にわたる「劉邦の排除の進言」も項羽に採用されないか、不徹底、あるいは彼自身が項羽からうとまれるきっかけにつながり、范増自身の問題かどうかは別にして、参謀としては成功していない印象が強い。
そのため、范増のことを「大した軍師ではなかった」と評価する研究者もいる。
だが、上述した通り、范増は劉邦からは、張良・蕭何・韓信と同等の評価を受けているようにも思われ(この解釈が正しければ、劉邦の評価は、范増の方が、陳平・樊噲・曹参(ソウシン)・盧綰(ロワン)らより上ということになる)、劉邦の陣営からも「亜父」と呼ばれ、尊敬されていたようであり、かなりの人物だったことも想像できる。
また、ただ、参謀というだけでなく、直接戦う戦争においては、基本的に勝利することが多かった楚の「末将」や「大将」、「大将軍」となっていたようであり、戦術や軍の指揮・統率にもすぐれていたことが想像できる。
創作において、范増は、頑固で怒りっぽく、君主に対しても、直言をはばからない人物として描かれやすい。また、余り軍の指揮を行わない、項梁や項羽の側で進言を行う参謀として描かれやすく、項梁や項羽に対して数々の進言を行い、彼の進言が採用されない場合は、失敗に終わることが多い。
創作物における范増
『通俗漢楚軍談』
中国の講談『西漢演義』を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
范増は、項梁の武将である季布(キフ)の依頼により、項梁の部下になることを決める。後に、楚の天運を無いことを知るが、約束した以上はと、項梁に仕え、「軍師」となる。
范増は史実通り、楚の懐王を立てることを進言し、韓信の登用も項梁にすすめる。だが、劉邦を会い、劉邦が「天子」になるべき人物であると予感する。
しかし、范増は、項梁の死後も、軍師として、項羽に仕え、鉅鹿(キョロク)の戦いでは、兵糧をひそかに準備する配慮を行い、章邯の軍を伏兵にかけるなどをして、項羽を助けた。項羽に対して、略奪が多いことや秦兵を殺すことについて、行わないようにと諫めるが、このことは、項羽には聞かれなかった。
范増は天文が占いを行い、天運が劉邦にあることから、項羽に殺害するようにすすめ、劉邦を殺害する計略を練るが、「鴻門の会」において、結局は、劉邦を逃がしてしまう。
さらに、項羽は、劉邦のために働こうとする張良を部下にする。また、項羽は范増の諫めをきかず、始皇帝の一族を滅ぼす。しかし、項羽は、秦の民を殺し尽くすことは范増のおかげでなんとか思いとどまる。
案の定、項羽は張良にだまされ、范増の反対に関わらず、「覇王」を称し、始皇帝の墓を暴き、秦の宮殿を焼いてしまう。
その後の論功行賞では、范増は楚の「丞相」に任じられた。また、范増の進言により、劉邦は漢王に左遷されてしまう。だが、項羽の部下であった陳平も項羽を裏切って劉邦につき、陳平の項羽への進言によって、范増は彭城に行くことになってしまう。
范増は項羽に対し、「咸陽を離れないこと」、「韓信を用いること、用いない時は殺害すること」、「劉邦をとどめて漢中にいれないこと」を守ることを項羽と約束し、彭城に赴く。
だが、この進言は全て項羽が、張良と陳平にあざむかれ、破られてしまい、劉邦は漢中におもむき、韓信は登用されなかった。さらに、項羽は范増に相談なく、元の楚の懐王である義帝を殺害し、彭城の地に都を構えてしまう。
韓信もまた、范増から殺されることを恐れ、逃亡して、劉邦に仕えることになる。
范増は、劉邦を警戒するように、章邯に伝えるが、章邯は結局、劉邦と韓信に破られてしまう。さらに、項羽をだましきって、諸国に項羽への反乱を起こさせることに成功した張良は、劉邦のもとへと逃亡する。
その後の戦いは項羽優位に推移するが、范増は王陵(オウリョウ)の母や、劉邦の一族を人質にとるように進言し、今度は、項羽もこれに従った。
しかし、項羽は、范増の反対をきかずに、韓信の誘いに乗って戦いを挑み、大敗する。
范増は、劉邦から魏豹(ギヒョウ)を寝返らせる。韓信が魏豹を討伐している間に、項羽とともに、劉邦を滎陽に追い詰める。
だが、史実通り、項羽は、陳平の策略にはまり、使者となった虞子期(グシキ)が持って帰って来た范増からの偽手紙によって、范増を疑い、罰しようとする。
范増は弁解するが、項羽が疑いを解かないことを悟り、故郷に帰ることを願う。このことは、項羽はこれを許されるが、范増は帰る途中、彭城で病気にかかる。
范増は師であった楊(ヨウ)真人(しんじん)に助けを求めるが、楊真人は、「范増が(楊真人)の『明主に仕えるように』という教えに背き、劉邦ではなく、項羽に仕え、民衆に害を与えた」ことを理由に范増の治療を拒否する。
范増は、これを聞いて、嘆いて死ぬ。項羽も范増の死を聞いて、その無実を悟り、涙を流した。范増を失ったことにより、項羽は次第に劉邦に押されていき、敗北することになった。
『西漢演義』もまた、中国において、楚漢戦争を扱った講談小説として流通している作品であるため、その翻訳である『通俗漢楚軍談』とあわせて、直接的・間接的に日中の多くの楚漢戦争を扱った創作作品に大きな影響を与えた、と考えられる作品である。
この作品の影響か、范増は、史実では参謀であると同時に、「軍の指揮官」である可能性が高く、項羽を諫める回数そのものは少ないが、創作作品においては、項梁や項羽の側にいて助言を行う「軍師」として扱われ、項羽をたびたび厳しく諫める人物像に描かれることが多い。
范増に関係する人物たち
召平(しょうへい)
広陵(コウリョウ)に住んでいた。陳勝の決起に応じて、広陵を攻略しようとしたが、落とせずにいた。
紀元前208年12月頃、召平は陳勝が秦軍に敗れて敗走し、秦軍が来ると、聞いた。そこで、長江を渡り、会稽(カイケイ)郡で反乱を起こしていた項梁のものにきて、「陳勝の命令である」と偽って、(陳勝を王とする)楚の上柱国(じょうちゅうこく、楚の大臣)の地位を項梁に授けて、(陳勝の命令を偽って)、項梁に命じた。
(創作では)項梁は、召平が偽りの使者であることに気づいていたことにされやすいが、史書には項梁が真実に気づいたかどうかは史書には記されていない。
とにかく、項梁は「上柱国」の地位を拝命し、八千の軍を率いて、長江を渡り、西へと軍を進めた。
この後の召平については、近い時期に項梁の配下となった范増や陳嬰(チンエイ)が楚に重用されたにも関わらず、史書には記されておらず、不明となっている。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』では、この後、漢王朝に仕えたとするが、これは同名の「召平」のことであり、別人のエピソードである。
韓生(カンセイ)
『漢書』では韓生とあるが、『楚漢春秋』と『法言(ほうげん)』では、蔡生(サイセイ)という名としている。韓生が項羽に直接、仕えていたかは不明。
紀元前206年2月頃、項羽が子嬰ら秦王の一族を殺害し、咸陽を略奪し、その火は三か月も消えることはなかった。さらに、項羽が関中の地を離れて、東へと帰ろうとした時、韓生が項羽を諫めた。
韓生「関中は山河に囲まれた天然の要害の地です。また、土地も肥えています。ここを都にして、天下を統治するのがいいでしょう」
しかし、項羽は、秦王朝の宮殿は(項羽たちの略奪によって)全て焼け落ちてしまい、また、(故郷のある)東の土地に帰りたくなっていた。
項羽「富貴を得て故郷に帰らないのは、錦の衣を着て、夜に出歩くようなものです(「立派な着物を着ても、夜に出歩いたのでは、誰も見えないので意味はない」という意味)。このことを知らない人はいないでしょう」
項羽はこのことを聞いて、韓生を処刑した(『史記』では「煮殺した」、漢書では「斬刑」としている)
『通俗漢楚軍談』では、項羽に仕えていて、項羽が西楚の覇王と称した後、その「左諫議(さかんぎ、主君を諫める役職の文官)」に任命されていたとされる。
