葛西敬之(1940年10月20日 - 2022年5月25日)とは、東海旅客鉄道(JR東海)の実業家・経営者である。
概要
日本国有鉄道(国鉄)に入社後、労務畑を中心に従事し、国鉄末期においては国鉄改革3人組(松田昌士氏、井手正敬氏)の一角として現在のJRグループ民営化をおしすすめた。現在のJR東海の生命線である東海道新幹線及び関連事業を経営の基盤とする経営改革を推し進めるとともに、中央新幹線や米国テキサス州等の高速鉄道事業参入にも力を注いでいる。
なお、国鉄に入社したのは「東大卒なら出世できる」と駅員に言われたからで、入社時の総裁は十河信二である。
この経緯から、井手正敬に「葛西くんは鉄道に愛着がない」と後年いわれている。一方、入社当初は経理にもいた事や、後年のリニア自己建設などもあり「自分の会社で造れないなら造るな
」と整備新幹線計画には懐疑的な一面も持つ。
主な出来事
地方鉄道局時代
80年代に東京で分割民営化に携わる前は静岡や仙台といった地方の鉄道局で労務管理をしていた。
当時の国鉄本社は国労や動労が何かやらかしても(というかやらかしが日常でも)事を起こさない方針を取っていたが、葛西は本社の方針に関係なく普通に対応していた。
特に鉄労が強かった仙台でも普通にやっていたら、本社が「東北新幹線の主力となる仙台局でこれ以上好き勝手やられたらたまらん」ということで東京に栄転(という名の厄介払い)となった(なお、この件は労組側から理由も含め事前に聞いていた模様)。
分割民営化
東京に戻された頃に土光臨調が設けられたため、国鉄側の窓口としてかねてから葛西の頭の中にあった分割民営化作業に関わることとなる。臨調だけでなく自民党の三塚博の小委員会のアドバイザー的役割も果たした。
しかし、仁杉総裁の自爆も含め基本は常時監視の針のむしろ状態であり、本格的に動けるようになったのは杉浦総裁就任以降。
職員局として労務関係の処理を行い、動労の方針転換後には総評の横槍もありつつ国労対応にもあたった。
なお、当時の職員局で葛西と共に作業に当たったメンバーにはのちにJR東海の社長となる松本正之、山田佳臣やJR西日本の社長となる南谷昌二郎がおり、これら職員局のメンバーがJR東海とJR西日本の経営陣の主力となった。
JR東海時代
1987年4月1日にJR東海に入社後、(東海道新幹線があるからと)過大な国鉄債務を背負って発足したJR東海を存続させるため、会社の生命線である東海道新幹線の改善と経営環境整備(新幹線鉄道保有機構の解体など)に初代社長・須田寛とともに乗り出す。このなかで、国鉄時代に宮崎の実験線にいた若手より「(技術的にはいけるので)中央新幹線をリニアで作る」案が出たことでリニア中央新幹線にも関与。リニア視察でドイツに向かった帰りのTGV試乗中の「東海道でも270km/h運転は可能」との技術陣の意見から葛西を主査として300系の制作が始まった。
なお、300系誕生までは「技術的には0系から進化はないが、300系まではこれしかないのと減価償却費が少ない状態を解消する」ために100系を増備したが、食堂車の業者から「稼働時間も短く赤字で困っている」との訴えがあり、食堂車のX編成からビュッフェスタイルのG編成に変更した。この際、営業部門から「食堂車がなくなると旅情が失われる」と反発があったが、「東海道新幹線の利用者は東名阪を速く移動したいのであって旅情を求めていない」と一蹴した。
リニアについては1987年に計画がスタート。その直後にJR東日本とJR西日本から「国鉄の技術を使って勝手なことをしている」と苦情が来たが、新幹線鉄道保有機構解体に際してリニア中央新幹線の経営はJR東海が行うと確定させることで終結した。同様に開発の主導権を握ろうとした鉄建公団にもJR東海主導を認めさせた。後に国鉄債務の返済がバブル崩壊後の低金利により順調に進み財務的に支障がなくなったことで、リニア中央新幹線の自己建設を表明した。なお、リニア中央新幹線を第2東海道新幹線と言い換える
こともあった。
品川駅設置の件では(事前に運輸省とメディアへ情報を出したせいで)JR東日本の反対にあいつつ、運輸省の仲介とバブル後の地価下落で予定より安価に品川駅を設置できた。
社長退任後も長らく代表権を持ち、リニアや新幹線の海外輸出を中心に担当した。
品川駅の件に限らず、中国への新幹線輸出の件などでよくJR東日本とはぶつかった。
一方、井手正敬に大阪への新幹線の第2指令所設置や700系の共同開発を持ちかけたり、かつての同僚である南谷昌二郎を気にかけるなど、JR西日本とは穏健に進んだ。
なお、東海道新幹線が生命線のJR東海であるが、在来線については「東海道新幹線という太い幹に繋がる枝であり、個別に視るのではなく新幹線を含め全体が黒字であればよい」という方針を採っていた。
このためか、葛西が一線を退いた後もJR東海のみ路線別の利用状況については開示していない。
また、在来線軽視と言われることもあるが、100系G編成の発注にあわせて増便と国鉄型置き換えのために在来線車両の大量発注を行っているほか、電化について名古屋鉄道管理局の申し送り事項となっていた高山本線に電化を取りやめる代わりに国鉄時代のエンジンより高性能なカミンズエンジン搭載の気動車(キハ85系など)を導入することで利便性の向上を図っている。
名古屋駅改築
JR東海の前身にあたる名古屋鉄道管理局舎(先代の名古屋駅舎)を改築する際に将来を見越して「JRセントラルタワーズ」を建設することとなった。この際入店する百貨店として松坂屋と調整していたが、中心部の栄との競合を嫌った松坂屋から断りが入ったため、出店意向を持っていた高島屋に話を持ち込んだ。この際葛西は百貨店事業については全面的に高島屋に任せる形を取りJR側は役員こそ出すものの実務に口出ししないこととした。なお、開業後は(連結子会社ではないものの)高島屋有数の店舗に成長し、当初出店予定であった松坂屋をも抜いている。
同様にホテルについても杉浦総裁のつながりでANAに声をかける予定であったが、最終的にマリオットの日本初進出となった。
東海豪雨での出来事
2000年に発生した東海豪雨(平成12年台風第14号)に関して、当時愛知県を中心に警戒水準を超える降雨を記録していたのにもかかわらず東海道新幹線の運転を強行し、結果東京駅から米原駅の間に70本もの列車が立ち往生する事態となり、博多発東京行きの「のぞみ20号」が22時間21分遅れという前代未聞な遅延を引き起こした。この遅延の影響で甲子園へ向かっていた読売ジャイアンツの選手も巻き込まれたことから関西地区は雨が降っていなかったにもかかわらず試合が中止になり、またあまりの規模の大きさから運輸省(現在の「国土交通省」)も説明を求めた。なお、運転を強行したのは「遅れを最小限に留めたい」とした葛西の鶴の一声だったとされている。
これに対し葛西は定例記者会見で「あれは未曾有の大災害が原因で、正常で適切な運行だった」と発言したことで世間から猛反発を受け、運輸省からも「適切でない」として厳重注意を受けたことから、後の記者会見で「多くの乗客にご迷惑をおかけしました」と陳謝する事態になった。国鉄時代の国鉄労働組合(およびそれを支援する組織・団体)との対立や鉄道ファン嫌いによる反発からイメージがよくなかった葛西であるが、この件で葛西に対する憎悪が決定的となり、発信元が不明な噂が次々と流布された。有名なのが「東海豪雨のさなか葛西がのぞみに乗っていたが立ち往生となり、乗客が車掌に詰め寄ったのを見て身の危険を感じ、他の車掌に頼んで多目的室へ避難した」というものがある。これについて2ちゃんねるやブログで紹介され、さらにWikipediaにも記載されたうえノートページで「葛西がいかに臆病者かわかるエピソード」として嘲笑されていた。しかしこれについて一次出典が見当たらず、さらに主要メディアが一切取り上げなかったこと(キオスクからの締め出し覚悟で葛西の女性問題を掲載していた週刊誌も取り上げていなかったのを見ると圧力も考えにくい)、そもそも葛西が豪雨のさなか東海道新幹線に乗っているのは不自然ではないかということとなり、現在ではこの話は悪質なデマとされている(Wikipediaでも出典なしかつ悪質なデマとして履歴からも削除されている)。
なお、朝日新聞はこの件で葛西およびJR東海を批判するようになり、その後「サービス三流懲りた新幹線」や「新幹線の三景」といったJR東海のサービスが悪いかのような内容の投書を掲載している。
略歴
- 1963年4月 国鉄入社
- 1986年2月 国鉄職員局次長
- 1987年4月1日 JR東海取締役総合企画本部長
- 1988年4月 JR東海常務取締役総合企画本部長
- 1990年6月 JR東海専務取締役副社長総合企画本部長
- 1992年6月 JR東海代表取締役副社長
- 1995年6月 JR東海代表取締役社長(2代目、初代は須田寛
) - 2004年6月 JR東海代表取締役会長
- 2014年4月 JR東海代表取締役名誉会長
- 2018年4月 JR東海取締役名誉会長
- 2020年4月 JR東海名誉会長
- 2022年5月25日 死去(享年81)
関連項目
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- なし
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- うまし うるわし 奈良
- キハ75形
- キハ85系
- 311系
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- JR東海新幹線鉄道事業本部
- JR東海東海鉄道事業本部
- 須田寛
- そうだ京都、行こう。
- 東海交通事業
- リニア中央新幹線
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