藤田信吉(ふじた・のぶよし 1559 ~ 1616)とは、戦国武将である。後北条氏、上杉氏などの家臣であったが、江戸幕府体制下では大名となった。しかし…。
概要
数いる戦国武将の中でも、特に奇妙な人生を歩んだ人物のひとりであろう。直江兼続のライバル的存在でもある。
先代から北条傘下に入っていた武蔵国人・藤田氏の一族。時代の波に翻弄されながら、北条→武田→織田(滝川)→上杉と主を変えていった。上杉家中では新発田重家の乱の鎮圧に活躍するなどして、新参の身ながら上杉景勝より重用される。
しかし豊臣秀吉の死後、徳川家康との取次役を務めていた事から、反徳川を主張する直江兼続と対立。半ば追放される形で上杉家を出奔し、会津征伐・関ヶ原の戦いの一因となった。関ヶ原後は下野国に西方藩1.5万石を与えられ大名となる。
が、大坂の陣の後に改易され、翌年に急死。自殺とも言われている。
直江兼続を主役とした創作作品では、徳川に通じて讒言した奸臣・悪役として描かれる事も。
生涯
北条時代
系図上は藤田康邦(藤田重利)の子とされているが、康邦は1555年没なのでいきなり矛盾してしまう。なので実際には孫や甥ではないかと推測されている。真の父親はともかく、武蔵七党の流れを組む有力国人、秩父方面の広域を治めていた藤田氏の一族の生まれである。
父(?)康邦は北条氏邦(北条氏康の子)を養子に迎えて藤田家を継がせることで北条傘下に入った。以後、本来の藤田一族は用土氏を名乗って藤田氏邦に仕える立場となるが、康邦の子(信吉の兄?)・用土重連は1578年に氏邦により暗殺されてしまった。
重連の跡を継いだ用土新六郎(のちの信吉)は、氏邦に仕えて沼田城代に任命された(猪俣邦憲・金子美濃守と共同)。しかし重連暗殺以来の確執からか、真田昌幸の調略に乗り、金子と共に沼田城ごと武田方へ寝返る。1580年の事であった。ここから沼田城を巡る北条と真田の因縁が始まる。
武田時代・織田(滝川)時代
武田家に属してからは用土から藤田に苗字を戻す。また武田勝頼からは武田氏の通字である「信」の字を与えられた。[1]
しかしわずか2年で武田家は滅亡。他の上野国人たち同様、織田家の滝川一益に仕えることになる。
が、これまた半年もせずに本能寺の変が発生する。信吉はこの混乱に乗じて沼田城奪取を計ったが失敗。越後の上杉家の下へと逃亡した。
上杉時代(1)
かつて藤田氏は山内上杉氏の傘下であった。時代は変わったが、何の因果か再び上杉家に仕えることになる。
この上杉時代は信吉の全盛期であったといえる。特に、苦戦を強いられていた新発田重家の乱においては新潟湊を奪取する、救援に来た蘆名勢を撃退する、五十公野城(いじみの~)を落とすなど抜群の戦功を挙げた。こうして上杉景勝からの信頼を得た信吉は、直江兼続と並ぶ重臣へと駆け上がっていく。
その後の小田原征伐にも従軍し、関東をよく知る人物とあってか上杉軍の先鋒を任されている。更に因縁の義兄・藤田氏邦の籠る鉢形城を攻略するなど、ここでも多くの武功を挙げた。
なお氏邦は信吉や前田利家により助命嘆願がなされ、加賀の前田家に預けられて1597年に没した。
上杉時代(2)
時代は豊臣秀吉の天下となり、文禄・慶長の役や会津転封といった出来事を経るも、信吉は引き続き重臣として上杉家を支える立場にあった。ところが、秀吉の死去により彼の運命はまたも激しく変転する事になる。
1600年の正月、藤田信吉は上杉景勝の代理として上洛した。景勝自身は昨年9月に会津に戻ったばかりであり、領国経営に当たる必要があった為の代理役であった。ところがその直後の2月に、上杉の後釜として越後を治めていた堀秀治が上杉家謀叛の噂を訴え出るという事態が発生する。
以後信吉は、徳川家康に対しては弁明に努め、景勝に対しては説得に努めるなど会津と大坂の間で奔走する羽目に陥る。しかし、石田三成と親しい直江兼続は既に反徳川の意志を固めており「信吉は徳川家康に懐柔・買収された内通者である」と主張した。
これにより孤立した信吉ら避戦派は3月(あるいは7月)、半ば追放される形で上杉家を出奔する。共に出奔した栗田国時は追手に殺害されるが、信吉はなんとか江戸へと逃れ、更に京都で出家した。
以後も大坂の家康とは接触していたようだ。信吉の真意は不明であるが、直江状では「藤田信吉は家康に讒言している」と断じられている。ともかく、彼の出奔は徳川と上杉の対立関係を決定的なものとし、会津征伐・関ヶ原の戦いのきっかけの一つとなった。
江戸時代
出家・蟄居していた信吉であったが、関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると家康に取り立てられ、還俗して藤田重信と改名した。下野国西方藩1.5万石が領地として与えられ、大名に列する事になる。
こうして流転の末に戦国の勝者に辿り着いたかに見えた信吉改め重信であったが、そんな彼に最後の落とし穴が待っていたのだった……。
大坂夏の陣では57歳。榊原康勝(榊原康政の子)の軍監を務めたが、戦後、働きに失態があったとして改易されてしまう。天王寺・岡山の戦いにおいて彼が進軍タイミングを見誤った事で真田幸村の猛攻を許してしまったから、戦功を巡る失言があったから、と諸説あるが詳しい事は分かっていない。この時代の幕府は何かと理由をつけては外様大名を改易しており、やはり転々と寝返りの人生を送ってきた上に、関東にルーツをもつ有力一族であった彼の存在は邪魔だったのだろうか……。
木曾へと配流された重信は翌年死去。大坂での傷が原因とも、自殺であるとも言われる。身一つで大名にまで出世し、徳川家康の天下取りをアシストする形になった男はこうしてひっそりと世を去り、乱世を生き抜いたかに見えた藤田氏は断絶した。
補足
どうにも中途半端な典型的二軍武将である。列伝では冒頭に「武田家臣」と書かれているが、上で述べているように武田家に仕えていたのは2年程度だった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 144(A) | 智才 | 122(B) | 政才 | 114(B) | 魅力 | 48 | 野望 | 74 | ||||
将星録 | 戦闘 | 62 | 智謀 | 65 | 政治 | 60 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 36 | 戦闘 | 52 | 智謀 | 56 | 政治 | 48 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 41 | 智謀 | 50 | 政治 | 42 | 野望 | 65 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 52 | 知略 | 58 | 政治 | 43 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 52 | 知略 | 58 | 政治 | 43 | 教養 | 37 | ||||||
革新 | 統率 | 61 | 武勇 | 59 | 知略 | 65 | 政治 | 48 | ||||||
天道 | 統率 | 61 | 武勇 | 59 | 知略 | 65 | 政治 | 48 | ||||||
創造 | 統率 | 59 | 武勇 | 59 | 知略 | 64 | 政治 | 51 | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 59 | 武勇 | 59 | 知略 | 64 | 政治 | 51 |
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関連項目
脚注
- *という事はそれ以前は別の名前を名乗っていたと思われるのだが、資料が残っておらず不明。ちなみに藤田氏の通字は「重」。用土重連の存命時点での北条家臣団の中に、沼田城代に藤田重信、鉢形城代に藤田政邦という名が見えるが関連不明。
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