史実通りに項羽を諫め、処刑されるが、この時、処刑にあたった(項羽の配下だった)韓信に、「項羽が宋義を殺害した時、諫めなかったこと」、「項羽の秦兵虐殺を諫めなかったこと」、「項羽の子嬰殺害、咸陽略奪、論功行賞を諫めなかったこと」ことを指摘され、「いまさら、項羽を諫めても、むしろ処刑されるのは、当然である」と言われ、そのまま、煮殺され、処刑された。
武渉(ぶしょう)
盱台(クイ)に住んでいた。盱台は江東の地にあるため、彼は楚人であるようである。
紀元前203年11月、韓信との戦いで、項羽の重要な武将である龍且が戦死した。この後、項羽は武渉を使者として、韓信のもとに送った。韓信は元々、項羽の部下であったため、味方にするか、劉邦からの自立を説かせるためである。
武渉は韓信を説得した。
「天下の人々は、秦王朝の厳しい政治に長い間、苦しんでいました。そのため、協力して力をあわせて、秦王朝を打倒したのです。秦王朝が滅んだので、手柄のあった諸侯や諸将の功績をはかって、それぞれ土地を分けて、王とすることにして、兵士を休ませることにしたのです。
それなのに、漢王(劉邦のこと)は兵を東に進め、他人の領土を侵略し、その土地を奪い取ろうとしているのです。そのため、三秦(関中のこと)は破れ、さらに関中から出て、諸侯の軍を率いて、東にある楚の地を攻撃しています。漢王の意図は、天下全てを奪い取らなければ止まりません。足ることを知らないことは大変なことです。
そもそも、漢王は約束を守ることはありません。漢王の身が項王(項羽のこと)に握られることはしばしばありましたが、項王があわれんで生かしてくれたのです。それなのに、項王の手から逃れ去ると、約束を破り、項王を攻撃してきたのです。漢王は、親しむことも信用することもできる人物ではありません。
あなた(韓信)は、漢王と親交を厚くして、漢王のために、力を尽くして兵を率いて、功績をあげられていますが、最後には捕らえられてしまうでしょう。あなたが、しばらくの間を得て、今まで生きてきてくることができたのは、項王がまだおられたからです。
漢王と項王の勝敗は、あなたにかかっています。あなたが味方した方が勝つのです。項王がなくなれば、次はあなたの番です。
あなたは項王と古くからの知り合いですのに、どうして、漢に反して、楚と同盟を結んで、天下を三分した王とならないのですか? この機会を逃して、漢について、楚を攻撃する。智者と呼ばれるものがこのようなことでよいのでしょうか!」
しかし、韓信は武渉に謝って、言った。
「私が項王に仕えて、官位は郎中(側近の一人)に過ぎず、地位は執戟(しつげき、君主の近くで戟をとるもの)に過ぎなかった。私の進言は聞き入れられず、計略は用いられなかった。だから、楚にそむいて、漢に仕えたのだ。
それに対して、漢王は私に上将軍の地位と数万の軍を与えてくれた。また、衣を脱いで、私に着せ、自分の食事を私に与えてくれた。私の進言は聞き入れてくれ、計略は用いられた。だから、私はここまでになれたのだ。
そもそも、人が私をとても親しくし、信じているのに、そむくのは良くないことである。秦でも裏切ることはできない。項王に謝意を伝えてほしい」
この後、武渉の言葉通り、劉邦は韓信を謀反の疑いで捕らえ、王の地位から降格し、やがて韓信は粛清されることとなる。
これから後のことは、史書には記されていないが、晋代には、武渉の墓が故郷の広陵の近くにあったと伝えられる。
創作では余り優れていない遊説家とされやすいが、韓信の説得に失敗した事績しか残っていないだけであり、特に、史書にそのような評価が記されているわけではない。
『通俗漢楚軍談』では、項羽が「西楚の覇王」を名乗る時には、項羽に仕えており、右諫議(うかんぎ、主君を諫める役職の文官)に任命されていたとされる。
鄭昌(ていしょう)
項羽が呉(ゴ)県にいた時、県令をしていた。おそらくは、項梁が呉県において地元の有力者をしていた時、項梁を迎え入れていた県令であると思われる。そのため、鄭昌は秦王朝の中央から送られてきた秦人である可能性は高い。
紀元前206年7月、項羽が韓の王であった韓成(カンセイ)を殺害する事件が起きた(項羽が韓成を殺害した理由は不明だが、人質にしていたが、劉邦が韓王信(かんおうしん、姫信(キシン)とも)を韓王とすることを約束して、韓を攻めたため、殺害されたものと思われる)。
同年8月、鄭昌は、項羽によって、劉邦の漢軍を防ぐため、韓王に封じられる。
紀元前205年10月頃、韓王信に攻められ、十数の城を攻略される。劉邦の軍が河南(カナン)まで来た時は、陽城(ヨウジョウ)にいた鄭昌は、韓王信に急激に攻められ、降伏する。
上述した通り、鄭昌は秦の人であった可能性は高いにも関わらず、その鄭昌が、項羽によって、韓王に封じられている。そのため、一部の創作作品のように、史実の項羽が秦の人に強い恨みを持っていたと断定することには注意を要する。
通俗漢楚軍談における項羽陣営の役職について
あくまで小説であるが、項羽が「西楚の覇王」を名乗った時に、項羽の配下は、このように役職を封じられている。
※は史実にはいない人物である。韓信についてはあえて、昇進しなかったことを特記するために記されたものと思われる。項羽の一族は、史実では、項伯以外に、項荘・項声・項它・項襄らがいる。
項正(※):春勝君
項元(※):安勝君
范増:丞相
陳平:都尉
韓生:左諫議
武渉:右諫議
桓楚:大将軍
虞子期(※):大将軍
韓信:執戟郎
当時の医療について
范増は疽(悪性のはれもの)で死んだとされるが、范増が生まれる前の(中国の)戦国時代の兵法家である呉起(ゴキ)の時代には、これを口で吸い出す治療法がすでに見つけられていた(口で吸う方が、手で押すより痛みはない)。
中国では、范増のはるか以前の周の時代(紀元前1,000年頃)には、医者は国家のもとで働くものしか、史書には確認できないが、すでに「疾医(しつい、内科のこと)」、「瘍医(とうい、外科のこと)」、「獣医」、「食医(栄養士のこと)」がいた。
また、同じく、周の時代には、すでに防疫(ぼうえき)や衛生の概念は発達し、知られていた。
そのため、ノミやシラミを退治するため、室内には石灰や石灰をまぜた水をまくことを定期的に行っている。
また、毎年、三月には、新築した家は、楸(ひさぎ)の木を焼いて乾燥させ、その臭みにより、毒気を払っている。同じころ、井戸さらえ(井戸の水を全てくみ出し、井戸の底の異物を取り除くこと)も行っている。
春秋時代の末期には、民間でも医者が確認でき、扁鵲(ヘンジャク)という名医の名が知られており、すでに診察術や漢方の薬も、ある程度は発達していた。
漢代では、病人は空いた家に薬を与えた話が史書に残っており、病気が伝染することもすでに知られていたようである。
関連書籍
鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 (講談社学術文庫)
比較的近年である2004年の出版された秦代と漢代を扱った概説書。文庫本だけでもなく、電子書籍も存在し、単行本も中古なら安く買うことができる。
近年、出土された文献や史料、歴史研究も解説の中に反映されている。そのため、始皇帝部分はかえって分かりづらくなっている側面は否定できないが、漢代以降は、内容も分かりやすく、古典的な歴史の見方とはまた、違った考え方で説明がなされている。
特に、「第三章 秦楚漢の三国志」は陳勝や項羽について、新たな見方が記され、項羽の行った「十八王の連合国家体制」についても従来の「復古的」とされる否定的な見方ではなく、積極的な評価がされているため、項羽陣営が好きな人も必見である。
関連動画
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