「范蠡(范レイ)」(はん・れい ? ~ ?)とは、中国の春秋時代末期から戦国時代初頭の将軍であり、越の国王「勾践」を補佐して春秋五覇に数えられるまでにした功績から、文部省唱歌「児島高徳」にて
天勾践を空しうする莫れ。時范蠡(范レイ)無きにしも非ず。
と歌われた宰相であり、商売において大成功を収めた事から「陶朱の富」の故事の語源にもなっている人物である。
字(あざな)は「少伯」。
この記事の本来の表記は「范蠡」ですが、「蠡」の字が表記できない環境を考慮して、 「范レイ」と記述する場合や「范蠡(范レイ)」と併記する場合があります。 |
呉越燃ゆ
越の国に仕えるまでの范蠡(范レイ)の出自や経緯については歴史は語らない。
越王「允常」が亡くなり「勾践」が即位すると「范蠡(范レイ)」は勾践を補佐して越の富国強兵に尽力していたが、越の隣である呉の国はリベンジャー「伍子胥」の策により「闔閭」が呉王となって以降、富国強兵につとめて伍子胥の母国であり復讐の対象であった楚の国を滅亡寸前まで追い込んだ頃であり、闔閭は勾践を出る杭と判断し軍を出して攻め込んできた。
紀元前496年。伍子胥や「孫武」に鍛えられた呉軍により追い詰められた勾践だったが、范蠡(范レイ)は罪人を集めて剣を持たせて呉陣の前まで行かせ、三列に並べさせてから一番前の列の罪人全員の首に剣をあてさせてから、
呉越の二君が治兵なさった際に私は旗鼓に従わず、君の陣の前で不遜でありました。
刑を逃れる気は毛頭ありませんので、ここで死んでご覧にいれます。
と言わせてからさらに進ませて、呉陣の前で自刎させる策を実行した。
二列目も同じ言葉を言ってから呉陣に近づいて全員自刎し、三列目が自刎した頃にはその不気味さに呉軍は士気を挫かれていた為、越軍が全軍前進すると呉軍は乱れて勾践は逆転勝利をおさめた。
呉王の闔閭は、戦場を離脱しようと馬車を走らせた際に越の攻撃をうけて足の指に傷を負い、その傷が元で亡くなった。
闔閭の後を継いだ「夫差」はこの仇をうたんと越への復讐を誓い、勾践は先んじて呉を討とうと、
兵は凶器、戦は逆徳、争いは事の末と聞いております。
密かに逆徳をはかり、好んで凶器を用い、身を事の末に試みるのは、天帝の禁じ給うところであって、先に犯したほうが不利です。
と言う范蠡(范レイ)の諫言に聞き入れずに出陣した勾践は夫差に敗れ、会稽山に立て籠もった。
勾践は范蠡(范レイ)に対して、
諌めを聞き入れなかったが為にこの様な事になった。どうしたらよいだろうか?
と聞いた。范蠡(范レイ)は、
満を持して驕慢にならないものは、天にのっとり、すでに傾いたのを危うきに定めんとするものは、人に与し、用を節して事を治めんとするものは、 地の利を用います。
言葉を低くして礼を厚うして、財宝を贈られるのがよろしいでしょう。
それでも許されなければ、ご自身を差し出して後をお考えになりますように。
と答えた。
范蠡(范レイ)の言を聞き入れた勾践は、平身低頭して命乞いを行った。
伍子胥は勾践を殺す事を強行に主張したが、越の臣「文種」が夫差の側近「伯嚭(伯ヒ)」に賄賂を贈って夫差に勾践を助命するようにふきこまさせる等した事から、勾践は助命されて夫差に臣従する事になった。
夫差の馬丁となった勾践は、夫差の馬の世話をする事になったが、数日で根を上げたので范蠡(范レイ)は勾践を説得して、夫差の警戒心が解けるまで我慢させ、1年ほど勾践が馬丁の仕事を続けていると勾践は帰国が許された。
帰国した勾践は、国政を范蠡(范レイ)に任せようとしたが、范蠡(范レイ)は、
軍事については文種は私に及びませんが、 国家を治め人民を手なずけるのは私は文種に及びません。
と言って、柘稽と共に人質として呉に行く事を選んだ。
旱魃の時に舟を買い、洪水の時に車を買うのが物の道理です。
穀物を売り出すのに、穀価は高くても八十銭を超えず、安くても三十銭を割らないようにすれば、農商ともに便利です。
売価を公平にして物価を適正にし、関市を経て流通する物資を乏しくないようにするのが、国を治める常道です。
物資の過不足を考えれば、物価の高低はわかるもので、騰貴の頂点に達すれば、やがてかならず下落し、下落の極点に達すれば、やがてかならず騰貴するものです。 だから高いときには糞土を棄てるように惜しみなく売り出し、安い時には、珠玉を求めるように惜しんで買い入れ、 流通させるのがよいのです。
との進言を聞き入れて富国強兵に励み、呉の人質となった范蠡(范レイ)は、絶世の美女「施夷光(西施)」を夫差に送った。狙い通り施夷光(西施)の虜になった夫差は宮殿を増築するなど堕落していったので、さらに范蠡(范レイ)は、奸臣の伯嚭(伯ヒ)に賄賂を贈って伍子胥を呉の国政から遠ざけるようにし、伯嚭(伯ヒ)の讒言によって伍子胥は夫差から自殺させられてしまった。
そして紀元前491年。着々とフラグを積み上げていった范蠡(范レイ)は越への帰国が許された。
天地人
紀元前487年。勾践は范蠡(范レイ)に呉を討つべきかどうか聞いた。范蠡(范レイ)は、
天の時は至っておらず、まだ待つべきです。
とまだフラグ立てが出来ていない事を理由に反対し、勾践は呉と戦う事を取りやめた。
紀元前486年。勾践は范蠡(范レイ)に呉を討つべきかどうか聞いた。范蠡(范レイ)は、
人事は出揃いましたが、天の啓示がまだありませんので、しばらくお待ちください。
とまだフラグ立てが出来ていない事を理由に反対し、勾践は呉と戦う事を取りやめた。
紀元前485年。勾践は范蠡(范レイ)に呉を討つべきかどうか聞いた。范蠡(范レイ)は、
天地の兆候が呉の滅亡を啓示していません
とまだフラグ立てが出来ていない事を理由に反対し、勾践は呉と戦う事を取りやめた。
紀元前484年。勾践は范蠡(范レイ)に呉を討つべきかどうか聞いた。范蠡(范レイ)は、
人事が十分ではありません。 しばらくお待ちください
とまだフラグ立てが出来ていない事を理由に反対し、勾践は呉と戦う事を取りやめた・・・と無限ループを続けたわけでもなく、勾践は、
呉は稲の害が出ている。これこそ天の啓示である。
以前、人事は出揃ったといい、今、天の啓示があったのに、また人事は十分でないとはどういう事か。
と怒ったが、范蠡(范レイ)は、
天と地と人事の三つが揃って始めて成功するのです。しばらくお待ちください。
とまだフラグ立てが万全では無い事を伝え、勾践は呉と戦う事を取りやめた。
紀元前483年。勾践は、
呉は伍子胥が死んでから夫差に媚びへつらう者が多くなった。もう討つべき時だろう。
と言って范蠡(范レイ)に呉を討つべきかどうか聞いた。范蠡(范レイ)は、
まだその時期ではありません。
とまだフラグ立てが出来ていない事を理由に反対し、勾践は呉と戦う事を取りやめた。
そろそろ無限ループって怖くね?な状況になるかと思われた紀元前482年。それまでにも無理な遠征を繰り返して呉を疲弊させていたが呉王夫差は、諸侯と会盟する為に兵を率いて北上した為、呉の国内には公子の「友」の他には老人と子供と婦女のみが残っている状況となった。
勾践から今こそ好機か問われた范蠡(范レイ)は、天と地と人事の勝利フラグが万全であることを確認して、
よろしいでしょう。
と答え、勾践は呉に攻め込んだ。
呉滅亡
長い年月をかけて鍛錬した大軍を率いて呉に攻め込んだ勾践は、范蠡(范レイ)と「舌庸」に命じて急報を聞いて夫差が戻ってこようとする路を断たせ、勾践自身は一気呵成に呉に攻め込んで姑熊夷の地にて呉の公子「友」を滅ぼして呉都を占領した。
夫差があわてて呉に引き返してくると、勾践は
呉の全土を占領するにはまだ力不足である。
として夫差と和睦した。
