藤原定子(ふじわらの ていし / さだこ、977~1001)とは、第66代天皇・一条天皇の皇后である。
概要
藤原道隆と高階貴子の長女で、藤原伊周は同母兄、藤原隆家は同母弟にあたる。
990年、一条天皇の元服に伴い女御として入内、すぐに中宮となる。定子は一条天皇より3歳年上だったが、夫婦仲はとても良かったと伝えられている。母譲りの才能から、定子は明朗活発でそのサロンは華やかであり、枕草子の作者・清少納言が活躍した。
ところが、父・道隆の病没により定子の運命は急転する。道隆の弟・藤原道長との権力争いに敗れた兄の伊周が、弟・隆家と共に花山法皇を弓で射るなどの事件を起こし、それぞれ太宰府・出雲に左遷。定子は兄弟の不祥事の責任を取って出家して、宮中を去ってしまう。この翌年には母・貴子も失い、定子は身寄りの無い境遇に立たされることとなる
定子を深く愛する一条天皇は、定子を哀れみ無理に彼女を還俗させて宮中に呼び戻し、以前にも増して定子を愛し続け、脩子内親王・敦康親王を産んだ。しかし、定子にとっては仇敵である道長は、自分の娘・彰子も一条天皇に入内させる。これによって彰子が中宮となり、定子は皇后宮となる(書籍では、定子は中宮から皇后へ形式上は昇格したと説明することが多いが、中宮も皇后に含まれるので、この説明は正確には正しくない)。
こうした政治的圧力が彼女を苦しめたのか、定子はそれから一年も経たずに、第三子の媄子内親王を産むが、難産のため24歳の若さでその薄幸の生涯を閉じた。一条天皇の嘆きは尋常ではなく、敦康親王と定子が自分の命を犠牲にして産んだ媄子内親王も夭折した。彼女もまた、藤原道長の栄華の犠牲者の一人であった。
藤原定家は百人一首のプロトタイプとも言われる「百人秀歌」に、定子の辞世の句「夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき」を載せている。自分がこの世を去ることで、最愛の夫・一条天皇との別れの悲しみを歌ったこの和歌を、定家は百人一首からは外している。うた恋い。の作者・杉田圭は、定家が枕草子の写本・三巻本の筆者とも言われることから、枕草子に描かれた定子像を崩さないために敢えてこの歌を入れなかったのではないかと論じているが、真相はただ定家のみが知るといったところだろうか?
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関連項目
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