藤原忠通(ふじわらの ただみち、1097~1164)とは、平安時代後期の貴族・歌人・書家である。
概要
百人一首76番の作者。藤原頼長の兄で、近衛基実・松殿基房・九条兼実・慈円の父。
藤原忠実の長男として生まれ、白河法皇に疎まれた父に代わり、鳥羽天皇の関白となる。以降、崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の4代にわたって摂政・関白・太政大臣を務めた。忠通は長らく男子に恵まれず、忠実の意向で弟の頼長を養子に迎える。弟と言っても頼長は忠実が年取ってからできた異母弟であり、23歳も年が離れていた(ちなみに、父・忠実とは21歳差)。だが、忠実が頼長を溺愛したことと、忠通が40歳を過ぎてから次々に男子が生まれたことが原因で、忠通は父や弟と次第に対立していくようになる。
頼長が養女の多子を近衛天皇に入内させて皇后になると、忠通は自分の養女・呈子も天皇に入内させ、中宮となってこれに対抗させた。これを知った忠実は、源為義に命じて藤原家の氏長者の資格である家宝の朱器台盤(しゅきだいばん)を忠通から奪い取り、頼長に授与した。これによって氏長者の座を頼長に追われた忠通だったが、頼長が近衛天皇を呪詛した疑いを掛けられて失脚すると政権復帰(もっとも、近衛天皇の生母・美福門院得子と組んで、でっちあげたという説も有力だが)。保元の乱では後白河天皇方に付き、平治の乱では二条天皇や平清盛を支持し、動乱の平安末期を巧みに生き残った。
父や兄との対立に加え、保元の乱前夜の暗躍から、謀略家などの黒いイメージを受けやすい忠通だが、性格はおおらかで温厚な人柄だったと言われている。「悪左府」の渾名がある通り、周囲に憎まれるのを百も承知で急進的な政治改革や苛烈な性格で周りが敵だらけだった弟・頼長とは対照的に、これといった政敵もおらず、天皇家からの信頼も厚かったことからもそれが窺える。当時の藤原摂関家は、藤原道長の頃の栄華はどこへやら、白河天皇が始めた院政によって政治の中枢から遠ざけられ、おまけに、父・忠実が白河法皇や鳥羽天皇の信頼を失い、摂関家は衰える一方だった。
忠通の生涯は、藤原摂関家を絶やさずに存続させることに終始した。弟の頼長は腐敗した朝廷を根本的に改めるために、不正役人の更迭など徹底して厳しい執政を行ったが、それ故に孤立し、保元の乱で藤原摂関家そのものが窮地に立たされることとなる。政治の手腕は頼長に一歩譲るものの、忠通は敵を作らず周囲と協調し続けることによって生き延びることに成功したのかもしれない。新興勢力であった平清盛にも忠通は概ね友好的で、清盛が比叡山の神輿に弓を引いた所謂祇園闘乱事件でも、頼長が清盛と父の忠盛の流罪を激しく主張したのに対して、あくまで中立姿勢を貫き、平氏を重用する鳥羽法皇に判断を委ねた。晩年には、嫡男の近衛基実に清盛の娘・盛子を嫁がせるなど、平氏との連携を図ったが、これもかつての摂関家では考えられない事態だったであろう。こうした政策が功を奏して、彼の子孫は五摂家として現在に至るまで存続していくのである。
忠通本人は、摂関家がひとまず安泰したのを見届けてから、崇徳院が讃岐で憤死する半年前に病没した。藤原定家が記した「明月記」によると、次のような逸話がある。忠通は晩年に女房の五条を寵愛したが、彼女は実の兄弟である源経光と密通しており、雑仕女から忠通に伝わってしまう。よせばいいのに忠通がその現場に駆けつけると、二人はまさにヨスガっている最中。このショックで彼は病に倒れ、間もなく亡くなったという。なんとも気の毒な最期である。
百人一首では、「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲ゐにまがふ 沖つ白波」の和歌が選定されている。スケールの大きな作品であり、この和歌は後に保元の乱で対立する崇徳院が開催した歌合わせで詠まれた(ちなみに、番号も崇徳院は忠通の直後である)。百人一首の名義は、法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)であるが、これは百人の歌人の中で最も長い名称である(逆に一番短いのは、19番の伊勢)。また、忠通は和歌だけでなく、漢詩や書道にも優れていた。彼の書道は藤原行成の世尊寺流を学び、晩年に住んだ法性寺から法性寺流を開いた。男性的で大胆な筆遣いから、法性寺流は鎌倉時代に広まった。
関連項目
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