- プロ野球選手一覧 > 荘勝雄
荘勝雄(そう かつお、日本名:坂元良嘉(さかもと よしか))とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
---|---|
荘勝雄 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 台湾台南市 |
生年月日 | 1959年2月1日 |
身長 体重 |
175cm 75kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1985年 |
引退 | 1995年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
アマチュア時代から国際舞台で活躍し、体育講師として働きながら参加した1983年のIBAFインターコンチネンタルカップでは銅メダル獲得、5勝を挙げる活躍で最優秀投手に選出。1984年のロサンゼルスオリンピックにも出場し、郭泰源と共に先発を務め、キューバ代表相手に1失点で完投勝利を挙げるなど、銅メダル獲得に大きく貢献した。
1985年、台湾での安定した地位を捨て、ロッテオリオンズに入団。
初年度から先発・リリーフ双方で大車輪の活躍を見せ、郭泰源が肩を痛めた影響でオールスター出場辞退した際には代理で出場し、セ・リーグの強打者たちを完璧に抑えてみせた。この年は34試合に登板し、11勝10敗4セーブの好成績を残し、低迷するロッテの投手陣を支えた。
1986年、序盤戦は先発ローテーションの一角として起用され、中盤戦以降は抑え投手に転向し、当時のパ・リーグ新記録となる10試合セーブポイントと奮闘。11勝5敗18セーブの成績を残し、リリーフながら規定投球回にも到達した。
1987年は全試合先発で登板し、13勝11敗でローテーションの中心として活躍。1988年には11勝、1989年は15敗を喫しながら11勝を挙げ、入団から5年連続で二桁勝利を達成した。
1990年、肩痛の影響で出遅れ、後半戦はリリーフとして起用されたものの、5勝14敗9セーブと大きく負け越してしまった。また、シーズン途中に金田正一監督の勧めもあり帰化を申請した。
1991年、5勝8敗2セーブと精彩を欠いた。秋には日本国籍を取得。
だが、これまで起用法が安定しなかったことや酷使の影響が出てか、以降の年は低迷。1992年~1994年にかけて未勝利に終わっている。
1995年、リリーフとして登板し勝利投手となり4年ぶりの勝利を収めたが結局この1勝にとどまり、この年限りで現役を引退した。
引退後は古巣のロッテや、中国の江蘇ホープスターズ、台湾のLamigoモンキーズ、日本の独立リーグのチームである福井ミラクルエレファンツで監督・コーチなどを務めた。
2020年、台湾の野球殿堂である台湾棒球名人堂で49票の得票を得て、郭泰源らと共に台湾野球殿堂入り。
人物・エピソード
同郷のライバルである郭泰源・郭源治と異なり、抜群の制球力と多彩な変化球を駆使し凡打の山を築いた技巧派右腕。低迷するロッテのエースとして伊良部秀輝や小宮山悟らが台頭するまでの間の先発陣を支えた。
同時期に郭泰源・郭源治とともに台湾出身の投手として日本球界に旋風を巻き起こし「二郭一荘」と呼ばれた。
助っ人扱いながら通訳なし・合宿所暮らし・格安の年俸と待遇は悪かったのだが、持ち前の明るさと真面目さで日本語や日本文化を学び適応してみせた。
通算成績
投手成績
通算:11年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 297 | 74 | 9 | 70 | 83 | 33 | --- | .458 | 1305.1 | 535 | 693 | 645 | 588 | 4.05 |
関連動画
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt