葛飾北斎(かつしか ほくさい)は、化政文化を代表する江戸時代後期の浮世絵師である。
概要
森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表。『北斎漫画』に代表される達者な描写力、速筆が特徴。
版画、肉筆浮世絵、読本、挿絵芸術など活躍の場は多岐にわたり、春画においても「鉄棒ぬらぬら」「紫色雁高」という別名義にて多数の作品を残す。
(『蛸と海女』という春画作品が有名、北斎より先にニコニコ百科記事にされている。書いたやつ出てこい)
名義
名義をコロコロ変えていた。一番有名な「葛飾北斎」も5年間で変えている。「北斎」も弟子にあげている。主なものとして「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」。最終的には「画狂老人卍」になった。
奇行
奇行でもその名を知られ、以下のような逸話がある
- 名義を改号すること30回
- 転居すること93回
- 食事は自家で作らず全て出前、茶も隣の小僧に土瓶を渡し作らせる。
- 食い終わった器は片付けず、掃除もしなかったため蜘蛛の巣が張り布団にシラミがわくゴミ屋敷と化していた。
- 雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天が普段着。六尺の天秤棒を杖にしていた。周囲から「田舎ものだ」と言われるのを、ひそかに喜び、歩くときに常に呪文を唱えていたという。
- 金銭に無頓着。稼いだ金は封も解かず、飲食代などを求められると額も確かめず封ごと金を投げつけた。
- 挨拶をしても生返事など礼節に無頓着。ただ横柄ということではなく、「おじぎ無用、みやげ無用」と張り紙するように形にはこだわらない人物だった。
- 発注元とトラブルは常。指示と違う挿絵を作り作者と衝突を繰り返した。
- 顧客とのトラブルは常、それにも関わらず却って評価を高めるあたり画力の凄さを窺わせる。
来歴
生い立ち 1歳~18歳
己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし
これは75歳のときに記した文である。当時は生まれ年を一歳として正月で加算される「数え年」だったため、冒頭の「六才」は今の4~5歳にあたる。つまり北斎は<物心がついた頃から描かずにいられない性分であったこと。「半百」すなわち50才の頃から(自分らしい)「画図」(絵)を描けるようになったが、70歳以前の作品は取るに足りぬものであったこと。(富獄百景シリーズを手掛けた73歳ころにようやく生物の骨格や生き様を悟り(対象物を生き生きと)描けるようになったこと。この分だと86歳で益々進み、90歳で絵の奥義を極め、100歳で神技に達するだろう>と記す。
北斎は1760年9月23日、本所割下水(南割下水、現墨田区「北斎通り」)で生まれた。幼名は時太郎、後に鉄蔵。その後養子になる。家業の鏡師は継がず、一時貸本屋で働いたり、16~19歳頃には板木の文字彫を行ったりしてたという。
浮世絵師としての出発 19歳~35歳
北斎は数え19歳の頃、役者絵で人気を博した浮世絵師、勝川春章に入門した。春章の画域は広く、美人画・相撲絵・武者絵・浮絵も描き、老年の円熟期には美人画を中心とした「肉筆浮世絵」に専念した。
この時期に注目される作品は、役者絵。黄表紙挿絵・浮絵である。北斎は入門一年目にして春章の「春」、別号「旭朗井」から一文字ずつ拝領した「春朗(しゅんろう)」という号を使用し始めた。そのデビュー作が1779年「春朗」と記す三点の「細判役者絵」とされる。師の得意分野で入門後すぐに実力が認められたことが窺える。
入門2年後1780年には「黄表紙」(洒落と風刺を織り交ぜた大人向き草双紙)「驪山比翼塚」の挿絵も担当した。この時代は狂詩・狂歌の流行期であると同時に、黄表紙、洒落本(遊里を舞台とした絵草紙)が脚光を浴びた時期でもあった。これは北斎においても画才文才あわせ備えた通人への強いあこがれがあったと思われる。このあこがれは後年の絵入り手紙だけでなく、『北斎漫画』や絵手本にも影響した。黄表紙と同様、日常生活をうがち、滑稽表現を織り交ぜた表現が光るためである。
3つ目の「浮絵」は18世紀前半、西洋の透視遠近法を散り入れた風景画を指す。1764年~80年歌川豊春は、輸入銅版画を通じ習得した遠近法を使い「浮絵東都両国橋有涼之図」など、身近な戸外風景も「浮絵」に仕立てた。この流行に乗じて北斎も「新板浮絵」を手がけたことは、70歳代「富獄三十六景」を始めとした風景版画誕生の礎となった。
北斎が生涯、勝川派を貫かなった理由には<狩野家に画法を学んだため春章が怒って破門した><兄弟子の勝川春好と不仲であったため勝川派から出ていった>という逸話が伝わる。春章没後も北斎は「春朗」と記すため破門説は否定されているが、さまざまな画法を学ぶことによって自己の画境を開拓した北斎らしい逸話といえる。
(つづく)
参考文献
お絵カキコ
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関連項目
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