藤岡弘、とは、愛媛県松山市出身の日本の俳優・声優・歌手・ナレーターである。武道家としても知られる。
仮面ライダー1号・本郷猛や当時の興行収入記録を塗り替えた大ヒット映画『日本沈没』の小野寺俊夫、大河ドラマ『真田丸』の本多忠勝など、老若男女問わず幅広い層から支持されている。ちなみに、現在では渡辺謙や真田広之、浅野忠信などが加盟している全米映画俳優組合に日本人で初めて加入した人物であり、全編英語のハリウッド映画で主演を務めた唯一の日本人俳優である。
お茶の間では、セガサターンのイメージキャラクター・せがた三四郎やテレビ朝日系の特別番組『藤岡弘、探検隊』での隊長としても人気を博した。
また、自らの名を関したブランド『藤岡、珈琲』を発足させるほどのコーヒー好きである。身長は180cm、血液型はO型で、足のサイズは27cm。幼少時に柔道や空手で鍛え抜いた体躯を武器に、初代仮面ライダーでは自らスーツアクターもこなし、70歳を超えた今なお、乗馬や殺陣など、激しいアクションをほぼ代役なしで演じる身体能力の持ち主である。
所属事務所は個人事務所「SANKIワールドワイド」。ファンクラブは「弘・道<HIROSHI-DO>」。公式サイトは藤岡弘、 公式サイト SAMURAI-DO。
概要
1946年2月19日生まれ。警察官であった父の手ほどきで幼少時より空手、柔道を習得。他にも居合道、刀道、小太刀護身道、抜刀道等の武術の有段者である。また、槍や手裏剣なども自在に使いこなす。
普通・大型特殊自動車、大型自動二輪、スキューバダイビング、小型船舶・パワーボート、銃砲、自家用飛行機、調理師免許、アマチュア無線といった数々の資格を取得している。陸・海・空の全ての移動手段を網羅し、料理までこなすサバイバル能力の高さは、各種バラエティ番組などで存分に発揮されている。著書『藤岡弘、の人生はサバイバルだ。』では、愛用するサバイバル用品の紹介やサバイバル哲学を惜しみなく披露している。
ちなみに愛車はトヨタ・ランドクルーザーと、スズキGSX1300Rハヤブサ。2016年公開の主演映画『仮面ライダー1号』ではヘルメットを装着せずに高速でバイクを走らせる藤岡の勇姿を堪能することができる。
男たちよ、女の尻を追いかけるより、ジャングルに行ってジャガーのケツを追いかけろ!!!!!
俳優デビュー~栄光の仮面ライダー~
1965年、松竹ニューフェイスとしてデビュー。
1971年、特撮ドラマ『仮面ライダー』において本郷猛/仮面ライダー(新)1号を演じ、同時にスーツアクターも兼任している。
撮影中にバイク事故で左大腿部を複雑骨折し、長期休業に追い込まれるものの、不屈のサムライ魂で復帰。
(この長期休業の間にストーリー展開されたのがライダー2号編。)
以降、『仮面ライダー』を不動のシリーズとして礎を築く。
武士道、亜米利加へ
海外作品においては1984年、ハリウッド映画『SFソードキル』に初出演。
余りにも史実とかけ離れたサムライの劇中描写にダメ出しをしまくってシーンを変更させたと言う逸話がある。この頃に英会話を特訓し、現在では通訳なしで英会話ができる。また、かのジェームズ・キャメロンとも知り合い、現在に至るまで親交が深い。
なお、米国俳優協会に入会した際のある出来事がきっかけで名前の後ろに「、」を付けると言う改名を行っている。
セガサターン、しろ!
