菅原道真とは、神になった男である。
概要
生前は高級官僚まで登頂し、死後は文字通り神上がるという、もう一人の「神になった男」に次ぐ死後の地位を得た、ある意味で「死後充」である偉人。
道真は幼少より詩歌に秀で、また時の皇太子の教育係を勤めた父の後を継ぐべく、若い頃から非常なる勉強をし、そのお陰で宮中入りを果たすという、絵に描いたような勉強家であった。そして宮中に入ってからはまさに昇進に次ぐ昇進を重ね、特に時の天皇・宇多天皇と対立していた藤原氏への牽制を引き受けていたことから宇多天皇の信任も厚く、当時の藤原氏のトップ・藤原時平に次ぐ地位である右大臣の位を得る。
しかし、後に道真は天皇を中心とする中央集権体制の作成を説いたため、藤原時平のみならず地方分権を望んでいた有力貴族も道真に反発するようになる。やがてある政争に敗れたため、子孫共々京から離れた九州・大宰府に左遷され、官位も右大臣(従二位相当)から大宰権帥(従三位相当)に落とされた。(左遷ではあるものの、大宰府への道中および赴任後の扱いから実質的には流刑も同然であった。)
この没落の原因となった「政争」がどういったものであるかは諸説あり、時平の讒言を受けたという説から醍醐天皇と宇多上皇の勢力争いに巻き込まれたという説まである。
左遷という憂き目にあっても、天皇への忠節と自身の謹慎の悲哀を隠すことなく詩歌に託して大宰府に遺した。また、左遷の際に「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(春な忘れそとも)」と詠んだ所、京の旧宅から西国の大宰府までその梅の木が飛んできたという「飛梅」の逸話が同地で伝えられている。
果たして悲嘆に暮れた道真は、左遷からから2年後に薨去してしまう。遺体は太宰府付近の安楽寺に葬られた。
"天神様のお怒りじゃ"
しかし道真の没後、政敵・時平の頓死を皮きりに、時平ゆかりの者が急死したり、宮中に雷が落ちて藤原氏のみならず醍醐天皇も(間接的に)崩御するなどの凶事が相次ぎ、これは藤原氏に追い落とされた道真の怨霊の仕業であるという噂が立った。また、時平死後その座に就いた藤原忠平が道真に好意的であったこともあり、没後いくつもの追贈位を受け、最終的には時平を上回る正一位太政大臣の位を賜り、また天皇の下向により火雷天神を祭っていた京都府北野に道真を祭る北野天満宮が、没地である上述の安楽寺に安楽寺天満宮が建設された。
これら天満宮は設立当初"雷神"道真公の祟りを鎮める目的で建造され、人々は畏怖の念でもって参拝していたが、時代の遷移に伴って祟りを成していたという側面は忘れ去られ、逆に猛昇進のエピソードから学問の神として尊崇されることとなり、以来各地に道真公を祭る「~天満宮」や「菅原神社」などが建設されるようになる。
このような形で死後神に列せられる例は日本では初めての事であった。日本版関帝聖君(関羽)といえる。
もう一人の「神になった男」が色々大変な目に合っていることを考えると、このような形で尊崇を受けるようになった"天神様"はある意味で人生よりも幸せな未来を掴んだと言えよう。
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