「荊軻」(けい・か ? ~ BC227)とは、中国の戦国時代末期、かの秦王政(後の始皇帝)の暗殺を試みた刺客。
風蕭蕭兮易水寒
壮士一去兮不復還
司馬遷『史記』に数ある列伝の一つ「刺客列伝」で五人目として登場する。また、「傍若無人」という言葉の元になった人でもある。
概要
戦国時代末期、秦の力は強まり北の離れた燕にまでも及ぼうとしていた。小さい頃に人質として秦王に冷遇されていた燕の太子丹は、そのこともあって何とかして秦の侵攻から燕を守り、仕返しをしたいと頭を悩ませる。初め自分の教育係である鞠武に相談すると、
西の韓魏趙と連合し、北の匈奴と講和すれば秦に対抗することもできましょう。
しかし丹は時間がかかりすぎるとしてこれを却下。他にも秦が懸賞金をかけて捜している樊於期という将軍を匿った、つまりバレればいつ秦から攻撃を受けてもおかしくない状況で、飢えた虎が通る道に肉を置くようなものだと諫められても「樊於期のことは見捨てられない」という我侭を言う太子に対して鞠武は説得を諦め、田光という人物を紹介する。しかしその田光も自分を年老いた馬にたとえ、
駿馬は一日千里を行くけれども、老い衰えると駄馬にも先を越されるといいます。
と断った。そんなわけで田光が代わりに推薦したのが荊軻だった。彼も最初は断ったが、太子の強い懇願に押されてついには暗殺を引き受ける。
中国統一を成し遂げた「始皇帝」という名が残っていることからも分かるように暗殺は失敗してしまった。しかし刺客列伝を著した司馬遷は、荊軻以外の四人の刺客も含め、
義を成し遂げた者もそうでない者もいたが、その心は明白であり、己の志に反することはなかった。名声が後世にまで及んだのは決していわれのないことではない。
と結んでいる。
荊軻と高漸離
荊軻は燕で高漸離という筑の名手と親しくなると、市に行っては共に酒を飲み酔いしれ、気分が高まると高漸離が奏でる筑の音色に合わせて荊軻が歌い、やがて抱き合って泣き始めるその様は、まさに「旁(かたわら)に人無きが若(ごと)し」であったという。これが今で言う「傍若無人」の語源。本来は文字通り「近くに人がいないかのようだ」という意味で、現在使われるように傲慢・不遜といった意味はない。
ちなみに荊軻による始皇帝暗殺未遂には後日譚がある。
彼亡き後、高漸離は姓名を変えて密かに暮らしていた。しかし優れた筑の腕前が周囲に知れ渡るようになると、ついには始皇帝もその噂を知り、召し出して高漸離に奏でさせることになった。始皇帝の目の前に高漸離が姿を見せると、彼の顔を知るお付の人が、
あいつは高漸離と言って、あの荊軻の一味でございます
と告げた。始皇帝はそれを知った上でもなお、筑の腕を惜しんで彼を殺すことはせず、歯向かわれないように両目を潰した上で側に置くようになった。高漸離は、これを親友荊軻の仇をとるまたとない機会として筑の中に重りを仕込み、タイミングを見計らって始皇帝の頭上にそれを振り上げて殴ろうとするが、やはり暗殺には失敗しついには自身が殺されてしまう。
関連動画
関連項目
- 刺客列伝
- 始皇帝
- 高漸離
- 蓋聶
- 魯句践
- 春秋戦国時代
- 史記
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- 春秋戦国三国志
- 春秋戦国時代の人物の一覧
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