藤本博史(ふじもと ひろし)とは
- 南海・ダイエー→オリックスに所属した元プロ野球選手。ポジションは内野手。現在は福岡ソフトバンクホークスの監督。
- オリックス・ブルーウェーブに所属した元プロ野球選手。ポジションは捕手。欽ちゃん球団にも所属した(アミノバリュー藤本)。
概要
- プロ野球選手一覧 > 藤本博史
福岡ソフトバンクホークス #81 監督 |
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藤本博史 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府忠岡町 |
生年月日 | 1963年11月8日 |
身長 体重 |
183cm 102kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手、一塁手、二塁手 |
プロ入り | 1981年ドラフト4位 |
引退 | 1998年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
入団からしばらく二軍ぐらしが続いたが、南海ホークス最後の年となる1988年についに開幕スタメンの座を掴んだ。規定打席には遠く及ばなかったものの、本塁打を7本放ち、大砲の片鱗を見せた。
福岡ダイエーホークスとなった翌年以降もレギュラークラスとして活躍するが、なかなか規定打席には届かなかった。田淵幸一監督3年目となる1992年に全試合出場(130試合)を果たし、ついに規定打席にも到達した(28位)。本塁打も20本を記録した。
根本陸夫が監督に就任した1993年は、それまでの三塁手から一塁手に転向してレギュラーに定着した。しかし、オフに秋山幸二、松永浩美らを獲得する超大型補強が敢行され、一塁は新外国人選手のブライアン・トラックスラー、三塁は松永に奪われることが確定的になってしまった。開幕からしばらくはベンチを温める日が続いたが、大田卓司打撃コーチの進言で何と二塁手としてレギュラーに復帰することとなった。
王貞治が監督に就任した1995年は、トラックスラーが退団したため一塁手に戻った。翌1996年も開幕スタメンの座は離さなかったが、成績は低迷し、徐々にスタメン落ちする機会も増えた。7年連続で続けていた2桁本塁打も途切れてしまった。
1997年は若手の台頭もあって出場機会が激減し、翌1998年のシーズン中にオリックス・ブルーウェーブへのトレードが成立して移籍した。しかし、ここでもはかばかしい成績を残すことが出来ず、この年限りで引退した。
現役時代からヒゲがトレードマークで、ダイエーでヒゲといったら藤本だった。これには理由があり、視力の低下した祖父がテレビ越しでも簡単に見つけられるようにという「目印」としてのものだった。それ以来、引退後も剃っていないが、秋季キャンプ合間に「日本一になったら髭を剃る」という珍公約を掲げた。
ちなみに、当時のホークスには藤本以外にも小川史、森脇浩司、湯上谷竑志と「ひろし」の内野手が合わせて4人も所属していた。藤本はファーストも守れるため4人ひろしの内野陣を組むことも可能だったが、スターティングメンバーでこの4人が揃うことはついになかった。
引退後は、TVQスーパースタジアムやJSPORTS STADIUMで主に福岡ソフトバンクホークス戦で解説をつとめる傍ら、居酒屋「藤もと亭」を経営していた。
2010年オフに小林至取締役の推挙により、ホークスに指導者として復帰することが決まった。2011年から2018年まで一軍と二軍で打撃コーチを努め、2019年、2020年は三軍監督、2021年は二軍監督を努めた。
そして2021年10月29日、辞任した工藤公康の後任として一軍監督に就任することが発表された。
なお、現在の福岡ソフトバンクホークスのチャンステーマは元々は藤本の選手別応援歌であった。
通算成績
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1103 | 3582 | 3039 | 302 | 715 | 105 | 419 | 10 | 55 | 13 | 464 | 11 | 697 | 82 | .235 | .337 |
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関連項目
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