藤原道綱母(ふじわらの みちつなのはは、936?~995)とは、平安時代中期の女流作家・歌人である。
概要
日記文学「蜻蛉日記」の作者。百人一首53番の作者で、中古三十六歌仙の一人。
藤原兼家の妻の一人で、その名の通り藤原道綱の生母である。公式系図「尊卑分脈」の中でも、小野小町・衣通姫と共に本朝三美人に数えられている。しかし、その美貌とは裏腹にその生涯は不遇であった。「蜻蛉日記」によると、その美しさに目を付けた兼家がしつこく通い詰めて、無理矢理妻にされたとある。ところが彼は浮気性だったのか、次第に他の女性の元へ向かうようになり、道綱母は半ば捨てられたも同然の扱いだった。道綱を産んだ後も状況は好転せず、藤原道隆・藤原道兼・藤原道長を産んだ正妻の藤原時姫には激しくライバル心を燃やしたようである。
百人一首には「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」の歌が入選しており、「蜻蛉日記」にも当然この歌は載っている。この歌を詠んだのは道綱を産んだ直後で、道綱母が20歳頃のこと。我が子が生まれて安堵したのもつかの間、夫に愛人ができたことが発覚し、彼女の心は怒りと苦しみに苛まれていた。そんなある日、ずいぶん久しぶりに兼家が彼女の邸を訪れて門を開けるよう頼んだ。しかし夫の浮気に腹を立てた道綱母は、あくまで門を閉じて自分の屋敷に入れようとせず、兼家は機嫌を悪くして帰ってしまった。間もなく道綱母は、枯れた菊の花を添えてこの和歌を兼家に送ったという。歌の意味は百人一首の一覧に書いてある通りだが、正妻で無い故に、いつ通ってくるかも分からない不安定な境遇の我が身を、彼女はどうしても伝えたかったのであろう。
しかし、道綱母は兼家の寵愛を取り戻すこともできず、その出生故に昇進が異母弟の道兼・道長より遅れる我が子・道綱の将来を案じながら、道綱母は40歳の頃に「蜻蛉日記」の執筆を終えた。兼家の死から5年後、道綱母は不遇のままこの世を去った。当時は天然痘が大流行しており、前年には甥で兼家の養子になっていた藤原道信が、同年には道兼が相次いで亡くなっていた。道綱母も天然痘で倒れたという説もあるが、いかんせん彼女はその名前すら残っていないほど歴史史料の少ない人物なので、その最期もよくわかっていない。
「蜻蛉日記」は女流文学の先駆けとなり、紫式部の源氏物語にも深く影響を与えるなど、男女問わず当時の知識人にも知られていたようだ(このため、兼家は捨てた女に恨まれる浮気性であることはバラされるハメに・・・)。その呼び名からややこしいかもしれないが、後に「更級日記」を記した菅原孝標娘の母親は藤原道綱母の妹で、菅原孝標娘とは伯母と姪の関係にあたる。しかし菅原孝標娘が生まれたのは、藤原道綱母が亡くなってから10年以上も後のことであり、藤原道綱母と菅原孝標娘の母親は異母姉妹で、面識も無かっただろうと思われる。
関連項目
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