そんな危機的状況に追い込まれたにもかかわらずに夫差は再び北へ出兵して呉の国力を疲弊させた。
そして紀元前483年。范蠡(范レイ)の策を用いた勾践が軍を呉に差し向けては戦わずに帰国する事を繰り返した事で、呉は越の軍勢はまだ何もせずに退くとみくびった為、本気になった越軍の攻撃をうけて惨敗を喫し、それから4年の後には夫差を姑蘇山に追い詰め、勾践が会稽山に追い詰められたのとまったく逆の状態となった。
勾践は、以前自分が同じ状況の際に許された事を考慮して夫差を許そうとしたが、范蠡(范レイ)は、
会稽の時は、天が越を呉に与えんとしたのに呉はこれを受けとりませんでした。
今は天が呉を越に与えようとしているのに、なぜ天に逆らうのですか。
君が朝早くから夜遅くまで政務に励まれたのも、呉のためではなかったのですか。
天の与えるものを取らなければ、かえって咎を受けます。
斧の柄をつくるため木を切る者は、いま持っている斧の柄に合わせて切ればよいのです。
君(勾践)は会稽の苦しみをお忘れになったのですか。
と言って夫差を殺して呉を手に入れるよう進言した。しかし勾践は迷った為、范蠡(范レイ)は、
王(勾践)は政を私に任せておられるのだ。
と兵を進軍させ、滅亡を観念した夫差は、自殺させる際に二十年後の呉の滅亡を予測していた伍子胥に詫びる為、目隠しして自決し呉は滅亡した。
呉を滅ぼした勾践は北の地にて、諸侯との会盟を果たして春秋五覇フラグを達成した。
君辱めらるれば臣死す
勾践は覇者となり范蠡(范レイ)は上将軍となったが、范蠡(范レイ)は
君主が憂えば臣下はこれに奔走し、君主が恥辱を受ければ臣下はこれに死ぬものと聞いております。
昔、君主が会稽で辱められました時、私が死ななかったのは、 恥を雪ぐ一事のためでありました。
今やその恥は雪がれましたので、会稽で死ななかった罪に服したいと存じます。
と言って、罪人として追放される事を望んだ。勾践は、
越を去るのならば、汝の妻子は殺されるであろう。
と恫喝したが、范蠡(范レイ)は、
王は制を行い、私は意を行います。
勾践は、范蠡(范レイ)の妻子を殺さず会稽の周囲を范蠡(范レイ)の領地として与え、范蠡(范レイ)の像をつくらせて礼拝した。
狡兎死して走狗烹らる
行方をくらました范蠡(范レイ)は、
「飛鳥尽きて、良弓蔵(かく)れ、狡兔死して、走狗煮らる」と聞いています。
(狡賢い兎が死ぬと賢い猟犬は煮て食われ、飛ぶ鳥がいなくなれば良弓はしまわれる)
勾践は、互いに苦難を共に出来ても、互いに楽を共にすることは出来ない顔相をしています。
貴方はなぜ越を去らないのですか。
と言う内容の手紙を文種に送った。手紙を読んだ文種は范蠡(范レイ)の手紙の意図を理解したが、范蠡(范レイ)の様に他国に脱出せず病と称して朝廷へ出仕しないようにしただけだった。
果たして、范蠡(范レイ)の手紙の内容の通り文種は謀反の疑いがあると讒言されて自殺させられた。
陶朱の富
施夷光(西施)を連れて斉の国へと渡った范蠡(范レイ)は、名を鴟夷子皮(しいしひ)と改めて浜辺を開拓し、計然が勾践に進言した策を用いて蓄財に励んで巨万の富を得た。
范蠡(范レイ)の成功を知った斉王が斉の宰相に迎えようとしたが、范蠡(范レイ)は、
家にいれば千金の富を得、官にいれば卿相の位になる。
これは布衣の身の極限で、永らく尊名を受けるのは不吉である。
と言って私財を分け与えて斉を去り、宋の国の定陶に移り住んで「陶朱公」と名のり、定陶の地でも商売で大成功をおさめて巨万の富を得、年老いて以降は、家業を子供に任せて悠々自適の暮らしを送った。
商売で大成功を二度も収め、子孫もまた巨万の富を築き上げた范蠡(范レイ)は「陶朱の富」の故事の元となり、後の世においては大商人の代表格となった。
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