仮面ライダーの他にも多数のドラマ等に出演している事は有名であるが、中でもセガサターンの一連のCMで「せがた三四郎」役で出演していたことは記憶に新しい。
野球少年にサターンを押し付け、いや薦めたり、桜の花散る中で真宮寺さくらとイチャイチャしたり、ゾンビと戦ったりと多くのサターンユーザの心を掴んだ事は………ゲームファンの記憶にも刻みつけられていることだろう。
ちなみに、劇中で披露された瓦割り、素足でスケートなどの危険なアクションは実際に藤岡が代役なしで行っていた。
当時、ある事情によって多額の負債を抱えてしまっていた藤岡にとってはありがたいヒットとなった。
サムライの戦(いくさ)は続く……
2002年、故・川口浩の後を引き継ぎテレビ朝日の「藤岡弘、探検隊シリーズ」で秘境を探検し、「藤岡隊長」として新たなファン層の開拓に成功した。
また、世界を股にかけてボランティア活動も積極的に行っており、NGO団体「グローバルレインボーシップ」の理事として世界各国の紛争地帯や貧困地帯を訪問。日本国内においても、1993年の北海道南西沖地震、1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東日本大震災では一早く食料や物資を調達。「被災地に仮面ライダーがやってきた!」の見出しが全国紙面に踊るなど、根強い人気ぶりを改めて証明した。
また、東日本大震災では宮城県石巻市を巨大な津波が襲ったが、市内に設置されていた仮面ライダー1号像は、周囲が壊滅的な被害を受ける中で、力強い変身ポーズを保ったまま、元の場所から寸分もズレることなく立ち続けていた。人づてにそのことを聞いた藤岡はすぐさま現地を訪問。像の前で復興への思いを込めた変身ポーズを披露した。(→参考画像)このエピソードは現地の被災者を勇気づけ、現在では復興のシンボルとして地元の住民に親しまれている。
その他にもサムライぶりを発揮した濃いエピソードが多数在るが、Wikipedia等や本人の著書に詳しく記載されているので 機会があれば閲覧したり、読んでみる事をお勧めする。
仮面ライダーにおける細かなエピソード
仮面ライダーをやっていた時代のことは「青春時代」と称して語っている。上記のように仮面ライダーのスーツも着て演じていた。藤岡が入って演じたことによって、ヒーロースーツのあるべき姿の模索にもなった。
有名な事故の後、仮面ライダー第1話の放送を病室で見ることになったが、せっかく大役を掴んだ先に起こしてしまった事故という悔しさがつのり、放送は最後まで見ることが出来なかったという。
入院生活中はその悔しさから、どんな友人の見舞いがきても応じる気持ちになれず、帰ってもらっていたほどだった。退院後は友人に勧められた整骨院で必死にリハビリを行なっていた。当時の院長の息子(父を継いだ二代目の医師)は、仮面ライダー直撃世代で、「藤岡が右足を立てて寝ている姿がとても格好良かった」と語っている。
佐々木剛や宮内洋と比較すると、TV番組やイベントで変身ポーズを見せる機会が少ない。これは藤岡がしっかり精神を整えてからでないと出来ないからのようである。つまり突発的に「変身ポーズやって!」という軽はずみな状況下では出来ないという意味のようだ。
ちなみに佐々木剛とは所属していた劇団が同じ戦友だったので、強い信頼感があったようである。前述の変身ポーズも先に披露したのは周知の通り佐々木であり、復帰した藤岡はそれを継承する形となった。本人曰く「自分が一番変身ポーズが下手」と自嘲するほど、この決めポーズは「恥」があったため、なかなかうまく行かず、佐々木に励まされながらなんとかやったらしい。
平成ライダーに対する姿勢
最近、仮面ライダー大戦、平成ライダーvs昭和ライダーに出演した際、「平成ライダーだと・・・お前の様なヒヨっ子をライダーと認める訳にはいかん!」と言うセリフを残しているが、仮面ライダーアギト、PROJECTG4では、「俺の時代に出来なかった事を君達がやってくれ!」と津上翔一と氷川誠に送っている事から、これは脚本上の都合による物で有る。
実際、藤岡弘氏本人は、平成ライダーの俳優と楽しげな表情で写真を撮っている。また、「ごきげんよう」にて、仮面ライダードライブの泊進之介役、竹内涼真氏と共演した際は藤岡弘氏本人がタイに観光に行った際のエピソードを思い返し、「君が仮面ライダーの撮影を終える頃には、きっと世界中に認知される様に成りますよ。色んな人に感謝出来る姿勢を忘れない様に。」と応援に思えるエールを送っている。
スーツアクターが仮面ライダーのスーツを着て演じる事にどう思いますか?と言うインタビューに対しては、「俺の頃は自分で着て撮影する事も有ったし、怪我もした。今の時代は良いねぇ・・・、俺もその頃に生まれたかったよ。ハハハッ」と答えている。なお、その後トミカヒーローで着装もした模様。
伝説の再会
せがた三四郎で大ブレイクしていた頃、テレビ番組の企画で小河内ダム(仮面ライダー第1話における一番最初の撮影場所)に訪れるという企画があった。
懐かしさのあまり「自分の青春時代が蘇ってきた」とホロリとしていたが、その時にサプライズで大野剣友会の面々がやってきた。久々の再会を前に、藤岡は人目をはばからず男泣きを見せていた。その後は大野剣友会の面々と仮面ライダー対ショッカー戦闘員の立ち回りを久々に演じて昔を懐かしんだ。
その後は緑川ルリ子役の森川千恵子(当時は真樹千恵子、番組でのテロップはカマフォード・千恵子)と再会するなど、特撮ファンには胸熱な番組企画だった。
主な出演作
- 仮面ライダー(本郷猛/仮面ライダー1号、新1号)
- トミカヒーロー レスキューフォース 爆裂MOVIE (刑部零次/R0)
- トミカヒーロー レスキューファイアー(刑部零次)
- 劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4(警視総監)
- 特捜最前線(桜井哲夫警部)
- セガサターンのCM(せがた三四郎)
- SFソードキル(タガ・ヨシミツ)
- 真田丸(本多忠勝)
※その他出演作はTVドラマ等多数。詳細はWikipedia等に詳しい。
関連動画・生放送
関連コミュニティ
関連項目
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